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チャキのメールが大当たりした。雨だった。登校前にNHKの天気予報が流れていたけれど、正直言って見てなかった。私は傘も持たず、いつもどおり自転車に乗って学校に行った。空は重そうな雲がどんより。町にフタをしたみたいで、空気もよどんでいた。今日のランウェイは旅客機が19L/Rのようで、スロットルをある程度絞った747が、本屋のすぐ上を掠め飛ぶようにして着陸態勢に入っていた。私が一目惚れしている戦闘機たちは、登校時間帯はまだ飛んでいなかった。広義のお役所の定義でいえば、学校も自衛隊も役所ってことで、たぶん8時30分を過ぎないと飛ばないんだ。と思う。
自転車置き場について、私がいつも自転車を置いている体育館よりの「屋根無し」エリアに駐輪して、空をふと見上げたら、やっぱり鉛色ののっぺりとした雲がうねうね動いていた。うねうねが見えるってことは、シーリング……雲底が低いってこと。風はそんなに強くなかった。もしかしたら降るかもって思った。でもそのときは、昨夜のチャキのメールのことはすっかり忘れていたから、まあ雨が降ってもどうにでもなるって考えてた。雨が降ったらバスで帰ろう。それくらいの気持ち。
ところが、一時間目の現代文に続いて、二時間目の地学を終わったあたりで、戦闘機のアフターバーナーの音に似ているけど、もっと暴力的で見境のない、ドンガラドンガラと派手な雷鳴が響いてしまった。私は窓際だから、天候の変化にはすぐ気付く。二階建てのしょぼい住宅街と、火山灰地に懸命でこしらえた畑が続くはるか向こうで、稲光が瞬いた。順序は逆だけど、ストロボライトみたいな稲光が光ったとき、私はなんとも思わなかった。眠かったのだ。地学は好きだったけど、今日は地震波の話で、なんか数学的で私はだるかった。で、ぼんやりと外を見ていた。そうしたら光った。
私の目の受容体が稲光を受光して、脳に伝達されて、かわいい私の脳細胞がそれを稲光だと認識する前に、ドンガラドンガラ始まったのだ。私の真後ろの席にいるノッチが「きゃ」とかわいらしい声を出した。さすが、半年に一度はコクられる子は違う。わたしなら「ぎゃ」だ。でも私は「ぎゃ」とは言わなかった。耳をつんざくようなアフターバーナーの音を、ランウェイ36Rエンドで何度も聞いている身としては、さほどでかい音だと思わなかったから。そういう意味では、クラスメイトも町の人たちも、そういうバカでかい音には慣れているはずなのに、「きゃ」だ。
で、稲光が記者会見の会場なみにビカビカ始まって、最初は「ぴか」から「がらがら」まで三秒くらいあったものが、ほとんどタイムラグもなしになった。空は濃い灰色で、遠くからだんだんと街並みや畑が霞み始めていた。雨だ。雨滴が窓ガラスを叩き始めて、私はチャキのメールが大当たりになったことを認識した。くるりと首を回して、廊下側の最後列にいるチャキを見たら、彼女は瞬きを忘れたような顔で黒板とノートとを交互に見ていた。左手に持ったシャープペンが忙しい。そう、彼女は私と同じで左利き。ちょっとしたマイノリティ。でも私は右手で箸も持てて字も書けるけど、チャキは右手で箸も持てず、字も書けない。「書けない」のと「書かない」のでは結構違う。私は「右手で字は書けるけど、書かない」が、チャキは「右手で字を書けない」タイプ。私よりマイノリティ。彼女に言わせると、自動販売機から自動改札からドアノブから果てはハサミや包丁まで、世の中右利きを主として作られているようで、非常に生活しづらいという。私はなんとなく左よりのどっちつかずだから、そこまで困ったことはないけれど。でも、マイノリティなのは間違いない。ドンガラドンガラ雷鳴が響く中で、私はそんなことを考えていた。マイノリティという言葉でスピルバーグの映画のことも思い出したけど、スピルバーグという言葉で、ころころ床を転がっていくトム・クルーズのメンタマのことが頭によぎった。そんなお手軽にメンタマを交換できるなら、私は2.0の高スペックなメンタマが欲しい。
三時間目の恐怖の微積が始まったころには、外はどしゃ降りになっていた。いつもは見える、遠くの自衛隊の建物とか、もっと遠くの丘陵は、もう全然見えなかった。帰りはバスだなぁと考えた。そういうことを考えてたってことは、微積の小テストがメタメタだったってこと。まるでチンプンカンプンで、私は途中から問題を解くことを放擲してしまった。ちょっと危機感を感じた。これでは、もうそんなに日がない期末試験で大変なことになってしまう。でも、窓の外はザーザーのドンガラドンガラだった。何ヶ月に一回ってくらいの大雨だ。もしかしたら、空港閉鎖かっていうくらいの雨だった。雨音と雷鳴で、いま飛行機が飛んでるのかどうか、よく分からなかった。見る間にグラウンドが水たまりだらけになっていた。
四時間目はグラマーで、微積の余韻を引きずっている私は、眠くて眠くて仕方がなかった。窓をビタビタパラバラと雨滴が叩くのも耳障りで、そしてなにより、グラマーの教師の遠藤のしゃべり方がさらに耳障りだった。ねとつくというか、猛烈に濃い顔立ちで、ポリネシアっぽい輪郭をしている割に、遠藤がしゃべる英語は、航空管制の英語もかくやというほどのジャパニーズ・イングリッシュだ。LとRの発音の区別も関係なしで、ここまで吹っ切れると逆に尊敬する。けど、こいつのしゃべり方が耳障りだ。昼休みを告げるチャイムが鳴ったとき、私は本当に脱力した。
「有理」
ニャーに声をかけられた。授業からひととき解放された喧燥で教室はいっぱいで、今日は天候のせいで蛍光灯がやたらと明るい。
「きのう、どこ行ってたの?」
私の隣の机を引きずってきて、ニャーはもうお弁当を広げていた。よくこれで半日持つな、というくらいの少量。ニャーは仁和って名字で、ついでになんとなくネコっぽいからニャーと呼ばれてるけど、これ以上あんた痩せたら危険だよ。
「別にどこにも」
私もお弁当を取り出した。ギコギコと机を引きずる音。今度はミャーが来た。彼女は三輪って名字。仁和と三輪。結構間違われるみたい。チャキも遅れてやってきた。
「ねー、だって昼からいなくなったじゃない」
ミャー。彼女はネコというより柴犬っぽい。性格もネコよりは犬。人懐っこいからよく好かれる。私も嫌いじゃない。
「またコー君?」
ユーカが寄ってきた。こいつは島田っていう。普通の名前。
「あいつもいなかった?」
「また、しらばっくれちゃって」
上目遣いにニヤニヤ笑って、ニャーが鮭のそぼろを散らしたご飯を、箸の先っぽに載せて言った。もっといっぱい食え。
「どうせ飛行機でしょ」
チャキがまずお茶を飲んでいた。どうもチャキは聡明な割におばさんくさい。二十年後もお昼にはお茶を欠かさないで飲んでそうだ。いや、私もコーヒーよりは断然お茶なんだけど。チャキの場合、家がお寿司屋さんだからかな。
「飛行機?」
ご飯を小指の爪の先くらいずつ口に運びながら、ニャーが言う。
「また飛行機?」
ミャーの昼ご飯はサンドイッチ。やっぱり午後にお腹が空きそうだ。
「なんで飛行機?」
ユーカが聞く。なぜみんな聞くのか。「なぜ飛行機なのか」と。
「好きだから」
「あ、本当に飛行機見に行ってたんだ」
ニャーはおかずの卵焼きを、これまた器用に箸で細切れにして食べる。
「そんなに好きなの?」
ニャー。
「コー君とどっちがいいのさ?」
ミャー。
「微積どうだったの?」
チャキ。
「日焼けしてる」
ユーカ。
「陸上部みたい」
ニャー。
「帰宅部なのにねー」
ミャー。
「部活なんかやればいいのに」
ニャー。
(もぐもぐ)
ユーカ。
「言ってるじゃない。『航空部』があったら入るって」
私。
「上智大学に行けば」
チャキ。左手でご飯粒を拾っている。
「は?」
ミャー。ニャー。同時。
「なに、上智大って」
ユーカ。
「航空部って、大学ではあるみたいよ」
「学部じゃなくて?」
「サークル。体育会系の」
「まーじでー?」
「いや、本当」
「どうさ、有理」
ニャーが笑う。
「そんな頭はありません」
「てか、有理近眼だしねぇ」
ミャー。
「あんたのメンタマよこしなさいよ。いくつだっけ、ミャー」
「あたし? 2.0」
「絶対もっと見えてるって」
ニャーが言う。ニャーも私と同じくらいに近眼だ。たまにメガネをかけて学校に来る。コンタクトレンズが合う日と合わない日があるんだそうだ。何となく分かる。
「そっかな」
「だって、2.0の、あのちっこいのが見えてるんでしょ? だったらさ、もっとちっこいのも見えてんじゃないの?」
ニャー。
「まー見えてっかも」
ミャー。私は、料理にすっかり飽きてしまい、毎日ほとんど同じメニューでお弁当を製造する母が作った、栄養バランスは満点の弁当を、この時点で三分の二を食べていた。
「ブルーベリー食べな」
チャキがお茶を飲みながら言う。
「なによ、ブルーベリーって」
ユーカが付け合わせのリンゴをかじった。すっごい気持ちのいい音がした。シズル音って奴だ。食欲をそそる。なんかリンゴを食べたくなる。
「目がよくなるらしいって」
チャキ。
「ウナギでしょ」
「あたしウナギだめだなぁー。なんかゴム喰ってるみたい」
ユーカがまたいい音を立ててリンゴをかじった。
「おいしいじゃない」
レタスをパリパリ言わせて、ミャー。
「ユーカはちょっと好き嫌い多すぎなんだよ」
「そんなことないって」
「いやー、でも、好き嫌いだったらさ、有理も負けてないでしょ」
ミャーが言う。
「ああ、わかるわかる」
ニャー。
「有理は絶対そうだ」
ユーカ。
「見たまんまだよね」
チャキ。
なんでそんな集中砲火を浴びるんだ。
「なんでさ」
「好きなことにまっすぐな奴ってさ、好き嫌い激しいんだよ。だいたい」
チャキは手元の黒くて細長いなんか変な食べ物を箸でつまんで、言った。たぶんひじきだ。好き嫌いって言われたら、私はひじきが嫌いだ。
「有理ってそういうタイプだよね、まっすぐ君ってかさ」
同意、ってな顔をして、ミャーがレタスをパリパリ。もうサンドイッチはない。
「コー君も?」
ニャーはまだご飯を食べている。
「なにさ、ニャー。そういう話」
私が切り返す。
「素敵な彼氏で」
芝居がかった口調。そういう話題が好きなのがニャー。
「うらやましい」
「そんな実感込めなくていいから」
レタスを食べ終わったミャーが、水を飲んでいた。
「で、昨日どこ行ってたの?」
ニャー。
遠くから、ゴワァーという、さっきのドンガラとはまた違った音がした。飛行機だ。
だから私は言った。
「ランウェイ・スリーシックス・ライト、イースト・ランウェイ」
言うと、ニャーが「は?」。
ただそれだけ言った。