F99 ゲームオーバー
フォックスはすました顔で、ただ無表情に俺を見ていた。だが、程なくして――――その表情は、苦笑したそれに変わった。丁寧に刺繍されたコフール一族の紋章。シャツの襟に装飾されていたそれを、指で撫でながらフォックスは言った。
「随分と、衰弱しているようだが。放っておいても、そのまま死ぬんじゃないか?」
俺も笑った。笑わずにはいられない、といった心境だった。
「確かにそうだな。逃げられたら、終わりかもな」
武器はゼロ。防具は盾のみ。腹は何かの事故にでも遭ったのかと言うほどにぱっくりと割れ、立っている事さえ奇跡的と思える程に流れていく血。
自分でも、どうして立っていられるのか。どうして生きていられるのか、分からない。
静寂に満ちた、広い室内。戦闘するには問題ないだろう。赤い絨毯の向こう側、ベランダからは柔らかな日差しが降り注いでいる。
そこは、天空の決戦場。生き残るのは、一人だろう。だから俺は、自分の左胸。心臓の位置を指で叩き、フォックスの戦闘意欲を掻き立てる。
挑発するように、嗤った。
「――――だけど、欲しいだろ? お前が一生懸命に作ったアホトラップでも死ななかった、こいつがよ」
フォックスの眉が、ぴくりと動いた。
約束したんだ。
フクロウと、自分と、約束した。必ず、フィーナを助けると。この身がどのような逆境に襲われても、必ず生きてフィーナを助け出すと。
今度は、大丈夫だ。俺も死なない。
死んでなるものか。
「クッ。死神に足首を掴まれている人間の発言とは思えんな。面白い冗談だ――――冗談ついでに、良い物を見せてやろう」
そう言って、フォックスは俺に赤い宝石を見せた。……これはゴールバードの鎧に埋まっていたものと見て、間違いないだろう。俺が<イエロー・アロー>で撃ち抜いた宝石だ。
フォックスは薄ら笑いを浮かべながら、俺に語った。
「これは、とある『魔族』の魔力を凝縮させたというモノでな。故に壊れ易いが、その本体は絶大なパワーを秘めているというものだ」
真っ白になった思考は、しかし俺の奥深くに刻み込まれた記憶を掘り起こすように働いた。焦らず、冷静に。何が起こっているのか、その真相を探る。
おかしな違和感は、塔を登り始めた時からずっと、付いて回っていた。フォックス・シードネスが持っている、赤い宝石。それは、ゴールバードと対峙した時に鎧の内側に収まっていたものと、やはり同じように見える。
そして、『あの』宝石は生物の魔力を吸い取る働きをしていた。ロイスから放出され続ける魔力を蓄え、化物の動力源となっていたそれは。
魔力を吸収?
吸収するような性質のものだとしたら、当然そいつも魔力を保有して、魔法鉱石として機能しているはずで――……
その時、気付いた。
俺に塔を登らせた、本当の理由は。
「各フロアのダンジョンマスターは、私の手で『魔族』とすり替えさせてもらった。……ククク、それがどういう意味を持つのか、魔界から戻って来たお前には分かるだろう?」
どうして塔に入ってから今まで、ドロップアイテムを一度も見なかったのか。
だとすれば、そもそも初めから、この塔はフォックス・シードネスによって改造されていた、ということなのか。出来るのか? そんな事が――いや、しかし現実には起こっている。五十人もの魔族をどうやって連れて来たのか、それは分からないが、何れにしても。
「……死ぬ間際に、ここに『転移』させるよう、仕掛けておいたんだな?」
フォックスは性悪な顔を隠すこともせず、俺を気持ちの悪い笑顔で迎え、言った。
「正解だ。悪戯小僧」
ならば、あの鎧を動かすための赤い宝石は、魔族によって作られるモノだったのだろう。俺に『流れ星と夜の塔』を攻略させたのは、生きている魔族を手っ取り早く衰弱させるために、利用しようと考えたからか?
…………この、クソ狐野郎。
沸々と、俺の中に怒りが湧いてくる。
俺は、頭の中に生まれていたある確信を、フォックスに向かって問い掛ける事にした。
「お前は、『ゴールバード・ラルフレッド』を知っているな」
治安保護機関のコントロールを奪った、ゴールバード・ラルフレッド。
セントラル大陸屈指の権力者、『コフール一族』を手玉に取った、フォックス・シードネス。
両手を広げて、フォックスは言う。
「さあ、何のことやら。セントラルの次期国王と、何かあったかな?」
俺は、フォックスに向かって走り出していた。身体の痛みなど、既にどこかに消えていた。
これは、戦争だ。
長い間平和を築いて来たセントラル・シティに今、裏で大掛かりな争いが起ころうとしている。賭けられたのは、セントラルの全ての民。セントラルの全ての街。
そして、フィーナ・コフール。
いや、それだけでは無いかもしれない。奴等は、『魔族』をもコントロールする手段を、あるいは権限を持っている。だとするなら、これはもうセントラル・シティの街々だけに関わる問題では無いのかもしれない。
どうして?
理由など、俺には分かる筈もない。だから理屈の代わりに右の拳を、フォックスの左肩目掛けて打ち込んだ。フォックスが腰の長剣を引き抜き、剣の腹で俺の拳を受け止める。
至近距離で見た、フォックス・シードネスの顔。こいつは外に出る時、いつもサングラスを掛けていた。それは、こいつがあまり外に顔を出したくなかったからだろう。
「フィーナを返せ…………!! あの鎧に、フィーナも閉じ込めるつもりだな!?」
剣の腹に向かって、今度は右の素足を振り上げる。武器を折らなければ、勝ち目は無いと分かっている。逆に言えば、死に至らないどのような攻撃を受けようとも、こいつの長剣さえ折ってしまえば俺の勝ちは確定したようなものだ。
こいつは、剣士。
武闘家としての技術は、俺の方が長けている。
「鎧? 何のことやら――――ああ、そういえばお前は、試作のマシンを見たのだったな。……安心しろ」
フォックスは、俺の右脚を軽く屈んで避けた。背中のリュックには、盾が入っている。それくらいの情報は、もうこいつには伝わっているかもしれない。
短剣。長剣。弓。杖。鈍器。その全てを、今の俺は持っていない。攻撃に使える技は<刺突>と<飛弾脚>。防御に<堅牢の構え>。たった一つの勝利へのキーワード、<牙折り>。
そのくらいのデータは、既に持たれていると思って間違いない。ゴールバードと繋がっているとすれば、俺がどのようにしてあの化物を破壊したのか、それくらいは知っていて当然だ。
戦闘スタイルのことも。武器が無くなれば、そのスペックが激減するということも。
「お嬢様はもっと、優秀なマシンに乗せる。権力もある。殺しはしないさ」
体力は限界。魔力も枯れている。相手は剣、こちらは丸腰。武闘の初心者。
だが、勝算はある。
無くたって、創り出してやる。
「上等だ…………!! やれるもんならやってみやがれ!!」
フォックスが繰り出した横薙ぎの一撃を、後方に宙返りして避けた。着地の瞬間、両足に痛みが走る。だが、魔力を展開した。渡り合う事が出来なくとも、こいつの油断を誘えればいい。
――――魔力が足りないなら、搾り出せ。
「<ホワイトニング>!!」
既に、それ以外の付与魔法を掛ける余力はなかった。この<ホワイトニング>だって、今までの間に回復した魔力を振り絞っての、ギリギリの一発だ。
故に、効果も持続時間も、高が知れている。真紅の絨毯を滑り、右脚を踏ん張って一歩、フォックスに向かって踏み出した。
リュックから取り出したのは、盾。右手に構え、俺はフォックスの間合いに姿勢を低くして入り込む。
フォックスの顔色が変わる。この盾は、俺を護る盾。この至近距離で<ギガントブレイド>でも撃ってみろ。二階の床が崩れて、眠っているフィーナもただでは済まない。
俺の救出目標であるフィーナは、逆に言えばこいつの弱点とも成り得るのだ。
盾で身体を隠すことを辞める代わりに、俺は空いている左腕をフォックスに向けて突き刺すように振るった。フォックスは二度ほどバックステップで距離を離し、俺から離れようとする。
<ホワイトニング>の効果時間内に、ケリを付けなければ。俺は猛然とフォックスに迫り、その盾を大きく、下から救い上げるように振るった。
狙いは、奴の顔。目の前に掲げている剣ごと大きく弾いて、その腹に一撃を加えるための意表を突く攻撃。……まさか盾で攻撃する事になるなんて、誰が考えただろうか。
フォックスの表情が、僅かに歪んだ。
「らぁっ!!」
全力の一撃。それは確かにフォックスに当たり、奴の顔面を殴った。
だが剣を飛ばすまでには至らず、腕はそこで止まった。
フォックスは薄気味悪い笑みを貼り付けたままで、俺を見据えていた。
「――――私がお前に攻撃できないと思っているのなら、考えを改める事だな」
俺の盾攻撃を受ける代わり、流れる剣捌きで俺を通り過ぎた。
既にどうしようもない程傷付いた身体に、更なる攻撃が加えられる。俺は、その場に崩れ落ちそうになった。
意識が遠のいて行く――……
口元の血を拭って、フォックスは言った。
「ダンジョンの地上ならいざ知らず、ここは一族以外、誰も訪れない『流れ星と夜の塔』の最上階だ。お嬢様……いや、フィーナ・コフールが眠っている以上、どうとでもなるのだぞ?」
だが、気が付けば俺は、左足を絨毯に突き立てていた。
地獄の底から、またも意識は這い上がる。ただ、それは使命のために。死にそうになる俺を、上へ上へと突き上げる。
「なるほど。ってことは、わざわざ屋上にトラップなんか仕掛けなくても、ここなら俺を殺せたと、そういう訳だな」
斬り付ける攻撃は、諦めろ。生きてさえいればそれでいい。自分にそう言い聞かせ、俺は見下すようにフォックスを見た。
初めてフォックスの表情に、寒気と言うのか、恐怖と言うのか――――そのようなものが、見えた。その様子に、俺は幾らかの優越感を覚える――――『何故立ち上がるんだ』って、顔がそう言ってるぜ。
これだけの傷を受けて、更に追撃まで受けて、どうして立っていられるのかと。
「だったら、俺が怖いんだろうが」
「…………なんだと?」
もっと。
もっともっと、奴に怒りを。
正常な判断をさせるな。
「クズみたいな要らねえトラップ用意して、本当は俺がここに上がって来た事が、怖くて怖くて堪らないんだろ? ……こんな死に損ないが、追っ掛けて来るんだもんなあ。死神に見えてもおかしくない」
フォックスはようやく、俺の事を明らかな敵意の瞳で見詰めた。本気を、出させるべきだ。奥の手の奥の手まで登場させなければ、俺に勝利はないのだから。
「でかいスキルを使わないと戦えないお前に、フィーナの居るこの場で何ができる」
大きく足を広げ、盾を構えた。……もう、幾らも動く事は出来ない。次で、最後だ。
「……余程、殺されたいらしいな」
フォックスが向かって来る。この、大きな攻撃をすれば床が崩れるかもしれない室内で、<ギガントブレイド>は有り得ない。<ウェイブ・ブレイド>も怖いとすれば、スキルを満足に使えないのは俺だけじゃない。
剣が向かって来る。とてつもなく速い、剣。<暴走表現>なら見切る事も反撃する事も出来ただろうが、今の俺にそれを使う魔力はない。
だから、来い。
俺の土俵に、来いよ。
俺は、盾を振り被った。
「これで充分過ぎる程だろう、初心者君」
――――――――来た。
盾で振り上げるように攻撃する。しかし俺の盾は、フォックスに避けられた。振り抜き、目標を失った右腕から、俺は盾を手放す。盾を振り上げた反動で上がった右腕を、大きく構えた。
剣は、背後に構えられた。それは、突きの一撃。俺が最も得意とする、そして全てのアカデミーで教える、基礎中の基礎技。
「<チョップ>!!」
これで充分、だと? 不服だね。
お前みたいなプロフェッショナルに、そんな技は似合わない。
証明してやる。
全身全霊の力を、右腕に込めた。フォックスの放った突きの一撃は、俺の脇腹を貫通する。腹から血が吹き出す前に、手のひらを剣に向け、俺は力強い一撃を。
その、剣の腹に向けた。
「<牙折り>!!」
その一撃は、確かにフォックスの長剣を破った。剣の腹から勢い良く武器は折れ、片方は俺の脇腹に刺さったまま、片方は半身となり、フォックスの右手に握られたままで残る。
たった、一撃。その瞬間に、全てを賭けた。武器さえ壊してしまえば、こいつは剣を失った剣士。武闘家としての実力なら、俺の方が上回っていると。
どうしたって、剣を壊さずして勝利はなかった。だが、その代わりに得た代償は、限りなく大きい。
目が霞む。動いている最中だというのに身体は冷え、心臓の音が妙に大きく聞こえた。
それでも、左腕を切り返し、フォックスの腹に渾身の一撃を叩き込む。
フォックスが、血を吐いた。
ああ。
フィーナ。
今、助ける。
崩れ落ちそうになる身体を支え、フォックスの下顎を狙う。……殺せなくてもいい。意識を失わせる事さえできれば。
連続的に、右の拳を力強く振るい。
――――そして、俺は動きを止めた。
「さて。私が『剣士』だと、いつ言ったかな?」
止めざるを、得なかったのだ。
スーツの懐に隠されていた拳銃を引き抜いて、フォックスは口元から流れる血を拭き取る事もせずに、俺を見詰めていた。邪悪な笑みは俺を見下ろし、いつでも俺を殺せるこの状況で、ただ反応を見守る。
俺の左胸に、銃の先は向けられている。……至近距離。狙われているのは、俺の心臓。
投げられた最後の盾はフォックスの背後に落下し、乾いた音を立てた。
「君は私のトラップを笑ったが、現に君はこうして私に追い詰められている。計画とは我武者羅に突っ込む事ではない。気合いと根性ではどうにもならない事もあるということだ」
風が吹いている。
「残念だな。君は、私の『罠』を潜り切れなかったようだ」
左右対称に取り付けられたベランダから室内へは、窓のようなものはない。それだけで、この場所が昔、パーティーなどの社交場として使われていた事が推測できる。果たしてこれが初めから『流れ星と夜の塔』にあったものなのか、それとも予め地上で建築されたものを、ここに転移魔法を使って持ってきたものなのかは、分からなかったが。
「ゲームオーバーだ、ラッツ・リチャード…………!!」
それは、限りなく静かだ。
時は、止まったままだった。全身の動きを完全に止めた俺は、しかし呆然と、フォックスを見ていた。
僅かに、身体を傾ける。フォックスはその様子を見て、限界が近い事を悟ったのだろう。銃を突き付けられているこの状況で動けるのは、勝手に身体が動いた時だけだ。
俺は無表情に、その銃を見詰めていた。
「お前の希望通り、『それ』を頂くとしよう」
ただ一言、フォックス・シードネスは、そう言って。
静かに、引き金を、
引いた。




