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薄暗いから街灯が点いてる。私は昇降口の手前のホールで、窓の外を見ていた。地学の時間に降り始めた雨は、ドンガラドンガラと景気のいい雷を鳴らしながら、いよいよ今夜が祭のクライマックスとでも言わんばかりに盛り上がっていた。ストロボライトも薄暗くなるとそりゃもう効果覿面ってもんで、ノッチがまずホームルームが終わると真っ先に帰った。私が思うに、雷雨の中をあわくって帰るより、しばらく学校の中で様子を見たほうがお利口さんだと思うのだけど、ノッチはたぶん、お利口さんよりもちょっと頭が足りないアイドルを目指したいんだと思う。それが証拠に、追っかけならぬ、彼女の言うところの愛しの彼氏がちゃんと廊下の外で待ってて、しかもそいつは傘を一本しか持っていなかった。相合い傘で帰る気だ。こいつらはバカだ。
ニャーはバスケ部。晴れても雨でも外で部活をやってるわけではないので(ロードワークは別か)、ドラムバッグを持って消えた。ユーカは吹奏楽部。似合わない。楽器はなんだっけ。トロンボーンだっけ。私だったら、あの楽器、腕が届かないような気がする。そんなわけでユーカも消えた。ミャーは、気付いたらいなかった。犬みたいに足が速い。ぜったい走って帰ったんだ。ミャーの家は学校を出てすぐそばだ。チャキは、まあ図書館が妥当なとこ。で、私は取り残されて雷雨を眺めながら、バスを待ってた。
学校の前にもバス停はあって、ちゃんと雨よけもあるんだけど、ここにいる方が断然環境がいいのは間違いがなくて、万が一落雷したとしても、アクリルと鉄の棒を曲げて作った卒業制作みたいなバス停と、曲がりなりにも鉄筋コンクリート造りの学校では、自ずとその強度ってのが変わってくるわけで、中いる場合の生存性にも十分影響する。私は悪いけど、飛行機事故と落雷で死ぬのはゴメンだ。
飛行機事故。どっかの本で読んだ。
(飛んでる奴は必ず墜ちる)
確かにそうだ。翼で揚力を得て空を飛ぶ物体は、翼が揚力を失ったら墜ちる。鳥も同じ。考えると、NASAとかがバカスカ打ち上げてるロケットってのは飛行機なんだろうかと思うわけだけど、あれもロケットモーターが燃え尽きたら墜ちる。下手すりゃそのまんま、大玉と化して空に散る。そういう死に方もゴメンだ。
墜落。
空を飛ぶ以上、着陸以外の方法で、地上に戻ってくることもある。
休み時間、フェンスが張り巡らされた「安全な」屋上で、ミャーだかが言ってた。
(よくあんな鉄のかたまりが空飛ぶよねぇー。考えたら恐い)
だったら考えるなと私はつっこみを入れる寸前まで行ったが、幸い私は着陸態勢に入っていた日本航空のボーイング747を見上げていたから、ミャーの言葉を耳が受け止めて、それを脳が言語化したところでストップした。
(修学旅行さ、飛行機乗るんだよねぇ)
ミャーは耳をふさぎなから、それでも私と同じように飛行機を追っていた。
(乗るでしょ)
答えたのはユーカだ。
(初めて乗るんだよねぇ)
ミャー。そうなのか。そうかもしれない。
(恐いの?)
ユーカ。口ぶり的には、きっと飛行機に何回か乗ったことがあるんだ。
(恐くないの? だって、あんな高いとこ飛ぶんだよ?)
飛行機を追うのをやめたミャーが、ユーカを真っ正面に向いて言った。
(高いったってさ。あれは飛ぶようにできてるんだから)
私は胸の内で喝采をユーカに送った。そう。あれは飛ぶように作られてるの。飛ばなきゃおかしい乗り物なの。
(あんな重たい物、どうやって浮くんだろう)
人のことを言えた身分ではないが、ミャーは一度理科を勉強し直した方がいい。
(あー、んー、デブがプールに飛び込んでぷかぷか浮いてるようなもんじゃないの?)
ユーカが答えると、ミャーは爆笑した。あながち見当はずれなことは言っていない。ただし、ユーカが言う「デブがプール」は、飛行船に当てはまるんじゃないかな。主翼で揚力を得て空を飛ぶ固定翼機はちょっと違うと思う。
(そんなもん?)
おっ、ミャーが疑問を抱いたぞ。
(てかさ、あんたただ恐いだけっしょ)
(高いとこ嫌いだもん)
まあ、人口に占める「高いところが大好き」という人間は、確かにそれほど多くないと思う。私も、実は高いところは好きじゃない。
(ユーカさ、北一硝子、行ったことある? 小樽の)
ミャーが言う。タッチダウンし、スラストリバースまで終わった747が誘導路に入ったと見えて、空はいっとき静かになる。でもまたすぐに次が来る。
(小樽がどうしたって?)
(北一硝子じゃなくて、オルゴール堂だったかなー。なんかさ、すんごい恐い階段があるのよ)
(どんな?)
(下が見えるの)
(へぇ)
(あたしそういうのダメ。全然ダメ)
ミャーが両腕で自分の身体を抱きしめる。女の子らしい仕草のはずなのに、ミャーがやっても様にならない。きっと私がやっても様にならない。
(だったらいいじゃんよ。飛行機って下見えないから)
おお、ユーカ冷静だね。私もそう思うよ。下が見えたら楽しいんだけど。
(修学旅行ってどこだっけ)
チャキの声だ。ずっと屋上にいたんだ。小脇になんか本を持ってる。本当に本が似合う子。私が持ってても、それ枕にするのか、それ捨てるのか、それ古新聞に出すのか。
(京都、奈良、東京、でしょ)
ユーカが答える。
(ディズニーシー、行けるんだっけ?)
声がうわずっている。ミャーだ。
(忘れた。ディズニーランドじゃなかったっけ)
ユーカ。
(自由行動ってあんの?)
チャキ。私の隣に並んで立つ。晴れてる。気持ちいい。春だ。春が来た。そうだ、春の話。
(あるでしょ、そりゃ)
ユーカ。
(ディズニーシー行きたいなぁ)
ミャー。フェンスに乗り出すようにして、家並みの向こうの滑走路を望む。
(行けるんじゃない?)
ユーカ。
(私は、哲学の道、歩いてみたいな)
チャキ。
(なに? なんの道?)
ユーカ。
(て・つ・が・く。哲学の道。京都にあんのよ。そういうのが)
(なにそれ。なんかのアトラクション?)
(散策路)
(なーんだ。チャキそんなとこ行きたいの?)
(そういうユーカはさ、どうなのさ。京都行ったことないんでしょ?)
ユーカはチャキを向いて、なぜか膝の屈伸を一回、二回。
(ないよぉ)
(じゃあ、私と哲学の道を散歩だ)
(うへー)
ユーカがストレッチをしながら、顔を歪ませた。本当にイヤダ、子どもみたいな顔。
静かだなぁ。私はそんなことを思ってた。飛行機が飛ばないと、学校の周辺は静かだ。教室を除いて。
で、喧燥を破ったのがいる。ドンガラドンガラと、雷じゃないけど、屋上に通じる扉を力任せに開いたのはニャーだった。息を切らしていた。階段を、あれは絶対に一階から四階、そして屋上まで駆け上がってきたんだ。私はなんとなく嫌な気分になった。だから黙ってた。みんな、ニャーを向いた。屋上にいたのは私たちだけではなかった。他にも、別のクラスの子とか、別の学年の子がいた。何人かが振り返った。それくらいの音を、ニャーは発した。
(なしたの、ニャー)
ユーカが聞いた。声音がいつもより授業よりになってた。
(墜ちたって)
息を切らして、ニャーが言った。
(なにが)
ユーカ。
(基地の、F-15が墜落したって、いま……)
(うそ、マジで!?)
チャキが返した。
(ホント、いま……放送部の奴が、言ってた。……ニュースで聞いたって)
声にならなかった。屋上にいたみんな、声をなくしていた。関係者の家族が多いからだ。私も、ミャーも、ニャーも関係者の家族だ。私はちょっと外れるかもしれないけど。だからみんな声をなくした。
(それ、本当?)
聞返した声がかすれていたのはミャーだ。
(うん)
そのあと、私たちは昼休みがあと五分で終わるって時間に、大挙して放送室に押しかけた。学校の中でラジオが設備として存在しているのは、ここと職員室。職員室には行きづらいから、放送室。ニュースを聞いたらしい何人かがもう鉄の扉を開けて、入り込んでいた。中からは、ニュースを読み上げるアナウンサーの、放送部の奴じゃない、本物のアナウンサーの本物のニュース原稿が読み上げられていた。
春の出来事だった。
ドンガラドンガラ。
雨はまだ止まない。私はホールでバスを待っている。ホールの壁には掲示板があって、そこには駅へ向かうバスの時刻表が貼ってある。ホームルームのあとでノッチをからかったのがもういけなかった。バスがない。次のバスは三十分後。さすがに歩いて帰る気がしない。濡れる以上に風邪を引く。学校を休むのはいいけど、具合が悪いのはイヤダ。
私はまたあの春のことを思い出した。
結局、墜落したのは確かにF-15戦闘機だったけど、それはアメリカ空軍のF-15で、墜落したのもずっと遠く、東シナ海だかのことらしい。あわてて聞き違えた奴が騒ぎ出し、そしてニャーが血相を変えて階段を駆け上がる羽目になったのだ。でも正直、正直な話ね。不謹慎かもしれないけど、私は脱力した。ほっとしたのだ。誰もいなかったら、その場に座り込んでいたかもしれない。ミャーも、ニャーも、他の奴らも、墜落したのがアメリカ空軍の戦闘機で、ついでに不幸中の幸いながら、パイロットも脱出してたとニュースを聞いて、安堵の声を漏らさない奴はいなかった。
飛んでる奴は必ず墜ちる。
鳥だって同じだ。
人は?
残念ながら、私は飛び方を知らない。だから飛べない。飛べないってことは、墜ちることもないってことだ。