F97 さよならの影に見えたもの
ドッペルゲンガーが反応する前に、俺は動いていた。
世界中のあらゆるものが、今の俺にとっては遅く感じる。まるで止まっているかのようだ。使っているのは、移動速度を上げるための基礎スキル。しかし、たったそれだけで。
今の俺は、世界中のどんな無機物有機物よりも疾い。
「<レッドトー」
未だスキルを言い終わる前のドッペルゲンガー。俺は背後に回り込み、その背中を全力で蹴り飛ばした。
本当に俺が相手なら、俺の体力と魔力の少なさは、俺自身が一番よく知っている。何か一度でも攻撃を受けた時のヤワさは折り紙付きで、スペックで勝てず、弱点も見出せない相手との戦いを最も苦手とする。
だから、攻撃力なんて必要ないのだ。俺は純粋に、俺が反応出来ない攻撃をすればいい。
その、圧倒的なスピードで。
速度は威力に換算され、ただの蹴りにも関わらず、ドッペルゲンガーは激しく吹っ飛んで地面を転がった。リュックを背負っているから、背中からの不意打ちに対処し辛いのも俺の特徴。そして、受け身を取ってもダメージが抜けないのも、俺の特徴だ。
両手両足で空白の大地を掴んで速度を殺し、ドッペルゲンガーは俺を驚愕の瞳で見詰めた。
「俺よ…………一体何をした…………!!」
奴から見て今の俺は、一体どのように映っているのだろう。
全身傷だらけ、身体中血まみれで、リュックを落とし、武器は長剣のみ。腹は割かれた上から<刺突>を喰らい、最早立っていることさえ、奇跡的とも思えてくるだろう。
だが、立ち上がるのだ。血で視界が塞がれば目を見開き、意識が遠くなれば黄泉からでも引っ張り出してやる。
何度でも。
「俺にも分からないさ、俺よ。…………命を、賭けた。それだけだ」
ドッペルゲンガーは口を切ったらしく、僅かに血を滲ませていた。その両手に魔力が集中される、魔法公式の動きを感じる。考えなくても、俺には分かる。
だってそれは、俺が何度も使ってきたスキルだったから。
「<限定……」
魔法公式が発動される前に、俺はその両手を長剣で斬り付けた。ドッペルゲンガーから俺までの位置は、軽く見積もっても十メートル以上はあった。言葉が発されてから言い終わるまでの一秒足らずの時間に、俺はドッペルゲンガーまでの距離を詰め、攻撃を仕掛けたのだ。
当然、『俺』が反応できる筈もない。
<ホワイトニング>は掛かっていない。俺の腕を切断するまでには至らない。しかし、魔法を中断させるための攻撃としては、十二分にその性能を発揮するはずだ。
「があァ!!」
左から入り、ドッペルゲンガーの右腕を斬り付け、流れるように右へと抜けた。振り抜いた長剣の速度が残っているうちに、俺は左足を振り上げ、踵からドッペルゲンガーの後頭部目掛けて振り下ろした。
首の付根目掛けた、踵落とし。衝撃を与え、そのまま地面に向かって蹴り落とす。
全く余裕などはない。気を抜けば一瞬にして闇に墜ちるという恐怖を前にして、どうにか震えを押さえ込んでいるだけだった。
「がッ…………!! くそが…………<計画」
立ち上がり、別の詠唱に入ったドッペルゲンガー。その肩に向かい、速度を強化した右脚を振り上げ、叩き付ける。
……まだ、分からないのか。そもそも俺の魔法は、そう簡単に戦闘中、何度も切り替えられるような代物じゃない。相手の隙を窺い、針に糸を通すような意識で状況に集中し、積んでいかなければならない付与魔法なのだ。
俺の能力はコピーできても、俺の意識そのものをコピーすることは出来なかったようだな。
蹴り上げられ、宙に浮いたドッペルゲンガー。つまり、『俺』だが――――その無防備な腹を狙った。長剣を持っていない、空いた左拳を叩き付ける。
上方向への衝撃は、横方向のそれへと変わる。吹っ飛んだ先に、もう俺は待機している。右の脇腹に右脚を振り上げ、更に上方向へと蹴り飛ばした。
飛んだ先に移動。蹴り上げ。また、移動。蹴り上げ。制御など出来ない筈の空中で、まるで計算されたように特定の場所に現れ、攻撃を仕掛ける。
それを可能にしているのは、圧倒的な移動速度。壁を駆け上がる事もできる今の俺は、蹴りを放った反動で壁に着地し、更に反対側の壁まで跳び移る事さえ可能にしていた。
不自然な軌道を描いて、ドッペルゲンガーの俺が天空へと昇って行く――――しかし、ここは建物の中だ。真っ白な空間に継ぎ目など見えないが、必ず『天井』は、あった。
俺は上空に居るドッペルゲンガーの真上の天井を目指し、跳躍する。
見えない天井に、両足を掛ける。
着地する。
俺に向かって飛んでくるドッペルゲンガーが見える。
<ホワイトニング>を使えない今の俺では、普通に攻撃しても駄目だ。決定的なダメージを与えるには、何か速度を攻撃力に転換させるものが必要。
なら、こうだ。
両足を目一杯踏ん張り、重力の向く方向へ、更なる勢いを付ける。長剣を一度手放し、自然に流れるままに落下させた。
そうして、跳ねる。
隕石のように、落ちる。
両手で交差するように両肘を掴み、頭の上に腕でガードを作った。狙うのはドッペルゲンガーである俺の、まだ割れていない腹。
腕では、流石に剣で付けた切り傷のようにはいかないかもしれない。
だが腹を割る覚悟で、身体から当たりに行った。無防備な俺に、腕をめり込まえる。
「ごふっ…………」
ドッペルゲンガーが、強く息を吐き出した。
目の眩むような速度の中、攻撃はほんの一瞬だっただろう。だが、俺は自らの攻撃の反動に耐えられず、血を吐いた。。
速度に、俺の傷付いた身体は付いて来ていないのだ。限界はとうに超え、<暴走表現>の解除と同時にどうなるのか、想像もつかない。
或いは、麻痺してしまって何も起こらないか。気が付く頃に俺は、死んでいるだろうか。
だが、フィーナにもう一度逢うまでは。
絶対にこの意識を、手放すものか。
「おおおおおおああああああ!!」
天井から、地面へと急降下。どこが着地点かは、黄金色の扉の位置から推測していた。ドッペルゲンガーの胸に両足も添えて、全身で俺の身体を押し潰す。
激突の瞬間、ドッペルゲンガーが目玉を飛び出しそうな程に、目を見開いた。
瞬間の衝撃は、傷付いた俺の身体にも、確かな反動を与えた。気を抜けばそのまま昇天してしまいそうな程の痛みが、全身を襲った。
だが、負けるな。
限界まで、動き続けるんだ。
常識なんて、既に捨ててきただろう、俺は。
「…………ぐぁっ…………!!」
どうにか呻き声を上げながらも、ドッペルゲンガーから離れ、立ち上がった。俺よりも緩やかな速度で落下してきた長剣を、左手でキャッチした。
――――ドッペルゲンガーは、もう動かない。
僅かに胸が動いている。……なら、意識は無くとも最後の手段が来るかもしれない。俺は油断せず、ドッペルゲンガーに最後の一撃を与えようと、近付いた。
顎を引き、奴の様子をじっくりと観察する。こいつは俺ではなく、俺の形を真似た魔物だ。……ならば、俺の記憶を持っていたとしても、俺の知略まで引き継ぐ事はできない筈だ。
経験から得てきた、俺の確かな力。
その、予測も。
気付けば、ドッペルゲンガーはそこには居なかった。俺は立ち止まり、その場に立ったまま、目を閉じた。
僅かな風の音。呼吸の音も聞こえる。俺のものと、もう一つ。……もう少し、意識をより深くまで落とし込む。……今度は、二つの心臓の鼓動が聞こえる。『影』にも活動源があるのだと、少しだけ驚きもした。
目はかすみ、足は鉛のように重く、長剣を持つ両腕は麻痺していて、ゴムか何かを握っているようにすら感じる。
俺の背後に、恐ろしい程の魔力が発生していた。生命力を犠牲にした、最初で最後の技。
「<凶暴表現>」
分かっていた。
最後にこの魔法を使う事は、奴が『ドッペルゲンガー』である限り、必然と言っても良かった。どうせ死ぬなら道連れにしよう、などというのは、こんな場所に居る魔物であれば、簡単に引き金を引くだろうと。
だから、その時既に俺は、地面を蹴っていた。
魔力の発生源。生命力を変化させたもの。その姿はどれだけの傷を負っていようとも、瞬間的に回復し、やがて意識を失い、死ぬまで攻撃し続けるだけのモノと成り果てる。
後悔、するなよ。
その魔法を使ったのは、俺じゃない。他ならぬ、『ドッペルゲンガー』。お前一人だ。
流れるように、腕と足の筋繊維を切断した。
「ごォッ――――――――!?」
<凶暴表現>は、生命力を魔力に変換する魔法だ。魔力に変換してからでなければ、強化までには至らない。
そもそも、付与魔法っていうのは発動の瞬間、僅かな溜めを必要とするものだ。
宣言と同時に切り裂いた腕と足は、すぐに再生する。死ぬまで動き続けるため、それだけのために。
なら、死ね。
お前が宣言した<凶暴表現>のせいで、無限に回復し、魔力を消費し、生命力を消費する。その再現のないループの中で、命尽きるまで苦しみ続ければいい。
再生した瞬間、俺はまた切断する。崩れ落ちる事もできず、俺を攻撃するには至らず、ものの数秒で莫大な魔力が消費されていく。
過去の自分に、俺はずっと、こう言いたかった。
命を捨てれば、何でも出来るなんて思うな。
命を大切にしてこそ、護れるものだってあるんだ。
「おおおおおおおおおお――――――――!!」
再生。回復。再生。回復。魔力を消費。生命力を消費。
命の灯火が、少しずつ小さくなっていく。
とうに音など、俺の速度に付いて来られずにいる。目的の為だけに動き、俺は目的を達成する。
切り刻む。
消滅させる。
過去の俺。
切り刻む。
切り刻む――――…………
気が付けば俺は、見ていた。
無限に広がるとも見える、空白の空間の中。無機質にそびえ立つ、二つの黄金色の扉。ひとつは、俺が入って来た扉。そして、もう一つは――――…………
その扉が、徐ろに、悠久に変化を起こさない空間に、孔を開ける瞬間を。
言葉もない。
そもそも言葉とは、そこにいる誰かに自分の意志を伝える為のものだ。独りきりの今の俺に、言葉など必要なかった。
あちこちに転がった、俺の武器。転がった弓と鈍器。折れた杖。既にそこにはない、二本の短剣。
俺が右腕に握っていた長剣が割れ、カランと、その場に乾いた音を立てた。
おそらく、速度に耐え切れなかったのだろう。
ただの棒となった長剣をその場に捨て、呆然と、ただ歩き出した。
リュックの中には、盾だけが入っている。それを拾い上げて。もう、弓や鈍器を拾いに行く気力はなかったが。
<暴走表現>の効果時間は、とうに切れている。ここから俺が上がっていったとして、もう戦闘という戦闘をすることは、出来ないだろうか。
だが、俺は歩いた。
まだ、戦ってみせるさ。
黄金色の扉を抜けると、真っ白な空間は唐突に終わりを告げた。再び現れた石の階段を、俺は一段ずつ、確認するように上がって行った。
やがて、階段の向こう側に扉を見付けた。
今まで潜って来た扉とは違う、ひどく簡素で、飾り気のないもの。ただの木製の扉に、俺は手を掛け。
開く。
「…………すげえ」
そこに広がったのは、途方も無い大陸の姿だった。
雲は俺の遥か下。飛び降りれば乗れるのではないかと思える程に、明確に形を作っていた。雲の隙間からセントラル大陸と、遥か広大な海が見える。
数本の円柱に支えられ、その上にはまだフロアがあるようだった。だが、上へと続く道はない。ここが、試練の塔の屋上ということなのだろう。
柵も何もない。地平線を見詰めると、僅かに昇った太陽の姿が見える。どういう理由なのか、永遠に夜であるはずの塔の屋上から、俺は朝日を見ていた。
或いは、『永遠の夜』そのものが、ダンジョン内の魔力が起こした現象なのかもしれない。
ということは、ここは既にダンジョンの外、という事なのだろうか。
すうと、俺を風が通り抜けた。あまりにも高い、高い場所。下に居た時はレオを呼び出して上から行こうだとか、そのような事を色々と考えもしたが。……もしかしたらこの高度に達するのは、ドラゴンでも無理かもしれない。
だからこそ、コフール一族の隠れ家として機能していたのではないだろうか。
屋上と言うには、もう一段上にフロアがある様子ではあったが。窓も壁もないその場所の中央には、不自然に配置された岩があった。近付いてみると近くに棒のようなものが置いてあり、岩に印を付けられるようになっていた。
これが、クリア者が書くリストというやつだろう。
何名かの名前が書いてある――……その中には、エト先生の名前もあった。あれだけの厳しい戦いを強いられた、試練の塔。そんな所にも先生の名前があったことに、少しだけ嫉妬を覚えもした。
まあ、俺もクリアだ。
その場所に、自分の名前を彫った。
岩の隣には一階へ続くと思わしき魔法陣がある。……だが、俺の用事はそこにはない。用事があるのは、まるで塔の屋上に誂えたかのような、上階のフロア。
俺はそこへと向かわなければならない。
「…………行くか」
一歩、前へと進んだ。円柱には足が引っ掛けられる程度の窪みがあり、登れない事は無さそうだ。こんな時に、セントラル大監獄で壁を昇っておいて、良かったと思った。
「少年よ」
ふと呼ばれて、俺は振り返った。
そこには、いつかのフクロウがいた。俺にとってはあまりにも短い時間、幼い頃に出会っていた。
「お嬢を、よろしく頼む」
そうして、偶然にも俺が看取った。その最後の瞬間まで、フィーナの事を気に掛けていた。
まさか、こんな所で助けられるなんて。
「良いのかよ、自分で助けなくて」
そう言って、顔を背けた。
おそらく、もう二度と出会う事はないだろう。だから、振り返る必要はない。
そもそも俺は、そいつとあまり関係していた訳ではないのだから。
「――――任せろよ」
ただ、その想いだけは。引き継いで行こうと、そう思った。
それはきっと、苦難を極める塔が見せた、ひとつの幻影のようなものだったのかもしれない。




