K149 最後の協力者
バンダナの向こう側に、瞳孔の小さな瞳が見える。月光を受けてなお白っぽく、薄い青色を反射する短髪は、黒一色の服装では一層目立つ。
どこか、寂しそうにも見えた。そうフィーナが感じたのは、気のせいだったのかどうか。
腕を組んだまま持ち上がった顎が、やがてある角度で停止する。
テイガ・バーンズキッドは、自身が体重を預ける緑葉樹を見上げ、更にその向こう側に垣間見える月を眺めているように見えた。
フィーナは現れた男を前にして、心臓を鷲掴みにされるかのような緊張を覚えていた。
「奪わなければ、奪われる」
だが、その一言に少しだけ、心の束縛を緩めた。
盗賊の情報屋。血に手を汚す事も厭わない男であることは、雰囲気から直ぐに察する事ができる。そこに同情や善意など、含んでいる余裕は無いようにも見える。
だが、だからこそ不自然だった。目まぐるしく変わっていく戦況。暴走する少女を前にして、姿を現すということは。
「騙さなければ、騙される。殺さなければ、殺される。隙を見せれば背中から刺される。そういうモンだ。……温泉みたいな半生送ってるてめえらにゃ、分からない事かもしれねェが」
初めて、テイガがフィーナの方を向いた。
「長いものには巻かれろ、だ。それが正しい。ベティーナ・ルーズは『正しかった』……強者ってのァ、ほんの一部だ。大多数は、強者に媚び諂う事でどうにか『生かされる』。だが、そんな生き方は嫌だ。だから抵抗し、死を選ぶ奴がいる。それはそれで正しい。何故だか分かるかい?」
「…………いいえ」
テイガは蛇のように舌を出し、まるで威嚇するかのような笑みを浮かべた。フィーナはその様子に寒気を覚えて、一歩、テイガから離れる。
「生きたくねェからだ。なら、死ねばいいだろうよ」
その理屈は単純だったが、思わず納得させてしまうような力強さも併せ持っていた。
「日和っているんだ、お前等は。魔力、魔力、魔力…………魔力だ。この世に魔力という名の凶器がある限り、戦争は止まねえ。魔力が強いモンが強者だ。人類平等だと? 馬鹿言っちゃあいけねえよ。『平等感』って言うんだ、それは。真の意味での平等なんか、この世に存在しねえ。……際限なく魔力を使えるゴールバードは、世界で最も神に近かった」
湧き出る泉のように、流暢にテイガは言葉を紡いでいく。しかし、テイガの理屈は正しいようにも感じられた。それは、ある意味ではこの世を明瞭に映し出す言葉――――或いは、鏡のようなものであった。
だが、しかし。
たった一言、近かった、と。確かに、テイガはそう言った。その言葉の意味を、フィーナはすぐに察した。
たった一度でも、その神にも近い存在を覆した男がいた。自分の持てる知識を総動員し、あっさりと己の限界を超えて、自由自在に魔力をコントロールする男に罪状を叩き付けた。
「媚びたくはねえ。だが、死にたくもねえ。そういう俺みたいな男は、闇に紛れる。死にたくねえなら、自分が死なない理由を作ればいい。……そう、『生かさなければ損をする』人間になれば良いんだ。そうやって俺ァ生きてきた」
その先に続く言葉を、フィーナは理解した。
嘗て何処の属性ギルドからも弾かれ、放浪者となった男がいた。自由を代表すると言えば聞こえは良いが、実質的に社会から爪弾きにされた男。彼が生きてきた軌跡は、他の誰とも置き換える事は出来なかった。
「だが、正面切って社会に盾突く奴がいた。普通、強者に反旗なんてモンを振る阿呆は真っ先に死ぬ。あれだ、あのクソ馬鹿な猫男みたいに――――」
「ロゼッツェルの事を悪く言うのは、お止めなさい」
ガングが、テイガの言葉を遮った。テイガはその様子に押し殺したように笑い、ガングから目を逸らした。
「いやいや、悪くは言ってねえよ。良いんじゃねえか、クソ馬鹿でも。そうやって幸せを感じる奴も居るモンだ。平和バンザイ、ってな」
不意にテイガの表情が、雰囲気の悪い嘲笑から、険しいそれに変わった。
「呆けた事言ってんじゃねえ、って感じだが。他人を護るとか言いながら、何故か死なない男がいた。……不思議だろ、そいつは強者に抗うだけの能力みたいなモンを、明らかに足りない経験で補っていくんだ。まるで、一度一度の失敗を骨までしゃぶって吸収してるみたいになァ」
危険になる事はあっても、死ぬ事はない。それを、繰り返してきた。
「興味が湧いたよ。そしてあいつは――――『また今回も、死んでねえ』」
樹の幹から、テイガは全身をフィーナとガングに見せた。
フィーナの足下に向かって、テイガは右手を放る。何かが捨てられた。フィーナが視線を移すと、そこには色褪せくたびれた、いつか見た財布が転がっていた。
紛れも無く、ラッツ・リチャードの財布。
「オリバーだな。そこのジジイがどうやってラッツを助けようとしているのか、概略は分からねェでもねーが……分かってんのか? この期に及んで、まだ『境界線』を超えた人間を増やすつもりかよ」
既に、テイガはガングの策略について理解しているようだった。彼の膨大な情報量がそれを推理させるのか、どうなのか。
しかし、間違ってもいないようだ。ガングは未だテイガを信用していない様子だったが。ガングはコートのポケットに手を突っ込むと、首の関節を鳴らした。
「申し訳ありませんが、四の五の言ってられませんでねえ。……いやー、しかし貴方、何者で? まだお若いのに、随分と過去の事に詳しいようですね」
テイガは不気味に笑い、左手を掲げた。
そこに、テイガの飼い蝙蝠であるアクセルが留まる。アクセルはすう、と息を吸い込むと、超音波にも似た奇声を発した。ガングは平然としていたが、フィーナは思わず耳を塞いでしまう。
直ぐに、異変は起きた。
森の奥から何十匹――いや、何百匹――見紛うことも事もない蝙蝠の大群が、冒険者の砦目掛けて飛んで来た。テイガは両足で後方に向かって跳躍し、先程まで姿を隠していた緑葉樹の天辺に爪先で着地した。
テイガ・バーンズキッドとアクセルを中心として、数百の蝙蝠が集結し、飛び回る。
――――これが、『盗賊』か? フィーナは目の前で繰り広げられる奇妙な出来事に困惑した。大群に囲まれて両手を広げるテイガは、下半身だけを透けさせた。奇妙にも上半身だけが、緑葉樹の上に浮かんでいるかのように見えた。
<ハイドボディ>。
だが、それは只の<ハイドボディ>ではないと、フィーナの直感が告げていた。
姿を消そうとも、気配までを消すことは本来出来ない事だ。音や匂いなど、その一切を今まで感じる事は出来なかった。
盗賊のスキルと言えど、本来そこまで優秀なものではない。
「……で? どうすんだ、テイガ」
アクセルの不躾な言葉に、テイガは口の端を吊り上げた。
「良いぜ、協力してやろう。報酬は――――そうだな。フィーナ・コフール、てめェの『知識』を貰う。奪いはしねェから安心しな」
バンダナの影に隠れた瞳が見開かれ、真っ直ぐにフィーナの視線を射抜く。蝙蝠の大群がフィーナへと迫り、テイガの上半身が浮遊するかのように、重力に逆らったままでフィーナの目の前へと現れた。
「覗き見るだけだ。……ただ、その全てを貰おう。それでいいな?」
下顎を撫で、テイガは怪しく双眼を光らせた。フィーナは唇を真一文字に結び、緊張に全身を硬直させる。
だが、決死の覚悟で頷いて見せた。
「『知識』……ですと? ……いやー、貴方、まさかとは思いますが……」
ガングの言葉には、テイガは反応しない。
「……キヒヒ、初心者奪還か。これで、俺も『境界線』の覇者ってワケだ。胸が躍るぜ」
闇夜に浮かび上がる身体は、とても人間には見えない。
まるで、吸血鬼。魔族のようにすら感じられる――……
「東の島国に行くぜ。俺に付いて来い」
○
フィーナは東の島国へと向かう為、大陸の端まで来ていた。
大海原は遠く、暫くはガングに掴まったままで居なければならないだろうか。
「おーい!!」
背後から聞こえてくる声に、フィーナは振り返った。
遅れて、フィーナの下へ走って来た人影があった。テイガと組んでラッツを助けに行くと知れれば、少なくともベティーナは黙っていないだろう。それを見越して、フィーナ達はテイガの事には触れず、置き手紙を残してペンディアム・シティを離れた筈だった。
まさか追い掛けられているとは思わず、フィーナは目を丸くした。
桃色の猫っ毛を元気に揺らし、アイテムカートを転がして全力疾走する娘の姿があった。相変わらず肌寒さを感じそうな薄手のタンクトップにホットパンツ。上半身には、何故か達筆に『漢気』と書かれていた。
チーク・ノロップスターはフィーナが振り返った事を確認すると、嬉しそうにはにかんで手を振った。
「良かったあ……!! もー、ガング師匠マジ速過ぎるんだもん空飛ぶとかナシ!! 乙女の脚力はそんなに強くないんだよ!! 悲しくないのに涙が出ちゃう、でもドキドキ恋煩い止まらない!! に近い感情を覚えたよあたしは!!」
「走って追い掛けて来たんですか……!? いやー、信じられない……実は私よりもよっぽど怪物なのでは……」
自分が怪物だという認識はあったらしきガングが、珍しく慌てた様子だった。
チークを連れて行く事は出来ない。実力として不安が残るという事もあるが、そもそもゲートを潜る事が分かっている以上、チークを入れると都合四人を超えてしまう。フィーナは戸惑いを覚えたが、その様子にチークは苦笑した。
「いやいや、行くなんて言わないよ流石のあたしもそんなに空気読めない事言わないってばさ。実はちょっと持っていて貰いたいモノがあって、フィーナたんにお願いしたかったんだよね」
「…………持って貰いたいモノ、ですか?」
そう言うと、いそいそとチークはアイテムカートから何かを取り出して、フィーナに見せた。
それは白銀に光る、掌にすっぽりと収まる程の小さな盾だった。逆三角形の金属は月の光を受けて鈍く輝き、先端にはアメジストのような宝石が埋め込まれていた。
これは――……。フィーナは受け取ったそれをどう扱えば良いのか分からず、困惑していたが。チークは両手を組んで頭の支えにすると、屈託の無い笑みをフィーナに向けた。
「宝石に魔法が掛かってるんだ。念じるだけで、両手を広げたくらいの大きさの盾が出る仕組みだよ。強度は一応ミスリル以上、あたしの作った特性金属だから、大切に使ってよね」
わざわざこれを届ける為に、追い掛けて来ていたとは。思わぬ配慮に、フィーナは微笑みを浮かべた。
「ちょっと、待ってください。あれは…………」
不意に、ガングが剣呑な声色で一同に声を掛けた。その場に居たフィーナもチークも、蝙蝠に包まれて空を飛んでいるテイガもまた、ガングの視線を追い掛ける。その異変を目視して、テイガが目を見開いた。
空が、裂けている――――…………。
例えるなら、そう呼ぶのが正しい表現だったのだろうか。輝く星空に、まるで卵の殻が割れる瞬間のように亀裂が入っていた。じっくりと見なければ気が付かない程度のものだったが、明らかにその様子は普通ではなかった。
常識の範疇で理解出来る事など、とうに超えていた。誰もが尋常ではないその事態に恐怖し、吸い込まれるような大空を凝視していた。
「……天より舞い降りし『紅い星』現れ……か」
ぽつりと、テイガが言葉を漏らした。ガングはその言葉に大きく頷いた。相変わらず虫の羽音のような音は宙に浮かぶガングから聞こえ続けてはいたが、しかし冗談を言うような空気でもなかった。
深刻な顔色は包帯の上からでも理解できる程に巌しく、普段の呑気な様子は何処かに消えていた。
「あまり、時間が無いようですね。早く、リリザの居る場所まで向かわなければ」
「……あれは?」
フィーナが問い掛けると、ガングは首を振った。
「分かりません。空が裂けるということそのものは、過去にあった出来事ではありませんが……いえ、『無いとは思いますが』。それさえも、今のままでは虚空に隠された宝玉のように、或いは曖昧に揺れ動く天秤のように地に足の付かない考えでしかない」
ガング・ラフィストは、『紅い星』についての記憶を失っている。だからこそ、過去に前例が無いとは言い切れないのだろう。
テイガはチークに背を向けて、我先にと進み出した。
「急いだ方が良さそうだな。時間を無駄にはできない」
一人取り残される事になったチークが、寂しそうな笑みを浮かべた。フィーナはその顔を見て、少し申し訳ない気持ちになった。
「チークさん。……ごめんなさい」
「あー、いーよいーよ!! あたしは元々、戦闘に秀でているタイプじゃないしね!! 文学少女が運動会に出ても、あんまり役に立たないのと一緒でさあ!!」
掻き消すように、チークは思い切りの言い声音で、目の前の状況を納得させる為の言葉を選んだ。
きっと、共に行きたかったのだろう。それはフィーナにも分かっていたが、同時に自分が何の役にも立たない事を、チークは理解していた。思えば彼女の元気な様子は、自身をネガティブにさせないための興奮剤のような役割も果たしていたのかも知れないと、フィーナは思った。
「それじゃ、あたしはこれで――――」
手を振る傍ら、チークはテイガを指差して、不敵に笑った。テイガはその場に止まり、チークの事が少し気になったようだったが――……
「あたし、あんたのこと嫌いじゃないよ。ベティーは嫌がるかもしれないけど。独りでやらないといけないこと、全部やってきた。……なんか、そんな気がする」
テイガはチークと目を合わせない。背を向けたままで、チークの言葉を受け止めているようにも見えた。
「信頼できる仲間が居なければ、協力することも出来ないもんね。あんたは団結して力強さを発揮できるだけの優秀なパートナーを、今まで持っていなかっただけなんだ。だったら、孤独な方が良いじゃない」
そうして、テイガの事を分かったかのような言葉を並べ立てる。だが、チークの瞳に迷いはなかった。
「信頼した人が居なくなっちゃうのはさ、やっぱ、つらいよ」
蝙蝠に隠れた男の背中に、チークは人情的な想いの内を投げ掛けた。
「でも、あたし達は違うから。ちょっとは、信頼してくれていいんだ。大丈夫、誰もあんたの足を引っ張ったりしない」
「…………買い被り過ぎだな。俺ァ、別に協力した相手が死ぬ事について何とも思ってねェよ。そいつは、弱かった。それだけだ」
「おまえら、あたしが付いてるッ!! 遠慮せずに力を発揮してこい!!」
テイガの言葉を無視して、チークは仁王立ちになった。その様子にテイガが僅かに舌打ちをして、それ以上チークと何を言い合う事もなかった。
しかし、ほんの少しだけ、テイガ・バーンズキッドの雰囲気が柔らかくなったかのような。
錯覚かもしれない程に僅かな変化に、フィーナは薄く微笑んだ。




