17
ちゃんと帰りのホームルームまで私はは学校にいた。あと数日で一学期が終わる。私がいちばん好きなのは、六月と七月。だから、もうすぐ私が好きな季節も終わっちゃう。一年中六月だったらいいのに。そう思う。でも、きっと八月とか九月とか、十二月や一月があるから、六月が好きなんだ。一年中六月だったら、もしかすると六月が嫌いになるかもしれない。ありえるかなぁと思って外を見ていたら、ホームルームが終わっていた。
私はまっすぐ階段を下りて、校内のざわざわを全身にまとわりつかせながら、靴を履き替えて外に出た。暑かったしまぶしかった。教室を出るとき、ノッチが「お大事にね」なんてかわいい声で言ってくれた。別に私はノッチが嫌いじゃないよ。何となく、そのかわいらしさが気に障るだけ。ああ、それもなんだか嫌っているみたい。嫌ってなんかいない。たぶんうらやましいんだと思う。ノッチは素直だ。かわいく振る舞っている自覚は、本人にはないと思う。私が突っ張っているだけのような気がする。
スカートのポケットの中で自転車の鍵が冷たい。本当はポケットに入れるより、カバンの中かどっかに入れておいた方がいいんだろうけど、私の場合、変なところに入れるとなくす。だいたいなくす。だからポケットの中がいいんだ。ときどき鍵が腿に刺さって自己主張する。それがいいんだ。自己主張をしてくれないと、私は忘れる。私が同時追尾できる目標は、トムキャットほどに多くない。六目標同時追尾、同時攻撃なんてできない。
期末試験が終わったから、部活に励む連中の溢れんばかりのエネルギーがまたまぶしいし息苦しい。私は自転車に跨る。なんとなく口の中でつぶやいてみる。リクエスト・プッシュバック。あ、クリアランスを受けてない。私はどこへ行きたいんだろう。とりあえず、リクエスト・プッシュバック。
トーイングカーもスポッティングドリーもいないけど、私はつま先で地面を突っついて駐輪場から自転車を出す。乗客は私だけ。ボーディングブリッジもない。手を振って別れを惜しむ見送りもいない。瞬くキャンディライトの代わりに、足許にはヘアピンが落っこちていた。誰のだろう。赤い大きなヘアピン。私はこういうの趣味じゃない。そもそも髪の毛とか耳たぶとか指とかにごてごてなんかくっつけるのは、好きじゃない。ショッピングモールとかへんてこな小物屋とかでわけのわからないアクセサリーを集めるのが好きなニャーに言ったことがある。イヤリングもピアスもリングも、古代、人類が呪術と仲良しだった頃、魔除けにつけていた装飾品が現代に残っているだけでしょ、って。ニャーが奇人を見るような顔をしたのをはっきり覚えてる。たぶん私の方が間違ってる。価値観の違いだ。たぶん。
駐輪場から出て、校門へ向かう道。タクシーウェイ、のつもり。だからつぶやいてみる。リクエスト・タクシー。誰もクリアランスをくれない。仕方がないから、ペダルを踏み込む。ギヤを一速に入れたまま、ゆっくり。ママチャリなのに六段変速。だけど、六速にギヤが入らない。直す技術は私にない。でも自転車屋に持ってくのが面倒。帰り道に一軒あるんだけど。でも行きづらい。この自転車を買ったのは、電器屋が向かいにあるホームセンターで、八千円でおつりが来た。買ったのは秋。てか、買ってもらったんだけど。
お金のことでバイトを思い出した。五時からだ。なんとなく面倒だった。今日のシフトだと、あのインテリ崩れと時間がかぶる。もう一人近い時間帯にふとっちょの兄ちゃんがいて、そいつ、五月からエアコンを入れる暴挙に出た。暑がりで、真っ先に半袖を着る。今時季は暑い暑いと文句を言い、バックルームにこもって出てこないことがある。いや、そんなジュースもビールも売れてないんだけどって思うけど、出てこない。涼しいからだ。インテリ崩れよりちゃんした指示を出してくれるし、私がレジに入っていれば、品出しも補充も全部ふとっちょがやってくれるので私は助かっていた。インテリ崩れは文句ばかり言うだけで仕事をしない。私は文句も言わないし、指示も出さないけど、仕事に熱心というわけでもない。
なんか憂鬱だな。空港でバイト募集していないかな。本屋で「エアステージ」を読んだりするけど、高校生向けのバイト情報なんて載ってない。当たり前かな。
私は校門を出る。さっさと教室を出てきたわりに、だらだらと駐輪場からここまで考えながら独り言をつぶやきながらだから、私はアホだ。とりあえずバイトの時間までどうしよう。ラストチャンスまで行ってもいいんだけど、ちょっと遠いかな。また全身汗だらだらになりそう。バイトの前に汗だらだらはかっこ悪い。そう考えて、バイト先でメガネのことをああだこうだ言われることを想像した。ますます憂鬱になった。ふっと顔を上げた。私の教室を見上げる。窓が一ヶ所開いていた。爆音を避けるため、授業中は窓を閉め切ってるけど、放課後は開いてることがある。風が欲しいからだ、きっと。カーテンが揺れていた。目が隣の教室、さらに隣へと移る。
一組が私のクラス、隣が二組、その隣が三組。蓬田君のクラス。そして四組。広司はまだ教室にいるんだろうか。ノッチの彼氏もまだ教室にいるんだろうか。アツシ君だっけ。四組の窓も開いていた。おんなじようにカーテンが揺れていた。私の胸の底、具体的に場所を言うと、胸骨の中央の、そのずっと奥の方で、なにかがちくっとした。縫い針が標的を逃して、左手の人差し指の先に当たったみたいに。そんなに痛くないけど、でも痛点を文字通りピンポイント。屋上の出来事を思い出したからだ。ごめん、広司。私は見上げていた首を戻して、自転車のペダルを踏み込んだ。
ごめん、広司。
私は首を振った。
高架になってる線路をくぐって、住宅街を抜けて、まわりはみんな畑になった。携帯電話の移動通信基地局が見える。送電塔ほどじゃないけど、背の高い塔。携帯電話を取り出してみた。アンテナは三本。だけど、あの電波塔が私が加入している携帯会社のものなのかどうか知らない。別にどうでもいいや。
ここは、ランウェイ19に進入する飛行機の経路になってる。ファイナルアプローチに入った飛行機がよく見える。
クリアード・トゥ・ランド・VOR/DNE・ランウェイ・ワンナイナー・レフト・アプローチ。
つぶやいてみる。
今日も天気がいい。
バイトの時間まで、一時間。
自転車を道路脇に停めて、空を見上げる。
空を見てばっかり。
畑の真ん中。
ところどころに防風林。
緑がきれい。
晴れ。
夏。
暑い。
私は冬が苦手だった。私が住む街は、札幌と違ってバカみたいに雪は降らない。けど、苫小牧とか室蘭と比べたら当然雪は多くて、そして寒い。札幌よりずっと寒い。
小さい頃は、冬が好きだった。
晩秋、たとえば十月の終わりくらい。
大雪山とか羊蹄山とか、北海道の名だたる山はもう冬化粧をしている。そんな時季になると、私は雪が恋しくなった。
雪の匂い。
そうだよ、雪の匂いってあるんだよ。
札幌の雪祭りに連れて行ってもらったことがある。
大通の大雪像。観光客に迷子。
雪像はみんなよくできていて、「これは雪でできているんだよ」って前提がなかったら、雪だって思わない。そんな感じ。
でも、札幌の雪は、雪の匂いがしなかった。
きっと、どこかに溜めてあった雪をかき集めてきて、それをギュウギュウにして雪像を造ったんだ。
真冬、私の街に降ってくる雪は乾いていて、手袋をはめた両手でいくら握っても雪玉にならなかった。握った雪がちゃんとした玉になるのは、初冬か晩冬か、どっちか。そうじゃなきゃ、やけに暖かい日。
私は汗をかきながら、飛行機を見上げながら、冬のことを考えてた。
広司と札幌のホワイトイルミネーションを見に行ったこと。行ったあと、「ホワイトいるもミーションをカップルで見に行くと別れる」ってジンクスがあるって知った。気にしてたのは広司の方で、私は何とも思わなかった。
お正月、雪を踏みしめて神社に初詣に行って、おみくじを引いた。吉が出た。小吉が出た。なんか書いてあった。私にはどうでもいいことだった。
チャキはああ見えてげんをやたらとかつぐ方で、それは彼女の父親の影響なのかな、なんて思ったりする。宿泊研修で言ってた。
朝からご飯に汁物かけたらダメ。
初物を食べるときは、東を向いて笑うんだよ。
あれ、これは宿泊研修のときじゃなかった。
妙に年寄りめいたことを言うのがチャキ。ドライのわりに。
また飛行機が来た。
ランウェイ19へ向かう場合、太平洋から飛んできた飛行機は、一度空港の東側上空を通過したあと、長沼の方まで飛んでいって、ぐーって旋回してからアプローチに入る。だからいま私がぼーっと空を見上げてるこのあたりでは、フラップも降りてるし、ギアダウンもしてる。飛行機がやかましいのは離陸のときで、着陸のときは、私はそうでもないような気がする。でも飛行機は気を使って、市街地上空をなるべく飛ばないようにしてるみたい。
時計を見る。
バイトまで、四十分。
ここからバイト先まで、二十分。
中途半端だ。
家に帰って着替えようかって思ったけど、面倒になった。
制服のままでバイト先に行ったら、なぜかインテリ崩れもデヴ(ふとっちょ)も喜ぶ。困った奴らだ。ついでに今日はメガネだ。どっちがどういう顔をするのか、なんとなく分かった。嫌だなって思った。
目を閉じてみる。
ノッチなら、きっとまぶたを閉じてもアツシ君の顔が浮かぶに違いない。
でも。
私のまぶたの裏に浮かんだのは、蓬田の顔だった。
首を振る。
犬が水浴びしたあとにするくらいの勢いで。
でも、蓬田の顔が離れない。
航空祭には行くつもり。
もとより広司を誘うつもりなんてなかった。
興味のない人間を連れて行っても、それはただのデッドウェイトになるだけで、双方気を使ってけっきょくつまらない。
蓬田はどうなんだろう。
たぶん私と同じくらいに飛行機が好きなんだ。
たぶん。
広司より。
こめかみのあたりから汗が流れて、頬をつたって、あごのところで雫になって、私から分離して、道路に落ちた。
わかってる。
私が飛行機が好きなのは、きっとテレビとか雑誌とかのアイドルを好きになってるのと大差ないんだ。
飛行機と同じくらい、広司のことを好きになれればいいのに。
いままで何回か思った。
私は広司のことが嫌いじゃない。
私が唯一、深いところまで知ってる異性で、私のことを好きだって言ってくれたのも広司が初めてだった。
だけど。
四六時中飛行機のことを、空のことを考えているわりに、広司のことを考えことって少なかった。
悪いなって思った。
悪いなって思うような関係ってなんだろうって思った。
広司は私のことをずっと考えているんだろうか。
考えてると思う。いろんな意味で。
どんな意味で?
たとえば、広司がいなくなったら、私はどうするだろう。
寂しいだろうか。
どう思うだろうか。
私がいなくなった、広司はどうするだろうか。
なにもしないんじゃないだろうか。
そもそも、私がいなくなったとしても、あるいは広司がいなくなったとしても、お互いなにかできるわけもなくて、だからどうしたと言われればそれまでで、こんなこと、考えるだけ無駄なことで、だけどどうしても無駄なことを考えるのが人間は大好きで。
時計を見た。
三十分。
あれからまだ十分しか考えていない。
たったそれだけ。
一日、私が八時間睡眠をとってるとして、残り十六時間、私はどれだけのことを考えているんだろう。
ノッチも同じように十六時間起きているとして、そのうち何時間、アツシ君のことを考えているんだろう。
私は十六時間中、どれくらいの時間、飛行機のことを考えているんだろう。
飛行機のこと。
飛びたいって思うわりに、本当に飛行機に間近なところで生活したいとか仕事をしたいって願ったことがない。
それは、目が悪いから。
私はメガネをはずしてみる。
とたんに視界がにじむ。
目が悪いから。
私はいつも言い訳をしている。
蓬田なら。
彼はどうするんだろう。
それくらい、訊いてみてもいいよね。
私はメガネをかける。
視界が戻る。
蓬田に訊いてみよう。これから、どうするの?
それだけ。それだけ訊こう。
それくらい、きっと許されるよね。
私はペダルに足を載せた。
言い訳だ。
わかってる。
だけど、私は私を追求しないことにした。
そうじゃないと疲れるから。