月光一夜
今、私は自分の部屋にいる。
自分の部屋のベッドで泣いている。
声を押し殺し泣いている。
嬉しいからではない、でも悲しいというわけでもない。
ただ、涙を流している。
理由が分からないもやもやを晴らすために。
頭の中を整理するために……。
人と人の関係はすぐに壊れる。
私も同じ種族だから分かる。
些細な一言、行き違い、マイナス思考、違う行動、ノリの悪さ……
本当にどうでもいいことでもだ。
思春期は特にそうだ。
頭の中では分かっている。
でも、実際体験してみると、頭では処理仕切れないようだ。
彼氏に振られた。
付き合い始めて4ヶ月と2週……
他人はどう言うか分からないけど、私にとっては長い期間だった。
一緒に色んなとこに行って、一緒にいっぱい笑って、一緒に喜んだりした。でも、終わった。
いつも色んな感情を交換する手段、メール。
それから突然、彼からの一言が来た。
〈すまない、別れよう〉
冗談だと思い、何度も確認を取った。
でも、返事は帰って来なかった。
冗談ではなかったのだ。
違う高校に通っているせいで、彼にはそれ以来会っていない。
落ち込む日々が続いた。
言うまでもなく彼氏の事でだ。
そんな時、私は親友だと、思っている友達に言葉をかけられた。
励ましの言葉だ。
〈何か事情があったんだよ。ちはるのせいじゃないよ!〉
〈何か甘いものでも食べに行こ! 今回は私が奢るから!〉
私を気づかってくれた言葉だった。
落ち込んでいる私に、凄く気を使ってくれた。
その時の私もそのおかげで、確かに少しは気が楽になったはずだった。
でも、それを表すことは出来なかった。
その優しい気遣いに対して、お礼どころか、鬱陶しがり怒った。
そして一方的に突き放した。
今、考え直すと本当に自分というものが、馬鹿でどうしようもないと思える。
一言、『ありがとう』と言うだけでよかったのだ。
その日を境に私はどんどんおちていった。
お母さんに叱られた。
遅刻、提出物、授業態度……積み重なった結果、学校から電話が来たらしい。
学校から帰って来なり、リビングに呼ばれた。
そして、先生から聞いたことを理由に私を叱った。
そこで謝るべきだった。
でも、その時の私にそんな気遣いは出来なかった。
感情に任せ、逆ギレした。
その時に、今思うと考えられない事も沢山言った。
そして、リビングを飛び出し、階段を駆け上がり、自分の部屋へと駆け込んだ。
しばらくすると、閉じたドアの向こうからお母さんの声が聞こえた。
〈ちはる、ちはる……〉
でも、私は返事はしなかった。
そうしていたら、声が止んだ。
そして、階段を降りる音がした。
そこでドアを開けて、一言『ごめんなさい』と言うべきだった。
私は知っている。
お母さんが、夜一人のときに時々泣いていることを…
お父さんが、長年の単身赴任で、お母さんも寂しいはずなんだ。
でも、行けなかった。
ベッドの上でうつ伏せのままだった。
次第に目頭が熱くなっていった。
目を開ける。
ぼんやりと見える時計の短針は2、長針は6と7の真ん中をさしている。
外からは無音が響き、部屋の中に反響し、窓からは闇色の光が刺し、部屋を暗く染める。
ぼんやりする。
周りが暗いせいではない。
何かが違うような感じがする。
まあ、あくまで私の直感だ。
気にすることはない。
現実、ここは正真正銘私の部屋で、見たところ何も異変は起きていない。
ただ、暗いだけだ。
目をこする。
眠くはない。
ただ、頭が起きていないだけだ。
唾を飲み込む。
喉が乾いていた。
ベッドから降りる。
電気はつけなかった。
すぐに戻ってくる。
ドアを開ける。
ドアはいつも通り開いた。
階段を下りる。
当然辺りは部屋より暗い。
電気が点いてないし、窓がないからだ。
けど、道は分かる。
何度も歩いた。
そして、一階に着く。
花瓶に挿してある造花、昔作った600ピースのパズル……
大分目も慣れてきた。
いつも見る光景。
この廊下をまっすぐ行けば、リビング。
その中に目的地、キッチンがある。
――ギィィィ――
暗い部屋にドアの音が響く。
怖くはない。
小さい頃は自分の足音だけで泣いていたが、もう高校生だ。
大人だ。
ダイニングにある戸棚からコップを取り、真っ直ぐキッチンへ行く
――ピチャッ ピチャッ――
蛇口の水がシンクへ垂れ落ちる。
それはいい。
しかし、おかしい……。
キッチンの奥がぼんやりと明かるい。
明るさの正体は分かる。
目的地……冷蔵庫からだ。
でも、誰が……?
恐る恐るキッチンの様子を見る。
冷蔵庫は開いていた。
その明かりの前にしゃがみ、中を覗いている人がいる。
光に目が慣れず、顔は見えない。
「お母さん?」
考えられる人の名前を呼んでみる。
しかし、その言葉に対し返事はなく、冷蔵庫は急に閉じられた。
辺りが暗闇へと戻される。
――タタタタタッ――
暗闇の影になったそれは、立ち上がり、唐突にこちらへ迫って来た。
何が何だか分からず、とりあえず身を守る為、身構える。
しかし、それは私の横をすり抜けた。
肩に当たった気がした。
でも、現実その人とはぶつかることはなかった。
何事もなかったかのようにすり抜け、ダイニングを抜け、リビングを走って出て行った。
訳が分からなかった。
でも、これだけは感じた。
追いかけなきゃ。
私はリビングのソファーにかけてあった羽織りを取り、後を追った。
深夜、住宅街。
吐いた息が白に染まる。
11月上旬……さすがに寒い。
暗く染まるアスファルトの道に、街灯の光が差すが、焼け石に水だ。
近くに、コンビニか何かがあったら少しは明るいと思うが、自動販売機すらない。
――タッタッタッタッ――
右。
影が駆けていく。
詳しくは分からなかったが、多分あの人だろう。
それを追いかける。
全速力に近いスピードを出す。
だが、距離は縮まらなかった。
影が急に消えた。
曲がり角だ。
雲陰に隠れていた月が行き先をほんのりと照らす。
数秒後、私も曲がった。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
絶えず出る、白い息の向こう。
曲がり角の先は光に満ちていた。
天へ昇る煙、どこからか聞こえてくる祭囃子、鉄板の焼ける音……
住宅街の両端。
歩行者用道路には出店が立ち並んでいた。
でも、お客さんはいなかった。
ただ、店の人がその出店に合った品を、黙々と作り続けているだけだ。
訳が分からなかった。
こんな時期、こんな場所で、出店をやっているはずがないし、聞いたこともない。
なんで突然?
考えるだけ考えても、それは現実だった。
とうもろこし、ベビーカステラ、金魚すくい、わたがし……
どれを見ても本物だ。
通りの先に視線を向けると、リンゴ飴屋の前に一人立っている。
背丈的にさっきから追い続けている人だ。
その人は、走っている時は、確かに着ていなかった浴衣を今は着ている。
青地の生地に朝顔……どこかで見たことがある。
リンゴ飴を店の人から貰う。
こちらを向いた。
出店からの光の反射で、顔はよく見えなかったが、口元は確かに笑っていた。
そして、こちらへ向かって、二回手招きした。
そして、リンゴ飴を片手に駆けていった。
「待って!」
私もそれを追いかけるため駆ける。
でも、すぐに足は止まった。
「嬢ちゃん」
呼び止められた。
リンゴ飴屋のおじさん……?
手招きをしている。
駆けて行った方を見たが、もういなかった。
しかたなく、近づくとリンゴ飴を渡してきた。
それを受け取る。
「次は落とすなよ」
おじさんは笑っていた。
そして次に、おじさんは私から視線を外す。
その視線の先は私の斜め後ろだった。
私もその方向を見てみる。
でも、私には向かいのイカ焼き屋が見えただけだった。
おじさんの方を向き直す。
だが、おじさんはさっきとは一変し、黙々と、無表情で手元の作業に集中している。
「あの……すみません」
「…………」
無反応……こちらの方を見ようともしない。
まるで聞こえなくなったかのように。
道が少し暗くなってきた。
また、月が雲に入ろうとしている。
目の前に起こっている事態はまるで分からない。
でも、今はあの人を追いかけるのが先だ。
「リンゴ飴……ありがとうございました」
一礼し、顔を上げる。
そこには、真っ赤な郵便ポストがあった。
「おじさん……?」
周りを見る。
屋台がない。
リンゴ飴屋だけではなく、さっきまで出ていた屋台全てだ。
祭囃も鉄板の焼ける音も一斉に消えた。
今はただ無音だけが私の中で鳴り響いている。
――チリン チリン――
音……音だ。
鈴の音だ。
この道路の先……影だ。
浴衣は着ていない。
代わりに着ているのは……制服?
それにあのデザインは私達の――
――チリン チリン――
こっちに向かって大きく手を振る。
その度に腰に着いている鈴が揺れる。
そして、手を下ろすと、また背中を向け走り出した。
「あっ! ちょっと!」
追いかける。
でも、やっぱり追いつかなかった。
けど、決して引き離されることもなかった。
消えた。
交差点だ。
前、右、左……。
どこへ行ったんだろう……?
耳を澄ます。
音はなく、ただ、夜風が冷たいものを私に当ててくる。
「……み、右かな?」
直感に任せ、右に曲がる。
また交差点……。
一体どこに……?
――チリン チリン――
鈴の音……左だ。
次も交差点…鈴の音が聞こえる。
左だ。
鈴の音…前……。
右…右…右…前……。
――チリン チリン――
月光が雲を突き抜ける。
辺りがほんのりと明るくなる。
やっと…見つけた。
前方に建つ街灯の下、一軒の家を見つめる人。
間違いない。
「あなたは一体……誰なの?」
「…………」
質問に対する答えはなかった
そのままこちらに顔を見せることはなく、目の前の家へと足を進めていく。
「ちょ、ちょっと!」
姿がドアが閉まる音と共に消えた。
人を消した玄関の前へと足を進める。
左に郵便受けとインターホン。
右には表札……。
表札に刻まれている文字には見覚えがある。
でも……違う。
こんな場所にないはず……。
けど、さっきの制服……。
いや、違う、違うはずだ。
――ギィー ――
ドアが勝手に少し開いた。
入れ
そう言われた気がした。
気がしただけだっただけだったが、そう思い直した時には、私はもう家の中だった。
暗い。
外より暗い。
光を放つものがない。
――ギィー バタン――
ドアが急に閉まる。
その瞬間、私は手で目を覆った。
光……光だ。
急に強い光が点いた。
しばらくし、慣れる。
光に慣れた瞳の先に映るのは、見覚えのある姿だった。
……わたし?
それも1人ではない。
2人、3人、4人……。
沢山のわたしに囲まれる。
「な、何?」
私の驚きに対し、わたし達も同じように驚く。
これって……。
私が動く。
わたしも動く。
思った通りだ。
全て、鏡の中のわたしだ。
出なきゃ……。
後ろを見る。
そこにはわたしがいた。
よく見ると、わたしの間には私の後ろ姿も映っている。
あれ……? どうしよう?
辺りを見る。
わたし、わたし…わたし……。
でも、一部分だけわたしがいなかった。
近づく。
そこは通路だった。
私は進んでみる。
わたしも、左右に並び進む。
目の前のわたしが、すぐそこまで迫ってくる。
すると、右にいたわたしが消えたのでそちらへ進む。
しばらく進むと、脇にドアがあった。
入ってみる。
そこにはわたしはいなかった。
何もない部屋。
そこの真ん中に一人の女の子がいた。
女の子は膝を抱えてしゃがんでいる。
「どうしたの?」
女の子は反応してくれた。
「お腹がすいたの」
こっちを見つめる。
何か食べるもの……?
ポケットを探る。
何かが指に当たった。
リンゴ飴だった。
「これ……食べる?」
「うん!」
女の子は目を輝かせ、私の手から奪う。
私のこぶしより小さく、ルビー色の光沢を纏ったリンゴを、女の子は一心に食べる。
――ガリッ シャリ シャリッ――
数分もかからずになくなる。
今は、棒だけになったそれを、女の子は嬉しそうに舐めている。
「おいしかった?」
「うん!おいしかった!」
女の子は満面の笑みでこちらを見つめた。
その場にしゃがんで女の子と目を合わす。
「としはいくつ?」
「五才!」
「あなたのおなまえは?」
「わたし? わたしは……わたし!」
「わたしちゃん……って言うの?」
「ううん。わたしはわたし!」
「……えっ?」
自分の名前を知らない?
可能性はあるけど……。
「おねーちゃんは?」
「えっ? ああ……ちはる。私の名前は、ちはる」
「ちはる……ちはるおねーちゃん!」
女の子はその名に目を輝かせた。
そして、私の手を掴む。
「わたしを助けて!」
そして、引っ張られる。
しゃがんでいたので、転けそうになった。
向かう先はドアだった。
何もなかったのにそこにはドアが出来ている。
そこへと連れて行かれた。
『わたしを助けて』……どういう意味?
勝手にドアが開く。
そこは、また部屋だった。
そこには、少女が1人がいた。
女の子が、私の羽織りを引っ張り、私の目を見つめる。
「わたしを助けて」
その言葉を受け、私はゆっくり少女に近づく。
少女は何か呟いている。
「ごめんね。助けになれなくて。ごめん……」
その言葉は少女の前にある、少女と同じ大きさのガラスに向けられている。
ガラスに誰か映っている。
少女みたいだ。
でも、呟く少女ではない。
……私だった。
制服姿の私は、ガラスの中で目を瞑り、立っている。
それに向かって少女は言う。
「ごめんね」
呟く少女の隣へ近づく。
見えた横顔を見た瞬間、確信した。
……親友だ。
また羽織りの裾を引っ張られる。
女の子が私の目を真っ直ぐに見て、言う。
「わたしを助けて」
そうだ……思い出した。
私は、この女の子と遊んだことがある。
私がこの子ぐらいのときだ。
砂遊び、かけっこ、おままごと……色々した。
いつも一緒だった記憶がある。
小学校、私が男子に虐められているとき、庇ってくれた。
中学校、テストの点が悪いとき、一緒に勉強してくれた。
高校……落ち込んでいるとき、励ましてくれた……。
私は何をした?
何か返した?
……何もしていない。
それなのに、私の事を思ってくれているのだ。
自分を責める程、こんなにも、こんなにも……
気づくと、私は親友に抱きついていた。
目を閉じると言葉が出てくる。
「ありがとう……いつも……ありがとう……」
それだけだった
それだけが溢れていた。
「ちはる……」
背中越しに声が聞こえる。
「……ありがとう」
突然、支えていたものが消える。
空気に抱きつき、そして、こける。
少女も、女の子も、明るい光も全て消えた。
風が吹き、ぼんやりと明かりが届く。
外だ。
手と足についた小石と砂を払い、立つ。
滑り台、地球儀、砂場……。
公園だった。
今なら分かる。
この公園は、何度か連れてきてもらったことがある。
――ギーコ ギーコ――
人がブランコに座っている。
あの人だ。
さっき、ドアに入った時と同じ、制服姿のままだ。
俯いているので、やはり、顔は確認できない。
でも、今の私には分かる。
根拠も確信もない。
でも、分かった。
あの人がどんな顔をしているか
あの女は……誰か。
人は立ち上がった。
そしてこっちに興味を示さず、私の向かい側にある公園の出口へ、一直線に駆けていく。
「ま、待って!」
その言葉では、案の定止まらず、一瞬のうちに公園を出て行った。
早く追いかけなきゃ……確認しなくちゃ……
私は出て行った方向へ歩き出した。
「お待ちください! そこの御淑女!」
私の足行きが強制的に止まる。
後ろをみた。
そこには、黒のシルクハットに、黒のタキシードを着ている、男の人が立っていた。
「ありがとうございます。御淑女殿」
男はシルクットを取り、一礼をする
右……左……
公園は私1人だけだった。
御淑女って…まさか、私?
男は近づいてくる。
そして、後二歩程でぶつかる距離まで迫ってきた。
「私は紳士。暗闇の紳士と呼ばれる者です。どうでしょう? 可憐なる御淑女。私と、一曲踊って頂けませんか?」
「えっ? あの……はい?」
「私が責任を持ってエスコートします。ちゃんと音楽も用意しますし」
一瞬、男の手で視界が奪われる。
月の光が、私の目へ再度染み込む。
仮面をつけた、黒いドレス姿の人達、数人によって囲まれていた。
それぞれ、手にはヴァイオリンやチェロなど弦楽器を銘々に持っている。
「さあ、ステージは整いました。御淑女 shall we dance?」
無音の世界に、三拍子のリズムが刻まれる。
その度に、私の体は男によって弄ばれるに動く。
「お上手ですよ、御淑女」
先程から、男は目を瞑ったままだが、私のイレギュラーなステップにも動じない。
踏むことも、踏まれることもさせず、何事もないように、私をエスコートする。
そして、私がそれに慣れてくるのを確認すると、速度を速め、より複雑なステップを踏む。
周りのドレス達も、それに合わせ、私達を囲みできた輪を、壊さずに舞う。
淡々とした三拍子を守り、手に持つ楽器で、音符を盛る。
数分間踊った末、男は私を使い、華麗なフィニッシュを決めた。
激しく動いたにもかかわらず、息一つ上がっていない男に対し、自分から動いてない私の方が、明らかに息が上がっている。
「お上手ですね」
「いえ、そんな……」
「もう一曲お願いできますか?」
「えっ、でも私行かないと……」
「闇夜は始まったばかりです。そんなこと気にせず。さあ!」
男が私の手を掴んだ時だった。
「そのお嬢さんは次は私と踊るのよ」
声の先には、黒いドレスで、その色白な肌身を包んだ女性がいた。
ウエディングドレスなどの厳かなドレスではなく、簡易かつ、上品なドレスだった。
その女の後ろには、仮面をつけ、黒のタキシードに身を包んでいる人達が控えている。
その人達の手には、月光に照らされ、トランペットやフルートなどの管楽器が光っていた。
男が私の手を掴んでいることも気にせず、女は私の両手を掴む。
「わたくしは深夜の貴婦人。今宵はお嬢さんと一緒に踊りたい気分なの。踊って下さるよね?」
「あの……私……」
女に手を急にひっぱられ、体が密着する。
「Let's dance together」
月の光が広がる公園に、四拍子の音色が列を成す。
それに合わせ女は、男とは相対的な、キレがある大胆な動きを、私を使いながらみせる。
「なかなか上手ね、あなた」
「私は何も……」
喋っていたら、舌を噛みそうになる。
右へ、左へ、私の体は動く。
それを囲み、周りのタキシード達も、突き抜けるような音色を天へ上げる。
やはり数分間、女は飽きもせず踊った末、男に負けないくらいのフィニッシュを決めた。
また息が上がる。
言うまでもなく、私がだ。
女は満足げに私を見つめている。
「楽しいわね。お嬢さん、もう一曲いかがかしら?」
「だから、私は―」
「何を言っているんだ? その御淑女は私と踊るのだぞ?」
女の言葉に対応したのは男だった。
女へと詰め寄る。
「何なの? あなたは?」
「私は宵闇の紳士。この御淑女と踊る約束をしていた者だ。一回だけと黙っていたが、もう一度と言うなら許せん」
私からすると理不尽だけど、男は物凄い形相で女を睨んでいた。
「お嬢さんはあなたと踊るのを嫌がってるのよ? だから、私と踊るの。私も、もう一曲舞いたいし、利害の一致よ?」
そして、淡い月の光を背中に従え、こちらに女は歩いてくる。
しかし、男の手が女の肩をしっかり掴み、動きを制止させた。
「何よ? 行ったらいけないの?」
「まだ、話が終わってないだろ?」
「話が終わってないって何よ? 私がいつもその言葉言いたかったわ! でもあなたは私…私達の言葉も聞かず、何事も自分で先々決めたじゃない」
私達……?
訳が分からない……それに、明らかに女の口調が変わっている。
「仕方ないだろ? お前の言う通り、自分一人で決めた。でも、お前達に不自由をさせないためだ。分かって欲しいとは言わない」
男の口調もさっきまでとは違う。
それに、どこか寂しそうだ。
まるで二人とも別人……いや、違う。
これって……。
「分かりたくもないわよ! 行くなら行って!」
「分かった。行くよ。でも、これだけは覚えていてくれ…」
「「俺はお前達を愛してる」」
覚えている……。
聞いた…この言葉を……見た…光景を……。
男が離れていく。
女はその場に立ち尽くす。
あの時は、この光景を戸の影から見るしかなかった。
だから知っている。
男の姿が消えると、あの女は泣き崩れる。
あの二人のことは知らない。
でも、この光景は知っている。
もう見たくない、二度と。
だから、言う。
あの時言えなかった言葉を―
「待って!」
男がこちらを向き、目を見開く。
そして言う。
「ちはる?」
その名を呼んだ顔は、出会ったばかりの紳士だった。
でも、その瞳…あの瞳を持つ人を私は知っている。
「行かないで……お金なんてどうでもいい。不自由でもいい。私は…私は……
お母さんとお父さんの笑顔が見れたらそれでいいの!」
胸の鼓動が体中に響く中、私は男と女に抱きしめられていた。
何も言わず、ただ強く、固く。
多分、あの時もこの言葉を……いや、一言だけでも言いさえすれば、この感触を経験してたんだろう。
私は目を瞑った。
ずっとここにいたい。
この温もりに包まれていたい……。
ここならもう何も失うことはない……。
「残念だけど、それは無理だよ」
声がした。
聞き慣れた声。
人一倍聞いた声。
その声により、突き放されるように全て消える。
微かな温かい感触を残して……。
月光が全てのものを平等に照らす。
アスファルト、家、街灯、人……。
生垣が続く黒い一本道、そこに私とワタシがいた。
「こんばんは」
ワタシが笑い、私の声で挨拶をする。
「あなたはいったい誰なの?」
「そんな決まり文句言っちゃって、分かってるくせに」
ワタシは笑みを作り、私の瞳へと視線を注ぐ。
「私はアナタだよ」
笑顔を崩さず、当たり前のように言う。
見つめ合ったまま動かない、動けない。
「ここに来てからの調子はどう?」
「ど、どうして?」
「落ち着いた?」
「……えっ?」
「落ち着いたようだね」
同じ声でのやり取り。
ワタシは優しい笑顔をこちらに向ける。
「今までのこともアナタがやったの?」
「私がやった? 違う。あれは私が守っているもの。アナタがくれたもの」
「……どういうことなの?」
「私はアナタだよ。そしてアナタは私。分かる?」
相変わらずの笑顔。
私の笑顔。
ワタシは笑う。
……私はいつから笑っていないんだっけ。
「あなたはまだここに来ちゃいけない。あなたは頑張れるんだから……」
「あなたは…頑張っていないの?」
「私は頑張る方じゃない。私は待つ方、守る方。アナタは行く方、探す方……」
「で、でも…でも、怖いよ……。頑張れるか…行けるか…探せるか……」
考えもしない言葉。
それに伴い、熱を帯びた塊が頬を伝っていく。
そしてそれは、終着点に着く前に冷たくなり、消える。
私の本心…私の感情、私の現状……。
「かわっ…て。代わってよ。わたし…私が待つ方がいい……守る方がいい……」
「それも無理だね」
「なん…でよ……」
「だって、アナタが、私だもの」
ワタシが…ぼやけた姿のワタシが、静かにこちらに来る
そして、静かに抱きしめられる。
強くもなく、硬くもなく、温かくもない。
でも、胸が熱かった、心地よかった。
「わたし……頑張れないよ? 行けないよ…? 探せないよ…?」
「いつも頑張れなくていい。時には休憩したっていい。小さな小石しか、見つけられなくてもいい」
「それも…それもできないかも…しれないよ?」
「できるよ。アナタならできる。だって、私がずっとそばにいるもの。私がずっと到着を待つし、私がずっと見つけたものを守るもの……」
目の前がぼやける。
月の光、夜の風、街灯の灯り、アスファルトの感触……全てぼやけてくる。
でも、ぼやける中ではっきりと、鮮明に声は聞こえた。
その声は、私なのか、ワタシなのかは分からない。
でも聞こえたことは確かだ。
アナタの知るとこ アナタの知らないとこ
私はずっとそばにいる
私が知る場所 私が知らない場所
あなたはずっとそばにいる
だから迷わないで、怯えないで
アナタのする事が私のした事になるから 絶対その足跡を守る
私がした事があなたがする事になるから 絶対に足跡をつける
だから ワタシにもっとアナタを見せて
がんばることをやめないで
目を開ける。
ぼんやりと見える時計の短針は2、長針は6と7の真ん中をさしている。
外からの音はなく、時の歩む音が時計より鳴る。
月の光が窓から差し、部屋を優しい光で包む。
ぼんやりする。
周りが暗いせいではない。
何かが違うような感じがする。
まあ、あくまで私の直感だ。
気にすることはない。
現実、ここは正真正銘私の部屋で、見たところ何も異変は起きていない。
ただ、少し暗いだけだ。
目をこする。
眠くはない。
ただ、頭が起きていないだけだ。
唾を飲み込む。
喉が乾いていた。
ベッドから降りる。
電気はつけなかった。
すぐに戻ってくる。
ドアを開ける。
ドアはいつも通り開いた。
階段を下りる。
当然辺りは部屋より暗い。
電気が点いてないし、窓がないからだ。
けど、道は分かる。
何度も歩いた。
そして、一階に着く。
花瓶に挿してある造花、昔作った600ピースのパズル……
大分目も慣れてきた。
いつも見る光景。
この廊下をまっすぐ行けば、リビング。
その中に目的地、キッチンがある。
――ギィィィ――
暗い部屋にドアの音が響く。
怖くはない。
小さい頃は自分の足音だけで泣いていたが、もう高校生だ。
リビングを抜け、ダイニングへと行ったが、様子がおかしい。
人が椅子にが座りうつ伏せている。
近づく。
その人の目の前には、ひっくり返された茶碗とお椀、サバの味噌煮……。
……待っていてくれたのだ。
私が降りてくるのを、ずっと……。
静かにリビングに行き羽織りを取る。
そして、寝ている人へそっとかける。
私は…私は何をそんなに――。
――何をしてたんだろう?
一言、言えばよかったのに……。
私も椅子に座る。
隣で静かに寝息をたてる人を見る。
そして、やっと言葉にすることができた。
ごめんなさい