F96 どうせ死ぬなら、命を賭けろ
嵐の中、俺とフィーナは屋敷を抜け出し、フィーナに与えられたアカデミー用の莫大な金を持ち出して、逃げた。
箱入り娘のフィーナに嵐の中を走ることは厳しいのではないかと思われたが、意外にもフィーナの足取りはしっかりと大地を踏み締めていた。
それはまだ、幼き日のこと。
俺が記憶を失っていた、アカデミーに入る前の出来事。
俺は、フィーナを連れ出して外まで出ることに成功したんだ。なら、どうして失敗したのだったか。
子供の足でどれだけ速く走った所で、大人の速度を超えることはできない。その時の俺はまだ<キャットウォーク>を試した事がなかったし、仮に使う事が出来たとしても、フィーナが俺の速度に付いて来られない。
だから、俺が初めて<キャットウォーク>の魔法を使ったのは、崖の上。フォックス・シードネスと対峙し、背中にフィーナを隠した時だった。
ぬかるんで滑る地面に両足を突き立て、僅かな恐怖と明確な敵意を持ち、幼い頃の俺は木の棒を握り締めて、剣を持った大人と戦おうとしていた。
「爺ちゃんは『赤い星』と戦いに行ったんだっ……!! 世界を救うって言ってたんだっ!!」
ああ、そうだ。
「お前なんかに、馬鹿にされてたまるか――――!!」
あの時俺は、負けたんだ。
木の棒を握り締め、スーツの男に殴り掛かる俺。魔法による強化が掛かり、その幼い身体は体格から考えれば、信じられないスピードでスーツの男に迫った。
殴り倒すつもりだった。幾ら剣を持っている大人とはいえ、首から上を硬い木の棒で殴られれば一溜りもないだろうと。一度気を失うまで殴ってしまえば、後はどれだけ逃げても追われる事は無いんじゃないかと思った。
フィーナが両手で口元を抑え、俺とフォックスの様子を息を呑んで見守っていた。
ほんの、一瞬の出来事だった。
俺が構えていた木の棒は、サングラスにスーツの男――――フォックス・シードネスに容易く斬り刻まれ、ただのゴミになった。
魔法を覚えた俺は当時、多分勝てると思っていた。自分はフィーナをあの屋敷から救い出し、これから共に生きるのだと、そこまで考えていた気がする。
しかし、現実というのは残酷なものだ。普通に考えても、当時の不器用な<キャットウォーク>と<ホワイトニング>では、剣を持っている、しかも手練の大人には敵わないだろうと分かる。
まだ考える事の幼い、敵と自分の実力差さえ見極められなかった自分には、それが無理難題であることを理解出来なかったのだ。
一撃どころか。一発すら、入らない。
何故か相手も、俺に一撃を与えない。
戦闘が、成立していないのだ。
遊ばれているレベルの行動に、俺は目を見開いた。
「なっ…………」
殴り合いと言うには、あまりに立場の違い過ぎる攻防。俺は崖側へと蹴られ、うつ伏せに地面へと落下した。
そのままでは、崖から落ちてしまう。決死の思いで地面に爪を立て、どうにかスピードを落とす。
だが勢いは死なず、崖に向かっていく。
崖から、落ちる。
落ちたくない。
どうにか、もがいた。
「ラッツさん!!」
フィーナの叫びが聞こえる。どうにか岩を両手で掴み、俺は崖にぶら下がっていた。雷が近くで落下し、轟音が俺の耳に届く。
ざあざあと、雨の音が聞こえている。崖の上から、フォックスがゆっくりと歩いて現れた。
その、サングラスを外し。
フォックスは、嗤った。
「――――なるほど、こうしよう。今日、常識外れなお前は外へと遊びに出ていた。運悪く崖から滑って落下し、命を落としたと」
そうか。
「やめて、フォックス!! ラッツさんを助けて!!」
こいつには、『コフール一族の執事』という、重要な役割がある。どんな理由があったにせよ、自分の手で俺を殺す事は出来なかったのかもしれない。
だって、コフール一族ってのは聖職者の一族だ。悪戯に人の命を奪う人間は、どうあっても一族の仲間にはなれないだろう。例えそれが、執事というポジションだったとしても。
「まだ分かりませんか、フィーナお嬢様。貴女が我儘を言うから、こういう事になっているのですよ」
「えっ…………」
「貴女が私の言う通りにしていれば、こうはならなかった。……違いますか?」
そうか。
だから、『流れ星と夜の塔』だったんだ。冒険者として事故で死ぬなら、誰も文句を言いはしないから。
例えダンジョンの中でも、出来れば自分の手を煩わせたくはない。それはあいつの、保険のようなものだったのだろう。
フォックスは、俺の右手を踏み付けた。
――――――――俺の手が、崖から離れる。
絶望に染まったフィーナの眼は、俺の方を向いているようで、その瞳に俺は映っていなかった。それは幼き日のフィーナが、あのフォックス・シードネスという執事の言葉を信じたという結末に他ならなかった。
言葉を鵜呑みにして信じたのか、それとも自分の人生に諦めを感じたのかは、俺には分からない。
その姿が、遠くなっていく。俺は崖から落下し、どこまでも下へと落ちて行く。
あの日、俺は記憶を失くしたんだ。
まるで自ら手を離した、あの崖の上に置いてきたかのように、大切な記憶を失った。
爺ちゃんのことも、フィーナのことも。
すっぽり抜けた記憶に埋まってきたのは、『自由気ままに冒険者になる』というキーワードだけ。呆れるほどに単純で、純粋な理由。本当はそこに、何か別の意味があったはずなのに。
次に目覚めたのは、セントラル・シティだった。大病院で目覚めた俺は、次の瞬間、アカデミーの入学試験の事だけを考えていた。
どうして、忘れてしまったんだろう。爺ちゃんの事と、何か関係があるのだろうか。
段々と、俺の姿が大人になっていく。視点も遥か上から、自分の所へと舞い戻っていく。
空白の地面に、降り立った。真っ白な世界に、俺は一人。
――――いや、一人じゃ、ない。
「少年よ、いつまでそこで寝ておるのだ。目を覚ませ」
目の前に、いつかのダンディフクロウがいた。俺の知っている幼い日のダンディフクロウからは、随分と若返っていたが。
「……ああ、目が覚めたよ」
「しかし、『ドッペルゲンガー』とは。大した魔物だな。……ここから、どうやって逆転するべきだろうか?」
俺達の真下には、黄金色の扉が二つ。リュックを背負い、無傷で俺を眺めている俺が一人。血だらけで、うつ伏せに横たわっている俺が一人、いた。
血だらけの方が、本当の俺で。……だから、俺は首を振って、答えた。
「逆転は、出来ない。……多分、俺はここまでだよ」
ダンディフクロウのクール・オウルは、真っ直ぐに俺の目を見て言った。
「本当に、そうか?」
いや、だって、考えても見ろよ。今の俺が出せる手札の中で、考えられるものは三つ。
<凶暴表現>。
<限定表現>。
<計画表現>。
いや。やっぱりこれだけじゃ、逆転の引き金は引けそうにない。この状況からどうやっても、塔に入った瞬間の、無傷の俺を超えるスペックは出ないに決まっている。
だから、無傷の俺が長剣で俺の首を斬り落とそうとしているのも、どうしようもないことで。
本当に、そうか?
何の為に、大地の魔力を融合させることを練習してきたんだ。その媒介になるものさえあれば、俺は自分の能力以上のスペックを引き出せるって、もう分かっている事じゃないか。
「まだ、戦えるだろう?」
頭の中で浮かんでいた魔法公式が、徐々にその形を見せ始めていた。
ここを、こうして。
ここを、ああして。
ほら、できた。
やれば出来るじゃないか、俺も。
後はこれを展開して、発動させれば良いだけだ。媒介になるものは、腕か? それとも、足か? ……いや。それだけじゃ、<限定表現>のスペックを超える事は、出来ない。
何か、決定的に違うものを媒介にしなければ。魔力を集中させるポイントを、変えなければ。
<凶暴表現>の時は、どうしたっけ。
「そうだ――――まだ、戦えるだろう」
クールが言った。
そうだ。どうせここで死ぬなら、生き残る可能性が僅かにでもあった方が良い。魔力の融合ミスなんか気にするな。やらなければどうせ、ここで終わりじゃないか。
あるだろう。
決定的に強化される部位で、俺が賭けられる場所。
――――――――心臓。
うつ伏せに倒れていた俺は、瞬間的に目を見開いた。両手は地面に伏せている。右手に力を入れ、奴から離れるように地面を転がった。遅れて先程まで俺が居た位置に、長剣が振り下ろされた。カツンと、真っ白な地面に当たって長剣は小さな音を立てた。
無表情の俺が、傷だらけの俺へと視線を向ける。いや、無表情ではない――――多少、驚いているようだった。
今度は、多少では済まさない。
全身に魔力を展開し、更に大地から魔力を吸い上げる。俺の足下に魔法陣が出現し、俺の全身から水蒸気のように、透明なオーラが現れる。
色のない魔力のオーラなんて、見たこと無かっただろ? 勿論こいつだって、予想外のはずだ。
それが証拠に、ドッペルゲンガーは俺の異変に焦りの色を見せ始めていた。
「…………お前は…………」
俺の声だ。だが、それはドッペルゲンガーのものだった。それは、さっきまでの俺の姿。お前には、こいつだけは真似出来ないだろう。
死の淵で俺を呼ぶ、いつかのフクロウの声が聞こえないお前には。
まだだ。まだ、足りない。集中しろ。俺なら、やれる。
やらなければ!!
「おおおおおお――――――――!!」
ぐらぐらと、溢れ出る魔力に目眩を起こしそうになる。俺の扱える本来の魔力量なんて、とうに超えている。そいつは、真下に描いた魔法公式の力だ。俺の魔力は先行投資。前払い金のようなものだ。
その、世界の秩序を司る、圧倒的な魔力量。
一分でいい。
俺に、貸せ。
「<暴走表現>!!」
脳が揺さぶられる程の魔力量に、身体が一瞬、言う事を効かなくなった。……こんな量の魔力を、他の連中はすました顔で使っているって言うのか。まあ他とは違い、俺は自分の魔力を操っている訳ではないのだが――……
俺の中で何かが切れた。心臓に集中させた大地の魔力は俺の全身を巡り、恰も俺が魔力を放出しているかのように、急速に俺の手中に収まっていく。
なるほど。どこか一箇所で融合させようとするから、無理が生じる。これは、<限定表現>よりも大掛かりな仕掛けであり、逆にコントロールを楽にさせている。
俺ではない、何か別のモノに変化しているような気分だ。
いや、例えるならこれは、『進化』か。
「なっ…………なんだ、その魔力は…………!! 本当にこれが、『ラッツ・リチャード』なのか……!?」
或いは『魔族』のような――――こうしてみると、人間の魔力っていうのはどうにも不自然だ。人工的とも言えるだろうか。感覚的なモノではあったが、以前のように魔力を無理矢理管理すると言うよりは、今の俺はただ流れに身を任せている感じだった。
俺達人間は、まるで魔力を通して何でも出来るつもりでいる。魔力を管理してやろうと、どうにか頭を使っている。
もしかしたら、管理することは正しく無い事なのかもしれない。
同調、するべきなのだろうか。
「さあ、どうだろうな」
圧倒的な魔力量を得た代償なのか、俺の背中に何か、死神のようなものが見える。気を抜けばいつでもその手を引き、大地に還らせると。そのように、言っているかのようだった。
生と死。そのギリギリのラインで、俺は今、戦っている。ドッペルゲンガーは俺の変化に驚き、怯え、俺から逃げるように後退した。
誰が逃すものか。
両手をぶらぶらと揺らし、首を回す。先程まで瀕死の状態で動けなくなっていた身体に、無理矢理活力が戻って行く。
さあ。
行こう。
「俺は、俺だ」
<暴走表現>は俺の魔力をありったけ使い、それを引き金にして遥かに大きな大地の魔力を吸い上げ、自身に付与魔法の強化版を掛ける魔法公式だ。俺の魔力は使い切る事を約束しているから、他に付与スキルを使う事はできない。
それでも、最後の仕掛けのために魔力を少しは取っておくのだが。
腕や足での魔力融合は、精々一対一の配合が限度だった。だが、全身を使うとなれば話は別だ。
言わば、<限定表現>とも、<凶暴表現>とも言える魔法公式。
しかし、そのどちらでもない。
リスクを背負っているのは、俺自身。一度コントロールを失い、融合が崩れれば、俺は死ぬ。
だから、この魔法には時間制限を設けた。タイムリミットの一分を過ぎれば、自動的に融合解除の公式が発動し、元の状態に戻ると。
俺自身の集中力が途切れるのも、大体そんなものではないかと思った。
落ちた長剣を拾い上げ、付与魔法を選ぶ。<暴走表現>の魔法公式に上乗せする形で発動するから、使える付与魔法は一つだけ。しかも、その時間中に攻撃スキルを使う事はできない。
相手は俺だ。
なら、これしかないだろう――――
「<キャットウォーク(+10)>」




