I131 あんたなんかじゃない
キュートは涙で濡れた顔を拭う余裕もなく、俺にしがみついた。その瞬間、キュートが今まで何を見てきたのか、その事実について、俺は思い出していた。
月明かりの夜、雲ひとつ無い夜空。にも関わらず、まるで俺の心の中は嵐の夜のように、ざわついた感情が抑えられなかった。
渦巻いて、巡る。目の前のキュートが表情を変えるに連れ、それはより激しく揺れた。
空虚な笑みを浮かべて、キュートが笑った。
「なくなっちゃった。……あたしが飛ばされた場所……最初、わかんなくて……何も……なくて……」
栗の毬を、まるごと飲み込んだかのように、胸が痛む。涙に濡れた声は震え、俺の腕を掴む両手は、服越しに痛みを感じる程に爪を立てていた。
キュートは、ぼろぼろと涙を零すばかりだった。塩分を伴う雫が、キュートの頬を伝って地面に落ちていく。雨と呼ぶには粒の大きく、また温度もあるものが。
「あたし……あたしはっ――――!!」
そこから先は、雪崩のように言葉が吐き出された。
「分かってたのに!! おばあちゃんの家が一番大切だって、分かってたのに!! ……それを、あんな場所に残したままで、あたしは……!!」
だが、『家』を移動することなど、そう簡単には出来やしない。
モノが、と言うなら、まだダンジョンにあるキュートの家に、それなりの荷物は残っているかもしれない。
キュートが失って悲しんでいるのは、ばあちゃんとの『思い出』だ。
キュートは、錯乱しているだけだ。
「『もう、二度と戻らない』、なんて」
現実的に見て、キュートがアサウォルエェに出来る事なんて、何もなかった。
アサウォルエェの人達はロゼッツェルの真相を暴かれてなお、キュートの存在を心の底からは認めていなかったように思う。
とうにキュートのばあちゃんは、アサウォルエェの人々と打ち解ける事はなかった。
キュートのばあちゃんとの思い出は、あの日、あの場所に置いてくるしかなかった。
針のむしろのように居心地の悪い場所でも、何れは壊されて無くなる可能性のある場所でも。キュートがばあちゃんと居た場所は、そこだったのだから。
そうだ。
『思い出』だけは、持ち運ぶ事ができない。いかに、ばあちゃんの家からモノを持ち出したって。
どうしようもなかった。
そんなこと。
「ほんとにもどれなく、なっちゃったよ」
俺が言える訳、ないだろ…………!!
歯を食い縛った。ロゼッツェルが獣族として『反乱軍』のトップに立たなければ、獣族の街である『アサウォルエェ』が真っ先に狙われる事は無かったのかもしれない。ゴールバードだって、そう簡単に街を破壊していたら魔族も居なくなり、自分が動かすだけの兵力を保てなくなる。
なら、ゴールバードはロゼッツェルが反乱の戦旗を掲げる事を知っていて、『アサウォルエェ』を潰したのだ。
もう二度と、抵抗する者が現れないように。それは、見せしめのようなものだったのかもしれない。
「……キュート、大丈夫だ。俺が残ってる」
そう言って、キュートの頭を撫でた瞬間だった。キュートの目が、大きく見開かれた。
唐突な、心境の変化。その視線は、『魔王城』に向けられる――――咄嗟に、キュートがロゼッツェルの事を思い出したのだと、気付いた。
キュートはまだ、ロゼッツェルに対する誤解を解いてない。相変わらず、キュートにとってロゼッツェルは、『最大の敵』で――……
まずい……!!
「ロゼッツェル…………ロゼッツェル…………ロゼッツェル…………!!」
キュートは瞳孔を見開いて、牙を剥き出しにした。逆立てた全身の毛は、はち切れんばかりの殺気に満ちていた。俺の手を離すと、キュートは匂いでロゼッツェルの居場所を特定したようだった。
壁がまるで地面であるかのように、キュートは軽やかなステップを踏んで、魔王城の頂点にそびえる悪魔の銅像へと向かっていく。その、下の空間に。
「待て、キュート!! 違う!!」
今は、風通しの良い王座の部屋に寝かされている。俺は<キャットウォーク>を発動して、キュートの後を追い掛けた。
アサウォルエェを潰したのは、ロゼッツェル・リースカリギュレートじゃないんだ…………!!
そう言う間もなく、キュートは部屋に入って行く。窓がないということが、逆にキュートの侵入を容易にしていた。俺も後から追い掛け、その部屋へと入る。
「ロゼッツェル!!」
キュートが叫んだ。
既にロゼッツェルは全身を撃ち抜かれ、身動きが取れない状態にあった。フィーナが突如として現れた存在に驚いて、殺気を剥き出しにしているキュートを見て、僅かに悲鳴をあげた。その殺気が、尋常ではなかったからだろう。
ガングは、王座の隣でロゼッツェルに背を向け、夜空を眺めていた。名無しの少女は、事の成り行きを見守っている。
キュートは真っ直ぐにロゼッツェルへと歩いて行き。
その胸倉を掴んで、無理矢理に持ち上げた。
「アサウォルエェを潰したのか…………!?」
「キュート!!」
激昂していた。ただ、怒りに身を任せていた。瀕死のロゼッツェルが僅かに呻くが、そんな事も気にならないくらいに気持ちが昂ぶっている。怒りに、身を任せ。
キュートは胸倉を掴んだまま、倒れ込むようにロゼッツェルを地面へと叩き付けた。
「殺してやる…………!! 殺して…………!!」
為す術もなく仰向けに倒れたロゼッツェルに、キュートが馬乗りになる。ロゼッツェルの首元に手を掛けた。一思いに、首を絞めようとした。
その、瞬間だった。
「…………キュート」
バキ、と、鈍い音がした。
キュートが、ロゼッツェルに体重を掛けた瞬間だった。乾いた木材が、割れる音のように聞こえた。
ロゼッツェルの左胸で発生した音は、しかしキュートの自我を一瞬だけでも取り戻すのに、充分な働きを持っていた。キュートが僅かに目を見開いて、逆立てた毛を元に戻した。
俺は。
戦場で、ふと閃いた。この場で考えられる、最も悲惨な物語というものが。
「ごめんな」
現実になったことを、確信した。
訳が分からず、キュートはロゼッツェルの首を掴んだままで、戸惑っていた。キュートの頬から零れた涙は、ロゼッツェルの左胸の辺りに落下し、ロゼッツェルの血と混ざり合った。
ロゼッツェルは空虚な笑みを浮かべ、声に出して笑った。
もう、騙し切るのは不可能だと、言っているかのように。
「ちゃんと、『悪役』できなくて」
キュートは、ロゼッツェルの言葉を理解していない。だが、攻撃は止まっていた。
ようやく、ロゼッツェルの髪色に気付いたのだろうか。魔力によって作られていたのか、紫色から茶色へと変わったそれに、キュートが手を触れた。
まるで、キュートと同じ色の髪。同じ感触。同じ温度。
その、真実を示す髪を、撫でた。
「…………え…………? 何、髪…………茶色…………」
真っ白になっているようだった。何も考えられず、理性的な思考を失ったキュートが、何度もロゼッツェルの髪を撫でた。意思の強い眉も、ぱっちりとした眼も。よく見れば、紫の髪以外はキュートとよく似ていた。
初めてキュートが、部屋の様子を気に留めるようになっていた。――そして、すぐに気付く。俺がロゼッツェルに協力する事を決めた、部屋の隅に捨てられた一本の長剣の秘密に。
そういえばあの時、鞘に収めていなかった。
俺でさえ、覚えているのだ。危うく処刑されそうになった剣のことを、キュートが忘れる筈もないだろう。
ロゼッツェルが今、腰に構えている剣のことも。それが、違うということも。
キュートの指は、頬から首元へと降りて行き、そして。
ロゼッツェルの、左胸に到達した。
何故、キュートは俺の事を、『お兄ちゃん』などと呼んだのか。何故、ロゼッツェルはキュートを異様なまでに気に掛けるのか。そこから考えを紐解けば、真実は自ずと浮かび上がってきた。
キュートは、兄を欲していた。『姉』ではなく、『兄』を。突然現れた俺を、兄と認定する程度には。
居たのではないかと、思った。
『昔、キュート・シテュには、兄が居たのではないか』と。
震える指が、ロゼッツェルの左胸に触れる。……その、感触を確かめていた。ただ無心で、銃弾を受けて破けた服の隙間を、キュートが広げていく。
ビリ、ビリ。乾いた音が、静寂の部屋に響いていた。どうしようもなく戸惑ったキュートは、その左胸を確認して。
大きく、目を見開いた。
そうか。それが、ロゼッツェルを即死の道から救った、救世主だったのか。
俺は、そう気付いた。
「…………じゃないっ……」
中から出て来たのは、『カメラストーン』によって撮影された、一枚の写真だった。印刷されて、一枚の紙に収まっていた。
額縁に入っていたそれは銃弾をめり込ませ、ひび割れていた。
最も近くにいたフィーナが、その写真を目にして、両手で口元を押さえた。ガングは相変わらず、異常なまでに緊迫した空気の中、やはり振り返る事をしなかった。
ハンスは、眠っていた。名無しの少女は宙に浮いたまま、僅かに顔を歪めた。
写っていたのだろう。そんなことは、俺にだって分かった。
『ロゼッツェルと、キュートと、キュートのばあちゃんが一緒に写った』写真が、そこにはあったのだろう。
「あんたなんかじゃないっ――――!!」
キュートはロゼッツェルを睨み付けて、立ち上がった。両の拳を頑なに握り締めて、真下に居るロゼッツェルに向かって、言葉の雨を叩き付ける。
こんな現実は、認められない。全身で、そう言っているかのように思えた。
自分が最も敵だと思っていた相手が、実は自分を救っていた、なんて。
俺だって、すぐには認められないだろう。
「あんたは、あたしをあの街で犯罪者にしたんだ!! おばあちゃんの魔法陣を悪いことに使ったんだ!! 街の皆を良いように使って、あたしを追放したんだっ!!」
それが、アサウォルエェが狙われた時にキュートを救う為の、唯一の作戦だった。
ダンジョンの中に家を構えていれば、少なくともキュートだけは、生き延びる事が出来るだろう、という。
「あたしを問題児扱いしたんだ!! あたしを森の中に連れて、殺そうとしたんだ!! 何年も誰もいないところに、閉じ込めていたじゃないか!!」
褒められた事では、無いかもしれない。だが、誰かが反乱を起こさなければ、今度は『魔界』そのものが滅びてしまう、などと。
「あんた、なんかじゃ…………!!」
誰が、考えただろうか。
思い付いたとして、誰が実行しただろうか。
零れた涙が、ロゼッツェルの頬に当たった。
「ああっ…………ああああああ――――――――!!」
刃の殺された剥き身の長剣だけが、ただ、二人の真相を知っていた。
○
俺は、王座から広場の様子を見ていた。あれだけの戦士が戦意の雄叫びを上げていた場所も、すっかりがらんどうになって、今では何もない。荒れ果てた荒野に再生はなく、遥か遠くの地平線まで、ただ道を広げている。
ようやく、月が真上に到達していた。間もなく高度は下がり、それから朝日が顔を出すのだろうか。
夜風が、俺の頬を撫でる。
『真・魔王国』での戦いについて、俺は考えていた。あれだけの苦労を伴って生み出した<暴走表現>でさえ、ゴールバードの鎧を破壊するまでには至らなかった。
内側からじゃ、駄目だ。やはり、外側からまるごと潰さなければ――……。
今度は、事情が違う。ゴールバードの鎧に閉じ込められたロイスのように、鎧の動力源となっている人間や魔族は、『真・魔王国』に居た十数体の化物の中には居なかっただろう、ということだ。
その推測を裏付けるのは、二人の『操作者』の存在だ。ゴールバードの隣に居た、剣士の青年と巻き髪の少女。広場を見て、何やら両手を動かしていた。リンガデム・シティで戦った時、おそらくあれはロイス自身の防衛本能のようなもので、俺達を攻撃していたように感じる。
今度の化物には、『口』と思わしきものが無かった事も、ひとつの証拠だ。リンガデムのあれは、口から人間や魔族を取り込む事で、その魔力を動力源として動かす能力があるということで間違いないだろう。
なら逆に言えば、『今度の化物には、それが必要ない』ということだ。
だから、『口』が存在しない。
奴等は、何か別の動力源を持ち、二人の『操作者』によって、反乱軍を攻撃していた、ということ。ならあれは『鎧』ではなく、最早『武器』だ。
なら、何かの法則があっていい。その『武器』を打ち破る何か――――もう、条件は揃っている気がした。
ならば、思い出せ。あの時、何があったのか。何か、不自然な点は無かったか。
――――そうか。
「キュート、水、取ってもらっていいか」
背中で、ロゼッツェルの声がした。




