K148 彼はまだ、生きています
どれだけ神に祈ったとしても、そこに何を求めたとしても。思い描いた希望は、現実にはならない。そんな事は、とうの昔に経験していた事だった。
太陽がすっかり顔を隠し、壮麗な三日月が重い腰を上げ、大地に微笑みを見せるようになった頃――――ようやく、フィーナはその場所から立ち上がった。
既に、その大部屋に人気は無かった。沈黙してしまったフィーナを気遣うかのように、それぞれは何を問い掛ける事もなく、自身の定められた部屋へと戻っていた。
海の向こうに見えるユニバース大陸の森から海風に流されて、時計の秒針を刻むように規則正しい梟の鳴き声が聞こえていた。
天井に光源を持たない真っ暗な部屋に、僅かな明かりが漏れていた。未だスーツケースの中に鎮座していた道具を広げ、闇夜の晩餐会のように様々な液体や個体を並べて調合を繰り返すガングの背。座っていてもフィーナの胸ほどまで高さのある巨体を一瞥し、フィーナは自身の背にある窓から外の景色を眺めた。
窓を開けると清涼な湖風は頬を撫で、腐った思考を洗い流してくれる。
幾らか冷えて落ち着いた葛藤を、心中の壺に入れて蓋をする。そうすることで、冷静な思考は蘇ってくる。
何を迷うことがあるというのだろうか。一度決めた覚悟を、捻じ曲げる訳にはいかない。
フィーナは窓枠を掴み、砦の外へと身を乗り出した。
「…………いやー、大丈夫ですか、フィーナさん」
顔も向けず、ガングは言った。気を遣いすぎる事もなく、まるでお守りか何かのように、ただそこに居てくれる。すっかり目を掛けてくれるようになった孤高の年配者は、嗄れた声でフィーナの名前を呼ぶ。
思わず、フィーナは笑みを浮かべてしまった。
「ありがとうございます。……やっぱり、心配してくれていたんですね」
「いやー、実は私は、貴女に謝らないといけない事がありましてね」
何だろうか。ガングとの関わりなど、ラッツを通して以外には何も無かったように思えるが。フィーナは振り返り、窓枠に尻を乗せてガングの背中を見詰めた。
沈黙が訪れた。ガングはせっせと作業しているようでいて、しかし何処か手の動きに迷いが感じられる。海風と梟の鳴き声だけが響き渡るこの場所で、二人の間に起きた沈黙を破るには相応の時間を必要とした。
それは、ガングが意を決する為の時間だったのか。
「貴女の父――――ウォルテニア・コフールは、死にました」
闇夜に揺らぐように、フィーナの瞳孔が僅かに開く。
ただ、その言葉を。
娘であるフィーナに、伝えるつもりだったのだろうか。
「気付きませんでした。ゴールバードが裏でやっていた事も、いつの間にかセントラルの権力事情が逆転していたことも……。いやー、情けない限りです」
「ガングさんのせいでは、ありませんよ」
「私は、彼やエトと同期でした。……惜しい人を亡くしたものです」
フィーナは、自分の父親についてあまり情報を持っていない。だからなのか、あまり衝撃を覚える事はなかった。しかし、孤独に身を置いていて尚、肉親と云う名のの命綱から手を離してしまったかのような想いは、フィーナの心中を駆け抜けた。
欠けたものは、もう元には戻らない事もある。
ガングは首だけを天井に向け、作業を止めた。レンズ状の瞳に、亡き友の記憶を蘇らせているようにも見えた。その人情の機微に触れたような気がして、フィーナはガングから目を逸らした。
ペンディアムからも見る事の出来る、遠い西の空に見える不気味な城。ペンディアム・シティの人間達は噂話を耳にする程度だったが、もう少し近くに寄った街では、さぞ仰天された事だろう。何しろ、山の中に唐突に城が現れたと言うのだから。
魔王城を取り巻いていた白い光は、程なくしてその姿を消した。それから今に至るまで、闇に染まる城はひたすらに沈黙を守り続けている――……。
消えたのかもしれない。憂いに包まれた少女は、確かに混乱から狂気への境界線を踏み越えていた。あのままでは、少女がどのような決断に至ったとしても不思議ではなかった。
「真実へと近付く事そのものは、神に対する冒涜ではありません。何よりも罪深いのは、『真実』を理解したが故に満悦し、この世で唯一無二の存在になったのだと錯覚してしまうことです」
ガングは立ち上がった。広い背中に隠れていた、地面に転がった数多のアイテムが顔を出す。ガングは乳白色の液体が詰まった試験官を揺らしながら、フィーナに視線を向けた。
「真実を知ったところで、私達人間は人間としての領域を超える事はできません。それはいち生物としての単なる独善であり、自分自身に対する欺瞞に他なりません。子供が産めるのだから、自由に生物を創り出せる筈だと思い込むようなものですよ」
程なくして、ガングの試験官から手が伸びてきた。白い液体だった筈の中身は自ら試験官から這い出て来るように動き、やがて半固形状の身体のままで、テーブルへと飛び跳ねた。
寒気を覚えるような奇声を発しながら、球体とも呼べないゼリー状の物体がテーブルを這い回る。液体から手だけが伸び、眼球も持たずに口だけを出現させていた。
だが、すぐに気付く。それは意志を持っている訳ではなく、規則的に奇声を発し、前方へと跳んで行くだけの物体なのだと。テーブルから落ちると液体は潰れ、肉が焼けた時のような音を立てて蒸発した。
「……ひとつだけ、気になっている事があるのですよ。……いやー、もしも覚えていたら、で構わないのですけどね」
ガングはその光景に驚きもせず、フィーナを見据える。
卓越した技術。幾つもの時代を乗り越えた、嘗ての戦士として。
「ラッツさんの死体は、あの場に転がってはいなかった。そこでひとつ…………彼は、リリザの攻撃を受けて跡形も無く吹き飛んだのですか?」
リリザ。それが、彼女の名前なのだろうか。紛れも無く、ダークブラウンの髪を持つ、恐るべき魔力を秘めた少女の事だろう。
ラッツを消滅させた、張本人。
だが、その問いはフィーナに答えられるものではなかった。瞬きもせずに首を振ると、フィーナは自身の身体を両手で抱き締めた。
「…………分かりませんわ。消し飛んだようにも……光の粒になって、消えたようにも見えました」
一頻り、考えた。長い沈黙のあと、ガングは腕を組んだまま、徐ろに大きく頷いてみせた。
「なるほど、なるほど。いやー、なるほど」
一体何について納得しているのか、フィーナには分からなかった。自身に括り付けられた、不気味に光を反射する望遠鏡を摘み、回転させる。複雑に絡み合った事情を、推理しているようだ。
不意に、ガングは右手の人差し指を立てた。すると、彼の頭上に豆電球のようなマークが現れる。
普段ならば、分かり易いが緊張感を削ぐ演出といったところだろうか。今のフィーナに、その行動を咎める事は無かったが。
「彼はまだ、生きています」
しかし。その言葉はフィーナの瞳孔を開き、止まりかけていた心拍を復活させるには、充分過ぎる効果を持っていた。
流行る気持ちを抑えられず、テーブルに両手をつき、ガングの真意を確かめようと身を乗り出した。ガングは下顎を左手の親指と人差し指で撫でながら、未だ宙に浮いた考えを包帯巻きの頭で整理する。
どうして、そのような結論に至ったのか。それを、知りたい。
「ガングさん。……どうして、そう思ったのですか?」
「いやー、予想と言えば予想なのですが……」
そうして、ガングは語った。
「リリザは、生物の命を奪う事を非常に恐れています。唐突に現世へと召喚された事に発狂したとしても、そこまではしないと思うのですよね」
なるほど。フィーナはあのリリザという少女と話した事は殆ど無かったが、ガングがそう言うならば間違いはないのかもしれない。フィーナは、ガングの言葉を信じる事にした。
何れにしても、ラッツがまだ生きている可能性があるとするならば。自分は、地の底でも這ってラッツを救うと、決めていた。
ようやく、ガングが如何として思考を整理するに至ったのか、その理由が明確になった。ガングは今、ラッツ・リチャード救出に向けての策を練っているのだ。
巨躯を屈め、広げていたアイテムをスーツケースに戻した。先程創り出した白い液体の他に、ガングはアイテムを創り出していた――……中央に楕円形の宝石が嵌められた、砂時計のような形のアイテムだった。
何に使うのかは分からなかったが、ガングはそのアイテムだけをコートのポケットに入れた。
「『魔王城』は、人間界と同化してしまいましたから……人魚島のゲートを使いましょうか。一先ず、彼に会いに行きましょう」
「彼…………ですか?」
ガングはすぐそこの酒場に行くような気軽さで、スーツケースの持ち手を握った。
「オリバー・ヒューレット。巨大な鼠に姿を変えられた、歴戦の勇者ですよ」
○
ガングは『ゲート』を使って移動する必要があるため、全員で向かう事はできない旨をフィーナに説明した。フィーナ、ガング、そしてオリバーと呼ばれた男を含めると、連れて行く事が出来るのは後一人だった。
冒険者の砦、その出入口の裏側に回ったフィーナは、目を閉じて辺りの気配に意識を集中させた。
フィーナを見下ろす琥珀色の三日月は、頂点まで昇り詰め、徐々にその姿を地平線に向かって落下させていた。耳を澄ませば、聞こえて来るのは反響を伴う波の音。そして、海風に撫でられて葉擦れを起こす、庭のようなスペースに植えられた若芝と緑葉樹だった。
ざあ、と吹き抜ける風は夜明け前の冷たい空気を循環させる。風に煽られて発生した小さな波が、街からは僅かに離れた砦の城壁を淡々と打ち付ける。
レオ、ロイス、チーク、ベティーナ。その四人とも、今の状況を好転させる為の鍵には成り得なかった。今この場では、例えば、学生時代のラッツのように――――黙々と情報を採取し続ける存在。その知識が必要だった。
「出て来て、くださいませんか」
オリバー・ヒューレットは、その身を隠すために様々な場所へと移動し、酒場に顔を出すらしい。だが移動に規則性はなく、気まぐれに魔界の街々を放浪している、という事だった。
暗闇の中に僅かではあったが、異変が生じる。未だ音はせず、姿を現す事も無かったが。それでも、フィーナはここに居ると確信していた。
何故、魔王城等という人気のない場所に居たのか。自分が助けられたその理由についても、フィーナは気になっていた。
それだけラッツ・リチャードを追い回す程に興味を抱いている人間なら、ラッツが居なくなった今、興味の対象は自分達に向けられている筈ではないかと。
そのように、フィーナは推察していた。
「私達には、貴方の協力が必要ですわ」
臆することなく、フィーナは言った。
暗闇の向こう側に、変化があった。それは、一瞬の出来事だったが――――海風に濡れて僅かに湿った樹の幹の、向こう側。握り拳程の大きさの蝙蝠が、不服そうな顔色を浮かべて、フィーナと目を合わせていた。
アクセルと呼ばれただろうか。ころころと表情を変える翡翠色の瞳は、フィーナの動向を窺っているように見えた。
「……キヒヒ。懲りねえなァ……元・セイントシスターの御令嬢。協力ってのァな、もっと信頼出来そうな奴に頼むもんだぜ」
どこからか、声が聞こえてきた。場所は特定できない――盗賊には、そういったスキルもあるらしい。あまり知られていない裏ギルドのスキルだ。フィーナでさえ、ラッツの使う<キャットウォーク>程度しか見た事もない。
身を隠し、忍び、盗み、或いは闇討ちする事にその真髄を見出す職業だ。スキルもまた、隠密的に行動する為の能力に富んでいる。
若しも怒らせたとしたら、フィーナが攻撃される事も考えられるだろうか。
僅かな緊張も胸の奥底に押し殺し、フィーナは喉を鳴らした。
「なら、どうして私を助けたのですか?」
再び、その質問を口にした。
「言っただろ、只の気まぐれだってな」
「貴方に限って、それは有り得ません」
フィーナは、その返答を予測していた。予め準備しておいた言葉を、幻影のようにくぐもった声に向かって投げ掛ける。
「そうでしょう? テイガ・バーンズキッド。目先の損得に囚われず、真の意味で孤独を愛し、自分の為だけに動く人間は。……間違っても気まぐれで他人を助けたりなんてしませんわ。そこには必ず、何か理由があった筈です」
オリバーを見付ける為には、テイガの時事的な情報・知識が必要だ。
フィーナは胸に手を当てて、言葉を紡いだ。
「――――そして、貴方本人でさえ、その行動を予測出来なかった」
風向きが、変わった。辺りの空気に、ふと異変が生じたようにも感じられた。
ツンと鼻先を痺れさせるような海風が、琥珀色の三日月に呼応するように輝くフィーナの銀髪を揺らした。手応えを感じたフィーナは、意識をどうにか自分に向けさせようと努力する。
碧眼は虚空を見据え、語り掛けるようにフィーナは言う。
「だから、思いも寄らず助ける事になったのでしょう? あの時、貴方は驚いているようでしたわ。自分自身が起こした行動について、本人さえ分からないみたいに――――だってそれは、有り得ない事ですもの。有り得なかったでしょう。自らを危険に晒し、他人を助ける等という真似を。例えお金を積まれても、貴方がする訳がない」
そう、言い切った。
フィーナの心の奥底で、懐疑心は揺れ動く。本当にこの男を信頼して良いものかどうか、と。結論など見出す事は出来ない、考えるだけ無駄な疑惑だった。
しかし、この男を信頼しないのであれば、他に誰を信頼すべきだと言うのだ。
彼は、ラッツの財布を捨てずに取っておいた。
何故?
何の為に。
それは、ラッツ・リチャードに彼が興味を持っていたから。
「しませんわ。『気まぐれ』なんて」
気が付けば、フィーナは見ていた。
冒険者の砦、その裏側に孤独に聳える一本の大木。若芝に囲まれて四季を過ごす、ガングよりも歳月を通り過ぎたであろう物言わぬ賢者の向こう側に。
テイガ・バーンズキッドが、腕を組んで木に凭れ掛かっていた。