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夕立のあとの空みたいな、ピンク色とパープルがごちゃ混ぜになったような空気のなかで、私はフェンス際に立っている。
音がしない。
風も吹いていない。
草の色が分からない。
ゆっくりと歩み寄ると、草は藍色をしていた。たぐるようにして一本折ると、安っぽいシャンプーみたいな匂いがした。でも私はその匂いが嫌いじゃなかった。
砂利道だった。
私は砂利道に一人で立っていた。
フェンスが見えるから、ここはきっと滑走路の端っこだ。私は勝手にそう決めつけていた。だから飛行機を待っているんだと思った。私は私の外で私をそうやって観察していた。
けれどいつまでも飛行機は降りてこず、飛んでいこうともしない。
私はだまって突っ立っている。
光が見える。空の中だ。
私の視力でぎりぎり見えるところ。だからきっと、光は私が思うよりもずっと近くで明滅している。そう、光は点いたり消えたりしている。陽炎の向こうでにじんだ風景のように、ゆらゆらと明滅している。
飛行機?
私は目をこらす。すると、私が「それは飛行機だ」と思ったからと言うようなタイミングで、それは飛行機になった。大きく、のっぺりとした飛行機。でも音がない。音がしない飛行機を、私は知らない。だけど、砂利道に突っ立って、左手に摘み取った藍色の草を持って、私は「音のしない飛行機」があるのは当然だとも思った。
飛行機はやがて私のすぐ目の前まで近寄ってくる。
どこかから、ピロピロと間抜けな音が聞こえる。
音は一呼吸くらいの時間、鳴ったかと思ったら聞こえなくなった。
そこで、私は目が覚めた。
チャキからメールをもらって、私は明日、微積の小テストがあることを知った。夕食のあとだから、午後八時を少しまわったころ。
まったく予想していなかったし、微積は私が最も苦手とする教科のひとつだったから、あわてた。チャキに返信して、テストがどこから出るのかを聞いた。幸いにして、私は教科書やノートを教室に置いてくるような不真面目ではなかったから、問題集のとあるページから類似問題がまるまる五問ほど出るとのチャキの連絡に、なんとなく安心した。
授業をぶっちぎったくせに、テストは恐い。
大いなる矛盾を抱えているとは思うけれど、飛行機の音を聞いて、しかも空は晴れていて、風向きもよくて、そんな日の午後に教室にいるほど、私は野暮ではなかった。そうして授業をぶっちぎったことを正当化して、その旨をチャキに送った。
そうしたら返事が来なくなった。
私は一時間ほども机に向かって、これまでのノートを開き、教科書を並べて、問題をどうやって解くか、その方法を探した。
基礎解析で挫折すればよかったものを、気まぐれで進学組の連中と同じ希望を出したら、猛烈に難解な問題が連発される微分積分と向かい合う羽目になった。
私は数学が嫌いだ。
苦手、というより嫌いだ。
正解があって、そこへ至るまでの行程を自分なりに、論理に破綻なく考えて、それをつづらなければならないという反復が苦手だった。だったら、道筋が示されていて、けれど行き先が分からない、たとえば誰かが書いた小説だとか、詩を読んだりするほうが好きだった。でも、テストがあるとなれば話は別で、ここで零点に限りなく近い点数などを取ってしまったら、これは目も当てられない。
両親は比較的問題も起こさず、可もなく不可もない生活を送る私より、サッカーに熱中し、学校へサッカーしに行っているような弟の行き先を心配しているようだが、なにかに熱中すると他がどうでもよくなるのは私も同じ。
それはたぶん、父親の性格を強く受け継いでいるような気がする。むしろ移り気なのは母の方で、料理に熱中し、限られた予算内でどれだけごちそうを作れるかということに凝りだしたかと思えば、それは一週間も続かない。次の週には、編み物を始めてみたりする。マフラーはおろか、せいぜいランチョンマットくらいの作品ができあがった次の週には、コピー用紙に絵を描いたりしている。技術屋系で趣味の少ない父親とは対照的で、だからうまくいっているのかなと、なんとなくそうも思う。父は職場でも自宅でも、飛行機から離れない。
私は一時間半ほど、どうにか小テストに関係しそうな分野の問題と、その解き方を練習して、力尽きた。
ベッドに転がった。
右手には携帯電話を持った。
チャキから返事が来ない。
ぼんやりと着信履歴や発信履歴を眺めていた。着信は多いが、発信が少ない。私は自分から誰かに電話をすることがない。面倒くさがり屋でケチだからで、他意はない。でも、メールは受信も送信も多い。しゃべるより文字を送った方が簡潔で楽だと、きっと私はそう思っているのだ。
で、誰かにメールでも送ろうかと思った。
そうしたらいきなりメールを受信した。
送信者の名を見るなり、私はげんなりとした。コーラ好きの彼からだ。
別に私は奴を嫌っているわけでも、疎ましく思っているわけでもない。
でも、一般的に「お付き合い」というものを初めてまもなく一年が過ぎようとしている現在、距離があまりにも近くなりすぎたからなのか、私は彼と一定の距離を保とうとしているようだった。近すぎてだめ。わかんないかな。たとえばミサイルを撃ち込もうとしても、目標が近すぎて撃てないとか。そんな感じだ。下手に撃ったら自分も危ない。
コーラばっかり飲んでる割には健康そうな真っ白の歯をしていて、歯は見た目のとおりつるつるの広司は、私のことが好きなのか、私の身体のことが好きなのか、どっちがどっちだかよく分からなく見えることがある。たぶん両方なんだろうと割り切ってしまうけれど、こう暑い季節は、私は自分の身体ですら持てあますので、まして他人の身体にはあまり触れたいと思わない。けれと広司のサルの場合は違うようで、気温も体温も湿度もなんも関係なしで私の身体が好きらしい。許す方も許す方だけれど。私が甘いのかもしれない。自分に対して。
で、メールは他愛のない駄文で、どっちかというとどう返信していいのかわからないような内容だった。登校する直前、朝食をとりながら眺める天気予報くらいどうでもいい内容だった。飛行機を飛ばすなら天気予報は重要だけれど、学校へ行くのに雨が降っていようが雪が降っていようが、あまり関係がない。自転車に乗れないとか、バスが遅れるとか、そううことくらいだけど、それは朝起きた瞬間から分かるから、帰りの天気を気にしたことはない。朝方晴れていて、帰宅するころ雨になっても、そのときは濡れて帰ればいい。でも広司はそういうのが嫌らしい。
私は広司に返信した。世界一周の途中、フィリピンで死んだのは誰ですか、と。
どんな返答が来るのか分からなかったけど、私は気の利いた返信が思いつかなかった。だから極力どうでもいいことを書いたつもりだった。
案の定、返信が来なくなった。
で、気付いたら寝ていた。
背中がベッドに接触すると危ない。私の場合、眠くなる。一瞬にして眠くなる。今日の暑さだとか、そういうのが一緒くたに湧き上がってきて、私は眠ってしまった。
それで見たのが、藍色の草を折るあの夢だった。
草の色。
緑色だと疑わなかった。
でも、藍色の草も悪くないと、私は思った。そして私は夢の中で、草の色が藍色だということに、なんの疑問も持っていなかった。草の匂いは、きっと私の髪の匂いだ。夕食のあとでシャワーを浴びて、安物のシャンプーで髪を洗ったからだ。現実と私が作り出す現実の差異って、実はたいしたことがないのかもしれない。そうは思うけれど、きっと私はあの藍色の草が茂る砂利道に、二度と行くことはできない。同じ夢を二回見たことがなかったから。
私を目覚めさせたのは、耳元に転がっていた携帯電話だった。
メールの着信音。
携帯電話にデフォルトで入っている音。
チャキからのメールだった。
『明日は、雨だよ』
チャキからのメールは、それだけ書いてあった。
私は首を巡らせて、部屋を見渡した。
ハンガーに、きちんとアイロンがけをされた真っ白な夏服が掛けられていた。
制服をいつ洗濯したのか、記憶にない。今朝、そこにあったかどうか、やっぱり憶えていない。
でも、明日は汗くさい制服を着る必要がなくなって、私は正直、ほっとした。