19
終業式。
さすがに体育館にまで空調は付いてなくて、ドアってドアが開け放たれているから、悲しいくらい飛行機の爆音が轟いて、生徒指導のイワサキだとか、真夏なのにスーツをびしっと着こなしてる校長のワカサの声も、離陸機が通過するたびに(今日は風向きの関係か、北向きにみんな離陸していくんだ)遮られた。
私は首筋をつたっていく汗が不愉快で不愉快で、しきりにハンカチでそれをぬぐった。本当はハンカチじゃなくてフェイスタオルが欲しかった。今年の夏は暑い。喉も渇いた。
成績表がまるで最後通牒に見えた。私は両腕で自分を隠してのぞき込んだ。サーマルとダウンバーストが交互に襲ってくるような、ようするに乱高下著しい成績だった。まあいいや。英語の成績はやたらめったらよかった。たいして勉強してないのに。たぶん好きだからだ。
好き嫌いが激しいのは、たぶん自己管理ができていないからだと思う。つくづく思う。
勉強だけじゃなくて、食べ物もそうだし、人間関係も。
あけっぴろげに主張はしないけど、私はそういう好き嫌いが猛烈にはっきりしてるんだ。しかも食わず嫌いだったり。ごめんねノッチ。あのお昼以来、私はなんとなく、ノッチのことを大きく曲解していたような気がしていた。まあ確かに、あの甘ったるいアニメ声にはなじめないんだけど、声ばっかりは持って生まれたものだから、仕方ないよ。私ももうちょっと女の子らしい声だったらよかったのに。
大掃除をしたから、鼻がむずむずしていた。なんでわざわざ終業式の日に掃除までしなければならないんだ。毎日やってるのに。って思いながら、ブツブツ文句をたれて私は視聴覚教室の掃除をやった。防音もしっかりしてて、空調もしっかりしてて、どうせならここで映画とかみせてくれた方がいいのに。そんなことを考えながら、ホウキを振り回していた。一緒にいたのはニャーで、私の雑なホウキがけをしきりに叱りつけてきた。見かけによらない。私は正直そう思った。思ったけど、口にしなかった。考えてみると、私はニャーの家に行ったことがない。どんな部屋に住んでいるんだろう。ちょっと気になった。
終業式が終わり、最後のホームルームを待つ教室で、私は外を見ていた。アスファルトの照り返しがまぶしくて、通りを挟んだ向かい、背の低いビルの外壁がまぶしくて、私は目を細める。目は、残念ながらまだメガネだ。水平がやっぱりときどき狂う。でも慣れた。家に帰ったら、だいたいコンタクトレンズもすぐにはずしてしまうから、ほんとうはメガネで過ごしてる時間も結構長いんだ。ただ、外に出る機会が少ないだけ。目薬のお陰で、もう赤い目じゃない。涙も出ないし、目やにも出ない。よかった。でもまぶしい。
くしゃみが出た。まぶしいからだ。
背中を突っつかれた。
振り向くと、ノッチのちょっと潤んだ目が私を見ていた。
「なに」
訊いた。
「風邪?」
なんだ、そんなことで私を呼んだのか。
「大丈夫?」
言いながら、小首をかしげる。計算したような仕草だけど、たぶんなんの計算もないんだ。最近私も気付いた。最初は絶対に狙ってると思ってた。
「なにが?」
「くしゃみしてるから。風邪かなぁって」
「そう見える?」
「汗いっぱいかいてるし」
「汗っかきなんだ。私」
「そう?」
「なんで」
「いや、ならいいんだ」
ノッチは色も白い。髪は黒い。目も大きい。お人形さんみたいだ。ニャーも目が大きくて、それがまたネコみたいな感じだけど、ニャーは悪いけど猫娘っぽい。ノッチはもっとこう、人形みたいだ。どうしてそんな目をしていられる?
「心配してくれてるの?」
半身を後ろに向けたままだったので、ちょっとつらかった。私は座り直して、後ろを向いた。
「夏休みだし」
「うん」
「風邪引いたらつまらないでしょ」
「まあね」
「どっか、行くの?」
「私?」
「うん、加苅さん」
苗字で呼ばれた。そうだ、ノッチはクラスメイトを苗字で呼ぶんだ。私など、ときどきニャーのフルネームを忘れてしまうのに。ノッチ。綾乃って名前。あやのっち。ノッチ。誰が呼び始めたのか知らない。同じ中学の子が呼んでたのが広まったんだっけ。そんな感じ。苗字は大野。私の出席番号の一個前。オオノアヤノって、なかか語呂がよくないなぁ。私のフルネームよりはいいかも知れないけど。フルネームのことを考えると、私は父をちょっと恨む。加苅有理。ひっくり返して読んでくれればいい。
「ノッチはどっか行くの?」
私が訊くと、ちょっと嬉しそうに、「うーん」と唸った。
「彼とどっか行くの?」
たぶん訊いて欲しいんだろうなぁなんて思ったから、訊いた。そしたらノッチは、なんと頬を染めやがったのだ。まじか。
「へー、ほんと、どっか行くんだ?」
「ダメ、誰にも言わないでよ」
「言わないって。明日から夏休みだし」
「ホントだよ」
「わかったって。で、どこ行くの?」
ノッチは頬を染めたままもじもじしている。この仕草、まあ、好きな男は多いんだろうなぁ。
「お泊まりで?」
水を向けてみた。まあノッチが彼氏とどこへ行くのかはどうでもいいんだけど、なんだかノッチの仕草が、今日は面白かった。素直だなぁなんて思ったりした。
「うん。ねぇ、誰にも言わないでよ」
「言わないよ」
「倉岡さんとか、仁和さんとかにも」
「言わないってば」
言わないと思う。別にノッチが嫌いとか好きとかじゃなくて、他人がどこへ旅行に行こうが、彼氏とお泊まりしようが、それを第三者にしゃべったところで私になんの利益もないから。だから言わない。言う必要がないから。でもそれを正直にノッチに言ったら、せっかく好意を見せてくれてるのを台無しにしちゃうから、言わなかった。これも言う必要がないから。
「へぇ、いいね。彼氏とお泊まり」
気負いもなく言えたような気がした。本当に気負いがなかった。その分感情も抜けてたかもしれない。言われたノッチは照れて笑ってた。
「加苅さんも、彼、いるでしょ」
「ああ、あのコーラ人間?」
「コーラ人間?」
「コーラぱっか飲んでるから」
「四組だよね。えっと、河野君」
「まあね」
「仲いいよね」
「誰が?」
「加苅さんと河野君」
「え?」
「ときどき、一緒に帰ってるでしょ」
「見たことあるの?」
「何回か。仲いいよね」
知らなかった。見られていたんだ。ノッチの口ぶりだと、「見えた」のではなくて「見ていた」ような感じだ。
「仲良く見えた?」
「見えるよ」
「ウソ」
「手をつないだりとかしてるでしょ」
私は絶句してしまった。そんなことをした記憶がない。でも、したかも。してるかも。
「どっか行かないの?」
ノッチに主導権、握られた。
そんな気がした。
「別に、なんの予定も」
「いつも一緒だから、かなぁ」
「いや、そりゃ、あれ、ほら、ノッチの方が、仲いいじゃない」
「そう?」
「いっつも一緒じゃない」
「そう?」
「違う?」
「んん、アツシ君ねぇ、部活部活であんまりねぇ、相手してくれないんだよねぇ」
と、ノッチはちょっとだけ、口をとがらせた。
「試験勉強、ずっと一緒だったんでしょ」
「試験期間は、ほら、部活がないから」
ああそうか。
「あたしも、加苅さんみたいに、いつもアツシ君といられたらいいのになぁなんて、思って」
私はノッチの視線からちょっとはずれた。
「部活が終わるの、図書室とか、ホールとかで待ってるんだけど、やっぱりなかなかお椀なくて」
「へぇ。ノッチ、いっつも待ってるの?」
「だいたい」
「へぇ」
やっぱり、私はノッチのこと、かなり誤解曲解してたのかな。なんだかノッチの目をまっすぐ見られなくて、メガネを外した。こういうとき、私の超激悪近視は便利なんだ。メガネはずしちゃえば、相手の顔も見えないから。
「加苅さん、やっぱりメガネかけてない方がかわいいね」
いたたまれなくなってきた。
ノッチごめん。
「航空祭」
「えっ?」
「航空祭、行くよ」
「基地の?」
「うん」
「河野君と?」
屋上の風景が浮かぶ。ほんの一瞬。蓬田。夢で見たあの顔も。夢で、私は蓬田君と一緒に航空祭に行ってた。ブルーインパルスを二人で見上げてた。
広司、ごめん。
「あいつ、ついてくるかどうかわかんないけど」
「うん」
「連れてく」
「いいね」
「ノッチも。アツシ君と、楽しんできて」
「うん。ありがと」
ざわめき。爆音。踊る陽射し。私は笑おうとして失敗して、代わりにノッチの肩をぽんと叩いた。社交辞令じゃなく、ノッチに親しみを覚えた。ありがとう。
担任が教室に戻ってきた。
夏休み。
夏至を過ぎると、ちょっと寂しくなる。
冬に向かって、日が短くなっていく。
でも、まだ、外は夏だ。
これから、夏だ。
陽射しがそう言っている。
窓の外をもう一度向くと、やっぱりアスファルトの照り返しと、背の低いビルの外壁がまぶしくて、またくしゃみが出た。
風邪じゃないよね。
そうだよ。
こんなに暑いのに、風邪なんか引くはずがない。
くしゃみのせいだ。
またちょっと涙が出た。