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アレルギー性結膜炎。
多分そんな名前。
試験が終わった勢いで、部活に励もうと図書室で資料をあさっていたチャキの両腕を、左側が私、右側がミャー、先導役をニャー、後方警戒ユーカで連行した。チャキさん、亡命は許されないですよ。私たちから逃れられるはずがないじゃないですか。
私たちは学校がはけたあと、連れだって町に出かけた。けど、快速列車に飛び乗って、札幌の街まで行くほど、私たちの財布は潤沢な資金で溢れているわけでもなかった。だから、学校からちょっと行ったところのカラオケボックスに突入して、しかもまだ真っ昼間だから猛烈に安い料金を目当てに、五人は向かったのだった。
私はそのとき、異常に気がつけばよかったんだ。ちょっと、なんとなく、いつもと違う、そう、違和感を目に覚えていたことを。
ユーカの会員証で部屋に案内されて、ドリンクは高いからってみんな水だけ飲んで、そうしてささやかな絶叫の宴が始まった。これもいけなかった。部屋の中はびっくりするくらいクーラーが効いていなくて、暑かった。みんな脂っぽい顔をテカテカさせて、マイクをひったくるとユーカが歌うのも無視して、全員手元の曲目リストに目を落す。何だっていいんだ、歌えれば。けど、みんな自分の持ち歌っていうのが当然あって、ミャーがそうは見えないのにアニソンばかり、やたらと太い声で歌いまくるし、ニャーは松浦亜弥を歌ってチャキの失笑を買い、チャキはというと宇多田ヒカルに手を出し、それが意外に上手いことをみんな知ってるからも、連行してしまったことを詫びるつもりで、チャキがマイクを取ったら大声を張り上げた。そのとき、私の目の中のコンタクトレンズは、ちょっとずつちょっとずつ、ずれ始めていた。ついでに乾き始めていた。ニャーが暑い暑いとエアコンの温度設定を最低にしたからだ。
一時間は平気。二時間も問題ない。三時間に突入。私は持ち歌を使い果たす寸前になっていた。もともと私はあんまり流行の歌に疎い。どれくらい疎いかというと、確実にチャキより疎い。どうもダメ。売れているものを見ると、疎外されたような気分になる。だから、どういうわけか私は、オリコンチャートのランク外へと消え、FMでもなかなかリクエストされなくなった頃、ちょっと前売れていた歌に手を出す。そういうタイプ。しかも男性アーティストばかり聞いていると、こういう場に来ると歌う曲がない。そして、マイクを握って、バカ広司に聞かせてもらったゆずを歌っていた頃、私のまず右目がとんでもないことになり始めていた。
四時間で切り上げるつもりだった。料金設定が切り替わるのはもちろん、みんなお腹が空き始めていた。家に帰ればご飯があるから。だからみんなそろそろ帰ろうって思っていた。私は右目から意味もなく涙が出ることに、これまたそうとうの違和感を覚えていた。
「有理、どうしたのあんたその目」
チャキがまず異変に気付いた。
なにかとんでもないものを見たような顔で、そう、期末試験の答案が返ってきて、自信満々だった問題を見当違いな解答をし、しっちゃかめっちゃかになって、自分でもそれが信じられない、そういう書面を見たときのような顔をして。
私は鏡というものを所持したことがない。残念ながら化粧もしたことがない。覚えた方がいいのかなあ、と思いながらも、なんか道具を揃えることからして面倒くさそうで、いまに至るも、顔に関係ある道具というと、目薬とコンタクトレンズくらいのモノで、だから私はその指摘に対して、事実をもって答えることが出来なかった。
「なに?」
私はたぶん右目からだけ、猛烈に涙を流していた。感動しているのでもないのに。
「あんた、ヤバイってそれ。真っ赤だ真っ赤」
「えっ」
チャキがユーカを突っついて、鏡を取り出させていた。
で、見た。
びっくりした。
ただ、びっくりした。
真っ赤だった。右目が。
黒目と白目っていうけど、白目じゃない。赤目。カラオケボックスのしょぼい室内灯の製もあったかもしれないけど、サイコサスペンスかホラーかっていうくらい、私の目が赤くなっていた。これには私もびっくりした。尋常じゃないことが起きているって思った。見ると、左目はそんなことはないんだけど、でも、赤い。右目に引きずられたように赤い。
「うわっ」
大げさに飛び退いたのはミャーだった。だけど、飛び退いてから顔を歪めながら私の顔をのぞき込む。
「有理、コンタクトだよね」
「うん」
「あー、やばいわそれ。速くはずした方がいいよ」
「えー」
「それ、生き物の目の色じゃないよ」
ニャー。だったら何の目だ。
でも、鏡で見た私の顔は、ちょっと頬が上気していて、赤みが差していた。そしてそれ以上に、目がすごい勢いで真っ赤だったのだ。
なんとなく尻切れトンボっぽかたったけど、私の目のために、会はお開きになった。
店の前でみんなと別れても、まだ日はあった。確かに夕方だけど、日はあった。
まぶしい。
猛烈にまぶしい。
目を開けていられない。
脳に直接、スポットライトを照射されているような気分。実際、自転車に乗ろうとして、私は少しよろめいた。めまいもする。
「大丈夫?」
ニャーが訊く。
「大丈夫大丈夫。うち、そんなに遠くないから」
「だってさ」
外に出るとその目の色がさらに強烈らしい。というより、先ほどより悪化しているのは間違いない。目にちょっと痛みも感じるし、涙の出方が普通じゃない。私はこんなに泣いたこと、ないぞ。
両目を大きく開けても、薄目にしてもまぶしい。確かにちょっと痛い。さっさとコンタクトレンズ取った方がよさそう。私は急いでペダルを踏み込みたかったけど、そうするには危険なくらい目が見えなくなってきていた。見えるんだけど、まぶしい。
家に着いたとき、私は両目を極度に赤くし、涙を流しながら自転車を降りた。かなり薄暗くなっていたけど、家へ向かう階段で擦れ違った階下の笹村さんのおばちゃんがびっくりした顔で私に訊いた。どうしたの? 有理ちゃん、なんかあったの? 私は普通に笑顔で、この時間帯だったらこんばんはかな、こんにちはかな、と迷いながら頭を下げたけど、やはり私の目の色と涙が尋常じゃなかったようだ。笹村のおばちゃん、立ち止まってしばらく私を見送るようにしてくれてた。いや、別に泣いてるわけじゃないんだけど、でもまあ、傍目にしたら泣いてる以外の何ものでもなかった。
家のドアは鍵がかかっていなくて、それをいいことに靴を文字通り脱ぎ捨てて、洗面所に向かった。恐くて鏡は見られなかった。手を洗って、もう目玉に指を突っこむ勢いでコンタクトレンズを取った。両目とも。はずしたコンタクトレンズは一ヶ月使い捨てだけど、まだ一ヶ月使ってない。このまま捨てるのももったいないから、私は涙を流しながら洗浄してしまった。で、顔を上げたら私と目が合ってしまった。
コンタクトレンズをはずした極度の近視状態でも、はっきり見えた。赤い目の私が。
ヤバイ。
猛烈に赤い。
私は蛇口をひねって、手を器にして、両目も洗った。
残念ながらかなり沁みた。
まずい。
やってしまったかもしれない。
ぞんざいにレンズを扱ったわけでもないのに。汚れた指で目を触ったわけでもないのに。でも、鏡の向こうの私がすべてを物語っている。
私は中学三年生のときに買ってもらったメガネをかけた。視界は戻ったけど、やっぱりまぶしい。眼科に行った方がいいかな。でも、私は眼科が嫌いだ。猛烈に嫌いだ。好きだって奴はいないと思うけど。
涙が出る。
私は短くため息をついて、自分の部屋に行き、制服を着替えて、ベッドに転がった。部屋の灯りもつけなかった。まぶしかったから。
ゴォオオオオ。
旅客機じゃないエンジン音。こんな時間から戦闘機は滅多に飛ばない。
スクランブル?
私は目を閉じ、左腕をおでこにのせて、耳に届く排気音をじっと聞いた。ゴォオオーは防音工事がされたこの部屋の中でも結構大きく響く。旅客機じゃない。アフターバーナー全開の戦闘機の音だ。
対領空侵犯措置。
絶対に守らなければならない一線。
何者かがその一線に接近しているから、戦闘機が飛んでいく。
パイロットは鷹の目だ。
私はまた短くため息をついた。
散々歌ったから、喉もちょっと痛かった。けど、これは想定範囲。お腹から声を出せって、音楽の授業だったか合唱コンクールだったかで教わったけど、喉がこうしてちょっと痛いってことは、全然お腹から声が出てないんだろうなぁ。
合唱。
翼をください。
声を出さないで歌ってみた。
ワンコーラスは、いけた。
だけど、二番の歌詞がまるっきり分からなくて、私は歌うのを止めた。
飛んでいきたいよ。
どこへ?
目が赤くても、飛んでいけるんだろうか。
母が私を呼んだような気がしたが、そのときもう私は現実の世界を離陸して、夢の中へとリフトオフしていた。そう、ロケットみたいに、まっすぐ。
疲れていたんだろうか。
はしゃぎすぎたかな。
そういう思いも全部、夢の中へ。
母が夕食の準備ができたとまた呼びに来るまで、三十分くらいだったけど、私は寝た。