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 たった一個授業を受けただけで具合が悪くなった。さすがに担任までは、私のメガネには反応しなかった。もともと私は学校で存在感のない奴だと思う。先生たちとまともに口を利いたこともなければ、部活にも入ってない。面倒だったからだ。それこそ、陸上部じゃなくて「航空部」があれば入るのに。上智大学? 期末試験の結果を見るかぎり、私がそんな名の通った大学に進学できるとは思えなかった。けど、進学を完全に諦めるほどに成績が悪いわけでもなく、そういう微妙なラインに私はフワフワ浮かんでる。

 お昼を窓際の私の席で、チャキとミャーとニャーとユーカと、あとなぜかめずらしく、これはとてもめずらしく、ノッチと食べた。ノッチの彼氏は、夏風邪でおやすみなんだそうだ。ノッチが席を離れないから、必然的に彼女も私たちの輪に入った。休戦協定? 私たちは別にノッチと戦争をしてるつもりはない。ただ、あの子の鼻にかかったような、アニメみたいな声と、甘えたネコみたいな話し方を何とかしてくれればいい。ノッチは本気で大学進学を目指しているようで、チャキが感心したような顔をしていた。したような、ではなくて多分本当に感心していたんだと思う。私より先のことを考えてる。ノッチは偉い。私も何となく、メガネをかけたままで思った。

 昼食まで来ると、さすがに私のメガネをあーだこーだいう奴はいなくなってて(もっとも、昼休みに別の教室とか図書室とか、体育館に行けばわかんないけど)、メガネをかけてないと手に持った弁当箱の中身も見えないから、仕方ない。点眼薬のせいで、教室の明るさが当社比三十%アップ。なんか涙が自然に湧いてきそうなほど。ミャーに「なにうるうるしてるの」と言われたけど、私はミャーのメンタマに、点眼薬を全部ぶち込んでやろうかと思った。

 お弁当を食べたあと、私はトイレに行くってつぶやいて席を立ち、本当にトイレに寄ったあとで水飲み場で水を飲み、そのまま教室には戻らず階段を上がって屋上に出た。で、屋上の扉を開けて、失敗した、そう思った。目がそう言った。まぶしい! 外は真夏。腹が立つくらい真夏。目に痛い。痛いけどどうしようもない。日陰を探したけど、階段室の建屋以外に日掛けもなく、テラテラ照り返すコンクリート敷きの床の上を、じりじりしながら歩いた。旅客機のエンジン音が暑苦しいと思った。

 航空部の話で思い出した。

 グライダーの話。

 離陸するときは、エンジンがついた飛行機に引っ張ってもらわないといけない。ウィンチで引っ張りこともあるって。で、ある程度の高度を得たら、母機から離れて、滑空する。どんな気分だろう。

 どんな気分だろう。

 私は旅客機にしか乗ったことがない。

 母さんが持ってる手持ちの鏡くらいの小さな窓しか付いてない飛行機。与圧が利いてて、客室乗務員が笑顔でスカイタイムを渡してくれたりして。でも、窓の外では、プラットアンドホイットニー製のバカでかいターボファンエンジンが、バカでかい音を立てて動いてる。雲の上はいつだって晴れてる。空はなんだか信じられないくらいに青くて。そうだ、ものすごく寒い冬の朝みたいな空。見下ろしたら、主翼のはるか下に、道路だとか川だとか、町だとかが見える。きれいだけど、いまいち、飛んでるって実感が湧かないくらいの高空。

 グライダー。

 与圧の利いた旅客機ほどの高さは飛ばない。もし私がパイロットだとしたら、私以外に誰も同じ機体に乗ってない。一人。キャノピーはほとんど腰から上が空で、エンジンはついてない。エンジンのついたモーターグライダーっていうのもあるそうだけど、私が「グライダー」って聞いて、すぐに想像するのは、アスペクト比の大きな主翼と、細い胴体と、抜けるような青空に、カモメみたいに滑空する機体だった。

 風を切る音が聞こえるんだろうか。

 主翼で揚力を得るんだから、きっと風を切ってるんだ。

 どんな音がするんだろう。

 自転車に乗って、手のひらを地面と平行にしたときみたいな、そんな感じだろうか。でも、私は自分の手のひらが風を切る音をほとんど聞いたことがない。手のひらが風切り音を出すほどに加速したら、片手運転はちょっと危ない。

 飛んでみたいなぁ。

 私はベンチに腰掛けて、アホみたいに口を開けて、空を見上げた。うあああって声が出た。涙が出る。

 見上げた空を、トリプル・スロッテッド・フラップを降ろして、あれは離陸だね、徳で行く飛行機が見える。どこへ行くんだろう。連れて行って欲しい。なんか、飽きちゃった。

 期末試験が終わってしまってるから、午後はもう授業がない。だったらもう夏休みにして欲しいけど、どうもそうも行かないようだ。心の中で、誰かがささやく。帰っちゃおうか。もういいじゃん。

 帰ろうかな。

 でも、学校を出たからって、まっすぐ家に帰ったことなんかない。

 晴れてる。

 きっと私は、また飛行機を見に行ってしまう。

 広司のバカタレはどうしてるだろう。試験期間中はほとんど会わなかったから、奴の真っ白い歯がちょっとだけ恋しい。ヘンなの。退屈。電車に乗って札幌の街へ遊びに行くって発想を、私の財布が許してくれない。そうだ、今晩はバイトだった。危ない。忘れてた。学校は抜け出しても、バイトをさぼったことがない。お金がかかってるから。それだけ? たぶん。

 屋上。旅客機の音とか、電車が走る音とか、道路を行く車の音とか、ときどき甲高い排気温を響かせるバイクとか、静かじゃない。私は戦闘機が好きだっていうわりに、あんまりうるさいのが得意じゃない。きっと。静かな方がいい。バスに乗って支笏湖まで行く? たぶんそれも財布が許してくれない。早く車の免許が欲しい。でも、免許を取るお金、どうしよう。父さん、出してくれるかな。本当は飛行機の免許が欲しい。目がよかったら、私は高空学生でもなんでも受けているのに。本当? 本当に? 言い訳じゃなくて? また私は言い訳を探し始めてる。こんなつもりじゃなかったのに。このままでいいの? なんて。私は目を閉じた。暑かった。目を閉じると、まぶたの裏で真夏の空は赤くなった。なんで赤いんだろう。夕焼けと原理が同じだって、誰に習ったんだろう。血の色じゃないの? どうも違うんだってさ。

 四階建ての屋上だから、風がけっこう気持ちいい。涼しい。それだけが救いかな。

 旅客機。屋上に上がってから何期目かな。

 電車。どっちへ行くのかな。函館かな。帯広かな。札幌かな。函館は中学校の修学旅行で行った。楽しかった。でもイカはあんまりおいしくなかった。修道院でおみやげに買ったクッキーがおいしかった。あ、あのへんてこなハンバーガー屋さん、なんだっけ。おいしかった。食べ物ばっかり。さっきお弁当食べたばっかりなのに。

 私は全身が弛緩していた。このままベンチに横になってしまいたい。コンタクト入れてないから、居眠りも自由自在だよ。

 きっと私は、そのまま三十秒も待たず、何事もなければ本当に横になったと思う。

「加苅さん?」

 名前を呼ばれてほとんど反射的に背筋を伸ばした。目を開ける。赤い視界に目が慣れていたから、開いた目が見る世界は、みんな青みがかって見える。これがけっこう好き。目の錯覚なんだろうけど。

「蓬田?」

 建屋から出てきたのは、蓬田。まぶしい。夏服が真っ白だ。折り目が付いてる。私はなんとなく、スカートのプリーツを確かめてしまった。衣替えから二枚のスカートをとっかえひっかえなので、ちょっとよれよれ。それでいったら制服の衿もよれよれ気味。そして今日の私は目もよれよれだ。

「教室にいなかったから」

「なんでここにいるって思ったのさ」

「勘」

「うそつけ」

「倉岡に訊いた」

「チャキ?」

「トイレに行ったまま帰ってこないから、たぶん屋上って」

「ああそう」

 私はベンチの真ん中にそっと身体をずらした。なんか、だまってたら隣に座られそうだって思ったから。それは、なんとなく居心地が悪い。あのバカ広司でも、屋上で蓬田と二人っきりで、ベンチに並んで座ってるのを見たら、さすがに嫌な気分になるんじゃないか、なんて思った。なんでそんなことを思ったんだろう。

「なにしてるの?」

 邪気のない顔で、蓬田が接近する。なんかいつかもあったな、こんなシチュエーション。私は私の防空識別圏を、半径一メートルで設定した。私の防空識別圏は、時と場合によって変化するんだ。

「なんもしてないけど」

「飛行機見てたの?」

「見ようとしなくても、べつに見えるし」

「まあ」

「倉岡さん、加苅さんが帰ったんじゃないかって言ってた」

「屋上から?」

 私が言うと、何が面白かったのか、蓬田君は笑った。まるっきり邪気のない顔で。ああ、残念ながら広司の方が歯は白い。

「おもしろいこと言うよね」

「なんか面白いかな」

 メガネがずれてる。空をバカみたいに口開けて見上げてたからだ。

「メガネ?」

「ウサギさんだから」

「なに?」

「目がマルファンクションだから」

「え?」

「結膜炎。近寄ったら遷すよ」

「眼帯とかいいの? 病院行った?」

 邪気のない顔がちょっと心配そうに歪む。どこで覚えたんだそんな表情。私がやったらそれこそチャキに笑われる。ノッチがやったらかわいいかもね。

「眼帯した方がいいんだろうけど。そうしたら学校に来られなくなるもん」

「どっち?」

 じっとりと汗が浮かんできた。しゃべるのってこんなにエネルギー使うのか?

「両方だよ」

「ああ」

「両方だから、眼帯なんてね、使えないわけ」

「なるほど」

「何しに来たの。何か用?」

 ちょっと攻撃的だったかな。まあいいや。

「不機嫌?」

 そんなことを面と向かって訊くんじゃない。

「べつに」

「メガネ、似合ってるよ」

 ああそうですか。

「聞き飽きた」

「なに?」

「メガネ。似合うとかなんたらかんたら、聞き飽きちゃったよ」

「そう? ごめん」

 頭をかくな。少年っぽい仕草が、あんた似合いすぎだ。私のメガネより。広司がやったら小芝居に見える。なんか、目の前の蓬田が、バカ広司と同い年で、同じ生き物に見えない。この蓬田君も、変なこと考えたり、女の子の……やめた。

「で、なに? 用事?」

「ああ。うん。あのさ、航空祭、行くでしょ」

「前も言ったじゃない。行くって」

「案内しようか」

「はい?」

「一人でブラブラしてもあれだからさ」

「なに、それ、誘ってるの?」

 私はずれたメガネをまた直す。

「誘ってるっていうか。俺も一人で行ってもつまんないしさ。加苅さん、飛行機好きそうだから」

 この私に「好きそう」とはずいぶんだ。好きなんだ。好きそう、じゃなくて。

「F-15に乗せてくれるんだったら、ぜひ」

「いや、それはちょっと」

「無理なの?」

「俺も乗ったことないし」

「なんだ」

「河野は連れて行かないんでしょ」

「あのバカは連れて行ってもデッドウェイトになるから」

「じゃあ、一緒に行こう」

 私はじっと蓬田の目を見た。私はあんまり人の目をじっと見るのが得意じゃないんだけど。これは対領空侵犯措置ってことで我慢した。

「誘ってるの?」

 もう一度訊いてみた。

 ちょっとした間ができた。

 いま何時だろう。

 ここまで来たら、抜け出すのはちょっと辛い。仕方がないから、午後の授業も出るしかない。

「まあ、そう思うなら。事実誘ってるし」

 蓬田君、真顔で言った。私の目を見て。きれいな目。私の目も、自慢じゃないけどきれいなんだ。でも、私の目は、特に裸眼だと、なに見てるのかよく分からないから、ようするにカメラのレンズみたいなもんで、ただキラキラしてるだけ。でも、蓬田の目は、そういう意味じゃなくてきれいだった。まっすぐだった。小説とかで表現される、パイロットの目ってこんな感じかな。

「朝早くからでもいいの?」

 私は言った。誘いに乗ったつもり。

「開門と同時ってタイプ?」

「去年はちょっと遅刻」

「たいしたもんだなぁ」

「何時?」

「八時でいいよね」

「わかった」

「じゃあ、八時。よろしく」

 電車の汽笛が聞こえた。駅を通過する奴だ。特急かな。

「熱中症になるよ」

 蓬田がまた笑った。ああ、やっぱり広司の方が歯はきれい。

「昼休み、終わるよ」

 笑顔のままで言った。

「うん。ああ。うん」

 待てよ。一緒に屋上を出ようとしているのか。それはまずいだろう。

「もどんないの?」

「先行って」

 私が言うと、ほんの僅かな間を残して、蓬田は建屋に消えた。陰影がやたらとくっきりしている。暑い。

 私は、ベンチに残った。

 防空識別圏は護られた。

 私が護ったんだろうか。

 蓬田君が、入ってこなかっただけだろうか。


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