お帰りなさい。
「ただいま」
そう告げる彼の声が、やけに響いて聞こえる。
あまりの寒さに体を震わせながらも私は返事をする。
「お帰りなさい。今日はどうだった?」
「すごく大変だったよ。三平方の定理が分からなかったらしくてね、
授業中、頭を抱えて156ページの問題2を解いてたよ」
「私もそんな感じ。でも古文は難しいからな……。
もっと分かりやすく説明できれば良いんだけどな」
彼を迎えて、二人で今日の報告をする。
私は国語教師。そして彼は数学教師だ。
同じ職場だけれど、一緒に仕事をすることは無い。
だからこうして今話し合うのだ。
「あれ、古文ならこの図を使えば良いんじゃないのか?
少なくとも中学ならこれで十分理解できるだろう」
「あ~……。でもこれを使うと漢文のときに誤解しちゃうのよね」
教育現場は地獄だ。そう例えても違和感は無い。
しかし、その疲れも彼と話していると消えてしまう。
笑みが零れる。幸せが生まれる。
まさに私の生きがいともいえる場所だった。
「――さて、もうそろそろかな」
朝を告げる太陽の光が私たちの背後から降り注ぐ。
私は名残惜しそうにカーテンを見やると隙間から光が漏れ出していた。
「今日は私はお休み」
「僕は……一時間目に授業があるな」
彼と目を合わせると、お別れの挨拶を告げた。
「じゃ、頑張ってくるね」
「頑張ってね。いってらっしゃい」
私が手を振ろうとした時、不意に彼が宙に浮かんだ。
「急がないとっ!」
彼は勢いよく通学鞄に入れられた。急いだ様子の私達の持ち主は辺りを見渡し、
乱暴にその鞄を掴んで部屋を飛び出していった。
「あはは、相変わらずお寝坊さんね」
私が来てからいつもこの調子だ。少しは直そうと思わないのか。
まあ、教科書である私には関係の無いことかな。
「でも私達を大切に使ってくれるからね。全力でサポートしちゃうよ。
二人とも、一日頑張ってね」
お帰りなさいと言える時を心待ちにしつつも、私は本棚から
数学の教科書とその持ち主を見送った。