F101 最強のパートナー、再び
優しい風が、カーテンの隙間から漏れている。
目覚めた時、俺は自分が仰向けに寝かされている事に気付いた。枕は若干高めに調整されていて、身体は僅かに斜めになっている。ベッド自体が傾いているのだろうか。
全身は重い。……なんだか、鎧を着ているかのようだ。でも風は全身に当たっている、どうやら鎧を着ている訳では無いらしい。目を開けるのが億劫で、俺は目覚めたというのに未だ、目を閉じたままでいた。
ドアが開いて閉じる音と、カチャ、という音がした。……鍵を閉める音だろうか。続いて、足音も聞こえてくる。
「おはようございます、ラッツさん。今日も良い天気ですわね」
鈴が鳴るような、よく透き通る綺麗な声色だった。それは俺の右側で聞こえ、直後に全身が、じわりと暖かくなってくる。
「<ラスト・ヒール>」
それは、聖職者の最大級の回復魔法だ。そんなものが使えるのは、かなり高位の聖職者だけ――……基本的に、聖職者の回復魔法と言ったら<ハイ・ヒール>だ。そもそも、それ以上のものが必要になる瞬間というのが存在しない。
だが今の俺は、確かに<ハイ・ヒール>では不十分なのだと、自分でも分かった。首から下の感覚が、全く無かった。身を起こす事も、今では難しそうだ。
「……駄目ですよ、回復アイテムや回復魔法を何度も使っちゃ。もう回復しない、なんて所まで行ってしまったら、生きていてもその後、どこまで身体が動くか、分からないのですから……」
ああ。……俺、そんな所まで行ってたのか。
まあ確かに、通常有り得ない程の魔力というのは、使ったかもしれない。限界を超えて力を引きずり出すということを、今回は本当に何度も、何度もやった。そのせいで、俺が身動き取れなくなったのだとしたら。
…………まあ、仕方無えかなあ。俺はやり切った訳だし、それはそれで。
直後、頬に何か、暖かいものが落ちてきた。
「――――目覚めて、ください。生きているんですから……まさか意識が戻らないなんて、そんなのは……嘘です……」
えと、俺、これはどうすれば。
今、目を開いたら、まずいのか? ……良いのか? よく分からない。というか、もしかして俺、もう何日もこの状態のままなのか? ……嫌だなあ、キュートと出会った時みたいになるのは、もう……
ゴボウを探しに行かなければならない、という使命も持ってるんだよ。満月の夜にしか探すことが出来ないから、まだ時間があると言えば、確かにそうなんだけど――……せめて、どの辺にあるのかくらいは情報を掴んでおきたい。
情報屋か。また、テイガ・バーンズキッドの力を借りることになるだろうか。
もぞもぞと、何かが入って来た。死んだ魚のような俺の肌に、やわっこいモノが密着する。
全く無かった筈の皮膚の感覚が、僅かに戻って来た。
「今日も、隣に居ますからね。何かあったら、呼んでくださいね」
今、気付いた。……俺は全身に包帯を巻かれていて、服を着ていない。……そして、俺の肌に触れた何やらもちもちとしていて、それでいてすべすべとしているかのような、指で押せば何処までも沈み込みそうな何かも、服を着ていなかった。
いや、待てフィーナよ。そこから先は健全の領域を超えて…………ってああ、アレか。前にもあったな、こんな事。
俺は目を開いた。
瞬間、超至近距離にまで接近していたフィーナと、目を合わせる。フィーナは下着姿で、口に何かを含んだままで俺に……口付けようとしていた。
「…………何してんだ、フィーナ」
構わず、フィーナは俺に口付けてきた。……うお、全身やわっこい……羽毛布団よりも遥かに心地良い温度と重量。脳が沸騰しそうな光景は、未熟な俺には刺激が強すぎる……!!
と思ったら、口の中に何かが流し込まれた。息が出来ないので、俺はそれを飲み込んだ。……水か。
唇が離れると、俺とフィーナの目が合う。
フィーナはぺたぺたと俺の頬を触りながら、俺の口を開いたり、親指と人差し指で俺の目を剥いたりして、様子を確認していた。
この様子だと、本当に俺は何日も目覚めなかったようだ。フィーナは僅かに唇を瞳を震わせて、俺を見ていた。
「目覚めたの、ですか?」
「…………お、おう。目覚めたぞ」
今度は、自分の頬をつねっている。一人で痛そうにしている様子は、可愛らしくもあり、どことなくアホっぽくもあったが……しかし、起き上がって馬乗りになったフィーナはやはり、下着姿だった。
完璧過ぎる造形美は、シスター服に包まれていないと、やはり刺激が強過ぎた。
「夢じゃない……?」
「いや、夢じゃないって。大丈夫だよ」
瞬間、フィーナの両目から、大粒の雫が溢れた。
それは俺の胸に当たり、緩やかな軌道を描いてベッドに落ちて行く。俺はぎょっとして、思わず眉をひそめてしまった。怒ったような顔をして無言で泣くフィーナは、しかし涙を堪えようと必死になっていた。
「ごめんな。ありがとう」
「いえっ。…………ちょっと、感極まってしまいましたわ。……なにぶん、一ヶ月ぶりのお目覚めでしたので」
一ヶ月……道理で、指一本動かせない筈だ。
いや、『流れ星と夜の塔』を攻略した時点で、もう俺は後遺症が残ると思われるくらいには限界に達していたのだ。そこから先は、半ば意地のようなもので――……そりゃあ、一ヶ月も眠ったままにはなるだろうか。
「そか。……まあ何はともあれ、生きてて良かった」
「あの程度の傷なら、私に掛かれば大したものではないです。……ちょっとだけ、反動が来てしまっているかもしれませんが」
まあ、今の俺が五体満足ってことは、やはりフィーナは相当頑張ってくれたんだろう。
どうにか涙を堪えていたフィーナが俺の顔を見て、ふと頼り無さそうな表情になった。
「…………本音を言っても、良いですか」
「ああ、いいよ?」
特に断る理由もない。
フィーナは俺に顔を近付け、唇を奪ってきた。
今度は、水を飲ませる目的のそれではない。完全に、求める為のキス――――為す術もなく、俺はフィーナの舌にされるがままになっていた。
涙の味と混ざって、僅かにしょっぱい。
一頻り俺の口内に侵入すると、フィーナが口を離して言った。
「怖かったです。……もう目覚めなかったらどうしようって、そんな事ばっかり考えてしまいました」
どうしようもなく、その言葉に苦笑した。
「ありがとうな。あのまま放置されてたら、俺は死んでいたかもしれない」
身体を起こすと、フィーナは数回、深呼吸をした。豊かな胸が上下する――――目を閉じ、目尻を指で拭う。
次に目を開いた時には、いつものフィーナが、悪戯っぽい表情で笑みを浮かべていた。
「そうはさせません。……私をこんな風にしたのは、ラッツさんのせいですから。今度は死んでいようが、地獄の底まで行って魂を呼び戻してみせますわ」
なんとも表情を固めたまま、その言葉に反応できない俺だった。可愛いと言えば良いのか、頼もしいと言えば良いのか、それとも怖いと表現するのが正しいのか。それは、分からなかったが。
フィーナは俺の唇を指で撫でると、目を細める。
思い出した。
「コフール家のお人形だった私に命を吹き込んだのは、貴方なのですから」
遠い昔、俺が幼少時代に、言ったんだ。悪い子になれ、と。黙っていて得する奴は一人も居ない、自分の幸せは自分で掴みに行くものなんだと。
俺がそういう風に教えたから、フィーナはこんなにも腹黒くなってしまったのか。
…………俺のせい、か?
「ところで、何で下着なんだよ」
窓から差し込む柔らかな光が、フィーナの妖艶できわどい黒の下着をより際立たせている。
黒って……誘っているとしか思えない……
問い掛けると、フィーナは自身の唇に指を当てて、不敵に笑った。
「げ・ん・か・く」
「ああ、もうそれ、いいから」
やはりか。俺も同じ手は二度は食わんぞ。
そもそも、俺も全身包帯を巻いているだけで、殆どパンツ一枚みたいな格好なのに。下着姿で抱き合うような形になるのを、お嬢様のフィーナが耐えられる訳が無いのだ。
思い出してみれば当たり前だが、悪戯を仕掛けてくるだけで、フィーナは意外と付かず離れずの距離を守っている事が多い。過度に接近して来ないのは、こいつにまだお嬢様としての潔癖さが残っているからで――――…………
その時、ノックの音がした。
「フィーナさん、またここに居るのかなっ!? フルリュちんとササナ姫が美味しくて栄養たっぷりのお昼ごはんを作ってくれたよっ!!」
ドアノブが動いた。
瞬間、フィーナは布団に潜り、隠れた。声の主はチークだったようだが、ドアノブは開かないらしい――――そういえば、鍵を閉めたんだ。
フィーナは湯気を立てる程に顔を赤くして、俺の胸に顔を埋めていた。ドアノブが開かない事を思い出したのか、今度はすぐに掛け布団から顔だけ出して、ドアの方に向かって大きな声を出した。
「い、今、行きますわ!!」
「あいよー!! はやく降りてきてね!!」
ドタドタと、廊下を走る音が聞こえる。…………フィーナはまだ紅潮したままで、ぜえぜえと肩で息をしていた。呆然とフィーナを見ている俺に、ようやく気付く。
「――――はっ!?」
あれ。
「ち、違うんですこれはその、肌を密着させていないとラッツさんの正確な魔力の状態が分からなくてですね、治療として仕方なくっ!!」
自ら暴露したフィーナは、両手で口を押さえ、自身の言葉を遮った。
どうやら、幻覚魔法ではないらしい。
…………幻覚魔法では、ないらしい。
やばい。……本物だと分かった途端、心臓の鼓動を感じる。自分の顔が熱くなっているのが、よく分かった。
バタバタと暴れていたフィーナは、しかし僅かに落ち着きを取り戻したようだ。それでも、俺と目を合わせる事が出来ないようだったが。
目を逸らして、フィーナは言った。
「…………出来る限りのことは、したいと思ったのですわ。私のせいで、死なれては困りますから」
俺は、どうかしてしまったのだろうか。
あの、得体の知れない腹黒聖職者のフィーナが、とてつもなく可愛く見える。このまま抱き締めてしまいたい。抱き締める為の両腕は動かなかったけれど。
フィーナは俺のベッドから出ると、そそくさと椅子に掛けてあったワンピースタイプの部屋着を着た。まだ、僅かに顔を赤くしている。俺だって、動けるならこのまま叫んで部屋を飛び出してしまいたい。
「ま、まあ、これくらい何でも無いのですけどね。意識が無いうちは水も食事も口移しでしたし、排泄もベッドの上でしたし」
「いや、マジやめてそれ以上何も言わなくていいから!!」
羞恥心に頭がどうにかなりそうだ。
苦し紛れに、俺は話題を逸らす事にした。
「そういえば、俺が倒れた後、ロゼッツェルとかいう男が来たのか?」
フィーナはふと目を丸くして――――直後、表情が曇り空のそれに変わった。思い出したくない事を思い出したのだろう。だが、当時の状況をフィーナしか知らない以上は、聞いておかなければならない。
「フィーナ。『深淵の耳』は……」
「…………ええ。催眠状態の私が持たされていたようで……それを奪って行きましたわ。何に使うのかは、分からないのですが」
目が覚めたことがチークに伝わったら、それは怒られそうだな。まあ、取って来ると言って失敗した俺が完全に悪いが……まさか、魔物と魔族がすり替わっているなんて思わなかった。
そうだ。『流れ星と夜の塔』の魔物は、本物の魔族とすり替わっていた。……ということは、俺が瀕死の状態にした魔族は、皆フォックス・シードネスの赤い宝石のために、消えて行った訳で。
何らかの魔法によって、操作されていたのか。それは、分からなかったが。ロゼッツェル・リースカリギュレートが関わっていたのであれば、ロクな方法ではないと思う。
奴もまた、『神具』とやらを集めているらしい…………謎は深まるばかりだ。
「俺が元気になったら、奪い返しに行っても構わないか?」
「それは、『深淵の耳』を、ですか?」
俺は頷いた。フィーナは少し悩んでいるようで――――それは俺の身を案じてのことだったのだろうが、少し困ったような顔をしながらも、フィーナは笑った。
「……私が一緒に行けるのであれば、問題無いです。出来る限りのサポートをしますから」
「おう。悪いけど、頼むよ」
ふと、フィーナは真剣な表情になって、俺のベッドに腰掛けた。右手を俺に翳すと、ぼう、と緑色の光が現れた。俺の身体に当てるが、変化は起こらない。
「<フォレスト・アンチドーテ>」
どうやら、それは解毒の魔法らしい。俺は聞いたこともない魔法だったが、フィーナは平然と俺に、そんな魔法を使った。その意味も分からない俺だったが、ふと気付いた。
これはもしかして、先住民族マウロの遺跡で、俺が『ガスピープル』の毒にやられた事があったから、覚えた魔法……ということなのだろうか。
フィーナは立ち上がると、その両手を前に出し、幾つもの魔法公式を出現させた。魔法陣のようなものではなく、純粋な魔法公式が浮かび上がっている。それ自体が魔力を消費して、何らかの影響を及ぼす事はないが。
何れの魔法公式も、見たことがないものばかりだ。
「いいですか、ラッツさん。今はまだ、ラッツさんの身体は動かさない方が良いです。損傷が激しいので、どの道まともに生活はできません」
俺は思わず、笑顔を貼り付けたままで固まってしまった。フィーナは目を細めて、俺に半ば命令するように、言った。
「食事。排泄。魔力管理。全て、私がやります。下の愛人には、手を出さないように言ってあります」
愛人って。……俺、いつからフィーナと結婚している設定になったのだろうか。冗談めいた言葉を口にする余裕もなく、俺はフィーナの気迫に圧倒されていた。
「……いや、排泄って。それは自分」
「ダメです」
「聞く耳持たずか!!」
フィーナは俺の胸倉を掴んで、自分に引き寄せた。身体に激痛が走る――――痛いって!! 動かしちゃいけないんじゃなかったのかよ!!
間髪入れず、フィーナは怒ったような表情で、俺を見詰めた。……やばい。先程の下着事件も相まって、フィーナの顔が直視できない。
「ラッツさん。ギルド・セイントシスターのギルドリーダーになるまで、私がラッツさんと会わないようにしてきた理由、分かりますか?」
「いえ、分かりませんが……」
何故か敬語になってしまった。何故かキレているフィーナは俺の至近距離にまで迫り。
唇を、奪った。
「んっ…………!?」
一頻り堪能すると、俺の口を離した。フィーナは耳まで真っ赤に染まり、俺の両手を握ると、目を逸らした。
「生まれ変わって、今度は別人として会おうと思ったのですわ。二度と黙って見ている事はしないと……………………こんどは、わたしが、らっつさんの、ために」
最後の方は、声が小さすぎて正しく聞き取る事が出来なかった。
ぱたぱたと顔を仰ぎながら、フィーナはベッドから離れた。昼食を取って来るか、食べて来るかするのだろう。……俺の飯はどうなるんだろうか。
ゴボウが元の姿に戻るためには、満月の夜になることが必要だ。すぐにでも探しに行きたいが、満月の夜までは、俺はじっくりと身体を回復させるべきだ――……まだ、全ての問題が解決した訳ではない。仲間が全て揃った訳でもない。
でも。
扉の前で振り返って、フィーナは俺を指差した。
満面の、笑みだった。
「ラッツさん。……もう、二度と逃がしませんからねっ!」
フィーナの言葉に、俺は苦笑した。
満足に動くことが出来るようになるまでは、少しだけ休んでも良いんじゃないかと。フィーナの笑顔は、俺にそう思わせた。
ここまでのご読了、ありがとうございました。第五章はここまでとなります。
第六章を始める前に、幕間を少し挟みます。
楽しんで頂ければ良いな、と思いつつ……




