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ベタベタする。
身体中がベタベタ。できることなら、夢で見た藍色の草を百万本くらいまとめてぶった切って、そいつらを全部ポプリにして、その中に飛び込みたいくらい、身体がベタベタする上に匂った。人間の匂い。てか、動物臭い。
私の頭は広司のノータリンの腕の上にある。平たく言えば、腕枕をされている。で、広司の腕もペトペトする。私の耳と頬と首筋に、36度くらいの熱を感じる。窓は閉め切っていて、空気が猛烈によどんでいた。私と密着しているこの男と、ちょっと前に潜水艦の映画を観た。映画館じゃなくて、ここで、広司の部屋で観た。私が観たいと言ったわけではなくて、広司が観たいと言ったので、不承不承私は無言の同意をして、観た。ドイツの映画で、息苦しくなった。でも私は甘かった。ジブラルタル海峡の底で、ぶっ壊れ、浮上できなくなった潜水艦の乗組員の気持ちを、私は理解していなかった。彼らがようやく浮上して、ハッチから流れてくる新鮮な空気を、宵宮の出店で口をぱくぱくさせる金魚みたいに吸っている姿を、私はちゃんと理解していなかった。
ここは、きっと潜水艦の中なんだ。カーテンは閉め切ってあるし、ドアも閉めてある。で、横にはあの映画みたいに肌をテカテカさせた男がいて、空気がよどみ、体臭で満ちている。いまなら私は、潜水艦の乗組員達の気持ちが、ほんのちょっと分かる。体感的に。で、思った。私は絶対に、死んでも、潜水艦には乗らない。まあ乗りたいと思っても乗れないと思うけど。私はやっぱり空がいい。吸いたくても空気がないとか、体温で血液が沸騰するとか(私は飛行機の本を読んで、気圧が下がると沸点も下がるって、理解したようなもの)、そんなのはどうでもいい。よどんだ空気と匂いに包まれて、ポワポワした意識のままで死ぬのはごめんだ。
広司はなんだかとろけそうな顔をして、私の頭をナデナデしてる。ナデナデするのはいいけど、私の髪もペトペトしてる。シャワーに入りたい。別に広司と一緒でもいいから、汗を流したい。汗と、以下省略。
「今、何時?」
カーテンはペラペラで、外がまだ明るいのは分かる。でも正確な時間を、ちょっと知りたかった。
「え、なんで」
「まだ帰ってこないの?」
「まだ帰ってこないよ」
そう言って、広司のバカは時間を教えてくれない。仕方ないので、私は半身を少しずらして、ベッドのヘッドボードに載せてある目覚まし時計を取った。まずい、コンタクトがずれそう。瞬きしてごまかした。
「五時、半」
「まだ平気だって」
広司はそう言って、まだ私の背中の下に潜り込んでる右手で、私をたぐり寄せた。暑い。暑い。暑い。
「暑い」
とうとう口に出てしまった。
「暑い?」
「暑くないの?」
「別に」
「冬は寒い寒いって言ってるくせに」
「別に今は暑いって言ってないべ」
「私が暑いの」
この光景はなんという光景だろう。布団は床にずり落ち、ようするに我々は、マットの上で、身ぐるみはがされてる。いや、はがされたのは私で、自分でスッポンポンになったのはこのバカ男だ。
「窓開けていい?」
「そんなに暑い?」
「ついでにクサい」
窓を閉め切ってドアも封鎖していたのは、スクランブルオーダーを受領した戦闘機のアフターバーナーの爆音を遮るのと目的は同じ。音が外から聞こえるか、中から漏れ出すのを防ぐか、その違い。しゃくに障るのは、その音の発信元が、この度は戦闘機ではなくて私、という由々しき事実である。文句を言っておいて広司にはちょっと悪いけど、確かに音を出すのは私だ。出るものは仕方がない。で、戦闘機の爆音ほどではないけれど、この音も漏れると具合がよくない。自分で自分の音を第三者的に聞いたわけではないけれど、具合がよくないに決まってる。
私はとりあえずベッドから降りた。本当はまっすぐカーテンを開けて窓も全開にしたいところだけど、そんなことをしたらとんでもないことになってしまう。ベッドから降りて、私は身ぐるみをはがされた手順と逆のことをした。五分かからず、セーラーとスカートをはいて、ソックスもはいた。髪は、どうなってるのかわかんないけど、我慢できずに私はカーテンを開けて、窓を全開にした。夕暮れの近い空気が冷たくて、私はあの潜水艦の乗組員のように、口をパクパクさせて深呼吸を繰り返す。で、部屋を横切ってドアも開けた。空気が抜ける。匂いも抜けてくれ。
「いい天気」
私は窓辺に立って、住宅街と点在する畑と草地を見渡した。日は傾いているけれど、空は真っ青だった。バスを待ちながら雷雨を眺めたのはおととい。昨日の午前中まで雨は降っていたから、空気が澄んでいる。雨降りの翌日、晴れた朝は気持ちいい。今はその気分に近かった。
「飛行機」
窓辺からファイナルアプローチ、グライドスロープに乗ったトリプルセブンが見えた。でも遠い。そんなに音もうるさくない。
「どれ」
Tシャツになぜか学校指定のジャージをはいた広司が隣に立った。むかつくほどに背が高い。私の目線に奴の鎖骨がある。
「あれ」
「おお」
広司はまぶしそうに目を細めて、右手を額にかざした。団子みたいな私の鼻と違って、このバカ男の鼻梁は高い。鼻の穴の断面積も私よりありそう。一回の呼吸でどれくらいの空気を吸い込むんだこいつは?
「南向きだ」
広司がつぶやく。見りゃわかるだろう。この部屋は北西を向いている。窓の向かって右側から左側へ、傾斜をつけてトリプルセブンは消えていく。
「いま時間って、飛行機多いよな」
「時間が時間だから」
「お前、人間運ぶ方にはあんまり興味ないのな」
「そんなことないって」
「空飛んでりゃなんでもいいのかと思ったら」
「残念でした」
気付くと奴の声は私の背後から聞こえてくる。と思ったら、広司に背後から抱きすくめられた。
「やめれって」
「いいべや」
「見られるって」
「見てないって」
自分に都合よく物事を解釈できる人間がうらやましい。その前にこいつには羞恥心というものがないのか。私はふりほどこうとしたが、残念ながら案外抱きすくめられてるのが気持ちよくなったので抵抗するのをやめた。だからダメなんだ、きっと。なんとなく気持ちよかったけど、やっぱり外から見えるのが私にはどうにも耐えられなくて、ゆっくりゆっくり体重を奴に預けるようにして、後ずさる。広司は気付いていないのか、気付いているけどそのままにしてるのか、私の体重を受け止めたまま、ゆっくりゆっくり後ろへ下がっていく。足もとに落っこちてるティッシュを踏んづけた。ぐげ。
「ゴミ」
私が言ったら、広司は無言でそいつらを蹴飛ばした。
「暑い」
本当はそんなに嫌じゃなかったけど、実際制服越しに抱かれてると、やっぱり暑い。
「暑くない」
「暑い」
一歩一歩下がっていったから、私は広司に抱っこされるようにしてまたベッドに転がった。私の太ももが広司の膝にあたった。ちょっと痛かった。
ベッドに転がると、掃き出し窓から空がきれいに見えた。雲がゆったり流れてた。まだ秋には遠いけど、なんとなく秋に見かけるような、刷毛で掃いたみたいな雲だった。でも描けって言われても私は描けない。なぜならば私には絵心がないからだ。私が描くと、残念ながらF-15とMiG-25の区別ができなくなる。チャキは「同じに見える」って言うけど、実は違うのだ。違うんだけど、私の絵心ではその違いを再現できない。もっとも、チャキくらいになると、F-15もMiG-25もF-14もF/A-18も全部同じに見えるのかもしれないけど。私がヒラメとカレイと鯛とスズキの区別がつかないのと同じに。
抱かれてるのも気持ちよかったけど、今度は暑さよりもスカートがしわしわになりそうだったので、ごろんと奴の横に転がって、すばやく立ち上がった。またティッシュをふんずけそうになったので、私はたたらを踏んだ。
窓辺に戻る。町の音が聞こえる。飛行機が飛んでいないと、町の音が聞こえるんだ。犬の声、車の音、電車の音、鳥の声。風が吹けば、広司の部屋は二回だから、すぐ横に生えてる名前がなんだったか忘れた木の葉が揺れる音がする。自然の音って、耳障りじゃない。正直、私も飛行機の音がいい音かって訊かれると、あれは騒音だと思う。でもおんなじくらいすごいでかい音なのに、雷の音は、耳障りだとは思わない。たぶん、人間が動物だからなんだ。恐いって思うけど、耳障りだって思わない。戦闘機が地面を蹴立てて飛んでくるとやかましいけど、雷が遠くからビカビカ光りながらやってきても、やかましいとは思わない。これって不思議だ。
窓辺に立つ。桟に右手をついて体重をちょっとあずけて。
風が吹いてくる。
飛行機はほぼ向かい風で離陸する。着陸も同じ。風に向かって飛ぶ。そしていま、私は全身で風を受けている。私は右手を窓の桟から離して、両足で立つ。風がまた来る。
「ねえ」
私は外を向いたまま、風を受けたまま、広司に呼びかける。
「歌、知ってるよね。『翼をください』って」
「知ってる」
「歌ったことあるよね」
「中学の時、合唱コンクールで歌ったよ」
広司はどうやら、ベッドに横になっているようだ。そんな声だ。
「歌える?」
私は問う。返事が来ないので、私は『翼をください』のフレーズを口に出した。絵心にも自信はないけど、歌も自信はない。けれど、何となく口をついてメロディが風に乗る。
「飛べそうな気がする」
サワリまで届かず、ほんの何フレーズかを歌っただけ。気分が高揚してる。飛べそうな気がする。
「飛ぶなよ」
「飛んだら?」
「救急車だ」
私は振り向かない。外を向いてる。気持ちいい。身体のペタペタが取れていく。
「飛びたいって、思わない?」
私が言うと、広司が『翼をください』のサワリを歌った。盛り上がるとこ。このバカ男、悔しいことに疑うまい。音をはずさず、きっちり1コーラスの最後まで歌いやがった。
「飛ぶなよ」
「飛べないよ。でも、飛べそうな気がする」
「なんで」
私は振り返る。
「だって、気持ちいいんだもの」
広司はニヤニヤでもニタニタでもない、ニコニコと微笑んでいた。
悔しいが、私はこの笑顔に弱い。
「飛べたら、いいのに」
「ダメだって」
「なんで」
「お前、飛んだら帰ってこないべ」
「なんでそう思うの」
「そのまんま、風に飛ばされて、どっか行っちゃいそう」
私は広司と向かい合った。広司は横になっていた身体を起こして、ベッドに腰掛けた。そして、まっすぐに私を見た。
「行っちゃったら?」
私が訊く。
「困る」
一言、即座に、広司が返した。
照れくさいけど、私は、……。
ベッドに腰掛けてる広司の膝に飛び乗った。