K147 闇よりの逃走
フィーナ・コフールは、我が目を疑った。
先程まで、確かに彼女の信頼する幼馴染――ラッツ・リチャード――は、確かにそこに居た。優雅に装飾の施された黒服の少女が憂いにも似た表情で左手を翳したかと思うと、白銀色の光に包まれて、青年はその場から忽然と消滅した。
立ち止まり、頭が真っ白になっていた。青年が消えても尚、黒服の少女は吹き荒れる嵐のような魔力と共に、止まらぬ悲鳴を枯れた地面へと叩き付け、意識を混濁させていた。
「え…………?」
時間が止まった。顔の筋肉が硬直し、幾度と無く瞳孔は痙攣する。突然に部屋の電気を消された時のように、フィーナの視界には何も映らなかった。
遅れて、騒々しく雑音を響かせながら仲間達も到着する。長い階段を登り、フィーナの居る所へと。だが、そこに上がって来てはいけない。或いはラッツのように、黒雲に目先の進路を奪われた少女によって全てを無に帰してしまう。
だが、フィーナにそれを咎めるだけの正常な思考を保つことは、既に不可能となっていた。
ただ目の前に居た筈の人物がそこから消えた現実を認められず、視線は虚空を彷徨い、動作すら覚束ない。
「どうした、フィーナちゃん!!」
先頭を走っていたレオがフィーナに追い付き、盾になるように最上階の部屋へと飛び込んだ。そうして、暴れ回る闇の化身の存在へと目を向ける。
気付いたレオが愕然とするまで、幾らも時間は掛からなかった。
戦意は喪失したようで、レオもまた、一度は構えた黒刀を降ろした。塵のように部屋の端で転がっているゴールバード――元・不死の存在を前にして。その剣筋は、標的を見失ったように見えた。
まだ、ゴールバードが現れていた方が幾分はましだったのかもしれない。つい先程まで共に居た少女は変わり果てていた。無作為に発された質量を伴う球体の攻撃がレオに激突し、僅かな呼気と共にフィーナの横を猛然と通過していく。
足下を掬われるような、地震も止むことはなかった。
一体これは、何が起こっていると言うのだろうか。
「ここは危険です……!! 一旦、引きましょう……!!」
遅れて登場したガングが、全員にそう伝えた。ガングは茶色のコートから拠点へと帰る為の道具――『思い出し草』――を取り出し、別のポケットから発火装置にも似た道具を取り出し、思い出し草へと向けた。
炎の代わりに、出現したのは魔力だった。その装置により、ガングの手にしていた思い出し草は淡く光り出す。
ロイス、チーク、ベティーナと続き、ガングは巨大な球体からレオを引っ張り出した。その間もフィーナは、ただ呆然と少女の破壊行為を眺めていた。
まだ、ハンスが残っていた。ガングもそう思ったのだろう、塵と埃が際限なく舞い上がる見通しの悪い部屋を眺め、その姿が見えない事に焦燥していた。
「フィーナさん!! 早く、こちらへ!!」
ガングの言葉は、フィーナの耳に届く事は無かった。急に暗闇になってしまった視界は遠く、その碧眼には何も映っていなかった。目の前で先程まで繰り広げられていた騒動を肯定する事は、どうしても出来なかった。
「嘘…………。嘘、でしょう…………?」
汚れた床に膝を突き、隠す事さえせずに狼狽した。鳴り止まない轟音。フィーナの真横を掠めていく炎、雷、その他様々な天変地異にも似た乱撃。僅かにフィーナの頬に触れた攻撃が、頬を赤く染めていく。
フィーナは、自身が傷付いた事にすら気付かない。迷走する思考の中、浮かび上がって来る言葉はたったひとつ。
――――これは、悪夢であるか。
今すぐにでも、陽光に照らされた暖かなベッドで目が覚めるのだと信じたい。
既に自我を消失しているフィーナへと向かって、紅色の椅子が真っ直ぐに飛んできた。少女が暴れているが故の現象だということは明らかで、気付いてさえいれば、誰にでも躱す事の出来る異物だった。
「フィーナさん!!」
しかし、フィーナの視界にそれは入らなかった。それどころか、もう少女に目を向けてさえいなかった。
頭部目掛けて、椅子が飛来する――――…………
不自然にも、その椅子はフィーナの目前で真横に弾き飛ばされた。
その衝撃に初めて、フィーナが気付いた。涙で滲んだ顔を上げると、見た事のない人物が、そこには立っていた。
瀕死のハンス・リースカリギュレートを、肩に背負い。水晶のように色素の薄い宙色の短髪は、鉢巻のように額で巻かれたバンダナによって持ち上がっている。
動き易そうな薄手のジャンパーに、ポケットが通常よりも遥かに多い、若干裾の短いカーゴパンツ。まるで盗賊のような、暗闇に紛れる黒一色の服装に、猛禽類のような鋭い目つきの男だった。
誰?
問い掛けるでもなく。フィーナは、男と目を合わせた。投げナイフを投擲したと思われる、不自然に持ち上がった右腕を硬直させていた――――バンダナの男は、まるで自分自身の行った行動が信じられないと言っているかのように、驚いて固まっていた。
一体今まで、何処に居たのか。姿を消して、隠れていたのか。
「テイガ!! ここはやべえよ!!」
男の隣で忙しなく飛び回っていた蝙蝠が、耳障りな声色で男に忠告した。
時間は無いと判断したのだろう。目が覚めたかのように動き出した男は舌打ちをひとつ、フィーナに向かって猛然と駆け寄った。範囲内に留まると、男はガングを一瞥した。
「『思いだし草』、持ってるんだろ。くれ」
「あ、ああ、はい。しかし、貴方は」
「説明は後だ。フィーナ・コフールを殺したくなけりゃ、さっさと寄越すんだな」
奪い取るようにガングから『思い出し草』を受け取り、男は帰還の転移魔法を発動させた。フィーナの見ていた景色は柔らかな光に包まれ、『魔王城』から人間界へと居場所を変える。
たった一人、その場所で消滅してしまった――――ラッツを残して。
○
無骨な印象の石畳だけを見れば、海の上に浮いているとは到底思えない。外壁は幾らかの苔も確認する事ができるが、その印象は決して不潔ではなく、何処か神々しささえ感じられる。
セントラル大陸とユニバース大陸のちょうど中間。元は二つの大陸を結ぶ通路だった巨大な木橋は、いつしか都市と成り代わり、観光客を呼ぶまでの人気を勝ち取っていた。
ペンディアム・シティ。そこには、ラッツ率いる『ギルド・ビギナーズラック』の本拠地があった。本拠地と言えども旗も装飾もなく、人数も少ない。通常ならば、城を構える理由など毛ほども見付からない弱小ギルド、という扱いだっただろう。
だが、その場所ではラッツ・リチャードは有名だった。嘗てペンディアム・シティの外れにあった、今現在彼等の所有している冒険者の砦は、元は人間界でも有名な大型ギルド『荒野の闇士』が抱えていた拠点だったからだ。
事情は有れども、結論的には彼等に勝利した。
数人で住まうには広すぎる居場所。しかし、そこが彼等の本家だった。
――――彼等とは言え、その中心人物となる『彼』は、その場所には居なかったが。
ペンディアム・シティに帰還した冒険者達は、砦の大部屋に集まっていた。しかし、部屋の隅で人形のように座り込んでいる娘の姿に何も言えず、その場には静寂が訪れていた。
フィーナは『魔王城』で何が起こったのか、それさえ理解していなかった。いや、受け入れられなかった。
今度は、どんな手段を使ってもラッツを護る。自分はそのように、決意した筈ではなかったのか。どうして、何も出来なかったのか。そのような想いは、輪廻のようにフィーナの脳裏を掠めては巡回し、また元の場所へと戻ってくる。
仕方なかった。どう考えても、フィーナにどうにか出来る状況ではなかった。それが気休めの言葉にならない事が分かっているからか、誰もフィーナに口を挟まない。
暗黒に包まれた視界に、乾いたままで潤う事のない口内。
涙をする程に現状を受け入れる事はできず、また一瞬の出来事に納得出来る理由も付けられない。
故に、呆然と人形のように座り込んだ彼女。
どうして。……一体、何が起きたのか。
ただ、それを考えるばかりだった。
「やはり、二つの世界は融合したようだなァ。西の空に『魔王城』の姿が見える――――お前さん達も、もっと遠くに逃げた方が良いぜ」
扉を開けて入って来たのは、先程まで砦の上空から辺りを見回していた、バンダナの男だった。肩に蝙蝠を乗せたまま、まるで今まで状況を観察していたかのように、男は冷静に状況を見ていた。
誰もが、唐突に現れたバンダナの男に驚いて、固まっていた。沈黙の中、たった一人その男を知っていた少女が、壁に凭れて腕を組んだまま、男を睨み付ける。
「…………テイガ・バーンズキッド」
言葉を発したのは、ベティーナ・ルーズだった。フィーナはベティーナに向かって陰湿な笑みを浮かべるバンダナの男――――テイガ・バーンズキッドに、視線を向けた。
「キヒヒ。久しぶりだなァ、ベティーナ。……治安保護隊員の犬よ」
「失礼ね。今はラッツの犬よ」
「あ、それでいいんだ……」
胸を張って自慢の金髪を左手でかき上げるベティーナに対し、椅子に座って事情を見ていたチークが、ぽつりと呟いた。
「いやー、知っているのですか、ベティーナさん」
何やらスーツケースを開いて地べたに座り込み、様々なアイテムを物色し始めたガングが、ふとベティーナに向かって問い掛けた。ベティーナは疑惑の眼差しをテイガに向けたまま、ふん、と鼻を鳴らした。
テイガは出入口の扉を背にして、腕を組んで扉に凭れた。
「……『ギルド・ローグクラウン』の情報屋よ。自分の損得だけを考える奴だから、気を付けて」
ベティーナの言葉に、テイガは浮かべていた笑みを消した。ずかずかとベティーナはテイガに近付き、その胸倉を掴む。
思わぬ喧嘩腰に、沈黙を決め込んでいたレオが動いた。ロイスもまた、椅子に座ったままでも弓に手を伸ばす事が出来るよう、テーブルの上に置いていた両手を降ろした。
「ギャハハ!! テイガ、こいつヤッちゃって良いんじゃね?」
「軽口を叩くな、アクセル」
アクセルと呼ばれた蝙蝠は、テイガの一言に口を閉じた。
ベティーナはテイガを辛辣な表情で、睨み続けていた。
「……あんた、ずっと見てたの?」
テイガは、ベティーナの問い掛けにどう答えるべきか迷っているようだったが。それでも表情には、おくびにも出さない。やがて軽く吹き出すと、再び嘲笑をベティーナに向けた。
「そうだが?」
パン、と、乾いた音がした。
ベティーナがテイガに平手打ちを喰らわせたのだと、誰もが出来事が終わってから気付いた。
ペンディアムの喧騒は、砦まで聞こえて来ることはない。寄せては返す波の音以外、その場所に音はなかった。誰の耳にも明らかに、打撃の音は鳴り響いた。
そうして、再び静寂は訪れる。
無音の中、ベティーナは目尻に涙を浮かべて、テイガを見ていた。
「どうして、ラッツを助けなかったのよ……!!」
テイガには、全く言葉は届いていない様子だった。まるで気にもしていない様子で、テイガは凍てついた瞳をベティーナに向ける。思わずといった様子で、ベティーナはしゃくり上げるように声を漏らした。
先程まで嘲笑していた男が、今度はベティーナを凍てつくような視線で見下ろしていた。その、恐怖故にだった。
その瞳には、同情や優しさといった類のものは、何一つ込められていなかった。『そうすることが当然なのだ』と言わんばかりの態度で、テイガはベティーナを見ていた。
「じゃあ、聞くが。俺に、どうして助ける義務がある?」
テイガの肩に留まっていた蝙蝠が、再び翼を動かして飛び立った。静寂の中に現れた雑音が、すっかり止めていた他の人物の時間を動かし始めた。
ロイスが立ち上がり、テイガに険しい顔を向けた。怒りではなく、純粋に質問をするつもりのようだった。
「あの場所に居たなら、あの時何が起こったのかも知っているんですか?」
テイガは笑みを貼り付けたまま、ベティーナを無視して言った。
「それァ質問かい? 金を払うなら、教えてやるが」
思わぬ返答をされたからだろう、ロイスが左右の眉を寄り合わせて、怪訝な表情になった。その瞬間に、ロイスがテイガ・バーンズキッドという男を信頼するべきではないと悟った事が、誰の目にも分かった。
レオが腰の黒刀をちらつかせて、テイガに警鐘を鳴らすかのように、低い声で言った。
「テイガ・バーンズキッドとか言ったか。……あの暴走はもう、そこらの冒険者じゃ敵わねえってことは目に見えて分かっている筈だ。情報屋がどうとか言ってないで、唯一どうにかできる可能性のある俺達に、話をするべきだと思うぜ」
だが、その言葉を小馬鹿にするかのように、テイガの隣に居る蝙蝠が嘲笑った。
「ギャハハ!! テイガ、こいつら話になんねえよ。さっさと行こうぜ!!」
「…………あァ、そうだな」
話にならない。それは、レオにとっても同じだったようだ。溜め息を付いて、両手を広げて降参のポーズを取った。ロイスは不満そうにテイガを傍観する立場に周り、ベティーナは怒りを剥き出しにしてテイガを未だ睨み付けていた。ガングは興味を失ったのか、既にアイテムを弄くり回している。
話は、終わった。テイガは部屋の扉に手を掛けた。
フィーナはその様子を、魂が抜けたかのように呆然と眺めていたが――――…………
不意に、チークが背もたれの付いた椅子に逆向きに跨がり、凭れ掛かる代わりに腕を背もたれの上で組み。
「いやー、あたしさ、さっぱり分かんないんだけどさー…………」
顎を両腕に預けたままで、透き通るような視線をテイガに向けた。
「じゃあ、なんでフィーナを助けたの?」
ほんの一瞬だけ、テイガの動きが止まった。少なくとも、フィーナにはそのように見えていた。
「……いや。前にちょっと多く金を貰っちまったからなァ」
ふと、傍観していたフィーナは、テイガの持っている者に驚いた。
そんなものが彼の手にあることに、フィーナは驚いた。思わずそれを凝視し、そしてラッツとテイガの間に何があったのかを推理しようとし、フィーナの中で止められていた時間を動かした。
テイガはすました笑みのままで、ジャンパーのポケットから抜き取ったそれを一同に見せたからだ。
「――――ただの、気まぐれだよ」
そこには確かに、ラッツ・リチャードの使っていた財布が握られていた。