13
まだ日が高かった。なんとなく家に帰りたい気分でもなかったから、私は屋上に上がった。晴れてた。朝からずっと。特急列車がものすごい音を立てて駅を通過していくのが見えた。くるりと首を回したら、恵庭岳が見える。空気が澄んでる。で、暑かった。夏だなぁって思った。屋上には私しかいなくて、気分がよかった。私は早朝の町だとか、放課後誰もいなくなった教室だとかがことのほか好きだった。なんとなく、気分がいいじゃない? わけても早朝の町は格別で、それでうっすら霧でもかかってたら最高。見慣れてる町が、見慣れないどこかになってく。もっとも、休日はおろか、平日も、分刻みで布団の中に入っていたい私の場合、誰もいないくらい静かな早朝の空気を吸うってのは、滅多にない。だから、こういう誰もいない屋上が、手軽に「孤独」を楽しめる場所だった。
誰かが言ってた。
孤独を楽しめるのは、本当の孤独を知らないからだって。
本で読んだわけじゃないよ。誰かが言ってた。チャキじゃない。絶対に違う。あの子は、それこそ孤独なんて知らずに育ってる。もちろん私も。孤独なんて知らない。家に帰れば母さんがいて、弟がいて、学校に来れば友達がいて、町に出れば知らない人たちとすれ違い、コンビニに行けばインテリ崩れの兄ちゃんとか、雇われ店長の愚痴を聞いたりできる。本当の孤独って、どういう状況なのか、私は知らない。それはきっと幸せなことなんだと思う。ささやかに、孤独を楽しめることができるから。
はっきり本で読んだ言葉に、「本当の闇」って言葉がある。
私は本当の闇も知らない。もしかしたら、基地の裏っかわにある森の中に入っていけば、夜はそれこそ本当の闇と孤独を味わうことができるのかもしれない。だけど、それは恐い。
闇を恐れるのは、人間の本能がそう言っているからだと思う。暗いところは、理屈抜きに恐い。でも、町で暮らしている分に、本当の闇なんてどこにもない。押し入れの中とか、物置の中とか、そういう、「ただ暗い場所」ならいくらでもあるんだけど、外に開いた空間で真っ暗な場所って、私は知らない。知りたくもない。
孤独と闇。
ものすごく後ろ向きな言葉だと思う。
少なくとも、前を向いていない。
でも、これもどっかで聞いた言葉なんだけど、暗いところにいるから、光が見えるんだって。それもそうだなって思う。チャキならどう答えてくれるだろう。広司は……あいつを支笏湖あたりの深い森の中に置き去りにしてきたら、どんな反応をするだろう。けど、あの辺じゃきっとまだ、本当の闇も孤独も足りないような気がする。いや、現代の北海道に、そういう場所があるんだろうかって思う。もしかしたら、大雪山とか知床とか、ああいう「秘境」みたいな場所に行ったら、どっちもセットでくっついてくるかもしれない。町が近い場所はダメだ。だって、人間の匂いがする。街灯一本だって、人が住んでるって分かる。
私はそんなことを考えながら、真っ昼間の町の真ん中の学校の屋上で、なんとなく額に汗をにじませて、空を見ていた。
戦闘機が飛んでいた。航空祭の予行かな。基地の上をゴーゴー飛び回ってる。合間をつくようにして、旅客機が飛んでくる。この町で暮らしていて、戦闘機が好きっていうのは、実は本当は大きな声で言っちゃいけないのかなって気もする。確かにうるさい。道ばたでチャキと話していて、戦闘機がミリタリー推力で離陸しても、その瞬間会話が止まる。相手が何を言ってるか聞こえない。それ以上に、自分の声すら聞こえない。市に申請すれば、防音工事の援助があるような町。それが私の生まれ育ってる町。どういうわけか戦闘機だけでなくて、市街地を挟んだ空港の反対側には、陸上自衛隊のだだっ広い駐屯地まであって、だから町には関係者が多い。
政治経済でちょっと聞いた、「自治体破産」とかいう奴。北海道の場合、市だとか町だとか、自治体自体が借金で火の車、破産寸前ってとこが多いんだって。札幌とかも、オリンピック以降、調子に乗って地下鉄を掘りまくったから、実は借金だらけ。その話の延長で、自衛隊が撤収したら、町が破産しちゃうようなところもあるって聞いた。なんだかなぁって思った。なんとなく、本末転倒って気がした。
めずらしいなぁ。私はフェンスに背中をくっつけて、考えてた。私がこんなことを考えるのは、あんまりない。普段の私は、自治体破産より自分の財布の中身が気になるし、戦闘機を見かけたら、轟音よりもかっこよさに目が離せなくなる。こういうのを二律背反とか、ダブルバインドとか(違うか)いうのかもしれない。
空は轟音に満ちていた。私は静かな空をあまり知らない。物心ついたときから、もう空には飛行機がいつも飛んでるのが当たり前だった。そんな環境で育っちゃったから、静かな空っていうのが、まああんまりなじみがない。この町に住んでて空が静かだと、逆になにかがあったんじゃないかって不安になる。ニャーなんて特にそうだろう。あの子の父さんはパイロットじゃないけど、平日の真っ昼間、空港の方も基地の方もずーっと静かだったら、きっとニャーはそわそわすると思う。私も同じ。基地の方じゃなくて空港の方がめっきり静かになったりしたら、たぶんそわそわすると思う。
冬だったら別にいい。まあ、別にいいっていうか、よくはないんだけど、たとえば吹雪の日。大雪の日。飛行機は滑走路を延々突っ走って離着陸する乗り物だから、その肝心要の滑走路が使えないと、飛行機は飛べない。着陸もできない。で、ここは北海道。年に何回か、吹雪とか大雪で空港そのものが閉鎖される。正確に言うと、滑走路が閉鎖される。この町の空港は、新滑走路の建設で大もめにもめてる成田とはちょっと様子が違って、滑走路が贅沢にも二面ある。基地の滑走路を合わせたら合計四面。でも、神様はたいしたもんで、その滑走路全部が使えなくなるくらいの大雪を、気まぐれで降らせたりする。本当の真っ暗闇とかも恐いけど、大雪とか大雨とか、滅多に来ないけど台風とか、神様のやることは万事スケールがでかい。そういう日は、飛行機は飛びたくても飛べないから、町の空は静かになる。で、町のホテルが混雑したりする。そういう日は、少なからず違和感がある。静かな空は、なんとなく不安。
今日の空は賑やか。いつもどおり。真っ青な空には雲が白くて、遠く苫小牧の方を向くと、もくもく雲が湧いていた。太平洋の上だ。もくもくの手前に、ちょっと濃い色の細い雲がたなびいていたりして、そういう光景を見ると、本当に夏だって思う。
でも、日に日に日が短くなってる。
夏至はとっくに過ぎてる。もうすぐ夏至から一ヶ月。だからいまは、五月の日の長さと同じなんだ。だんだん冬に向かってく。私は冬も嫌いじゃないけど、夏の賑やかな雰囲気が特に好き。だから、これからカレンダーが進んで、だんだんと日が短くなって、九月の秋分の日を過ぎて十二月の冬至まで、私はずっと寂しい寂しいとつぶやきながら暮らす。
冬は冬。
夏は夏。
冬が来るから、夏が恋しい。
これって、闇の中だから光が見えるっていうのに似てる。
もし、永遠に六月だったら。
私はそれでもいいんだけど、でも、六月の新緑の、あの暖かい陽射しと夏へ向かっていくわくわくした気分て、きっと分からない。常夏の島で暮らしている人たちは、夏が当たり前だから、夏のありがたみとか、夏のうれしさを知らないんじゃないかって思う。それもどうかなって気がする。
基地を抱えている事情から、小中学生の頃は、けっこう転校生が入ってきた。近くだと札幌、北海道内だったら、旭川とか。海を越えると、青森、茨城、たまに九州からの転校生なんてのもいた。九州で生まれて、初めて北海道に来る子は、やっぱり当然、冬にびっくりする。まず、雪を見て喜ぶんだけど、そのうち外の寒さに震え出す。面白いことに、本州出身の子の方が、案外寒さには強かったかな。たぶん、北海道の家の中は猛烈に暖かいんだと思う。だから、本州出身の子は、室内の寒さには強いんだ。でも、外に出ると寒い寒いって震え出す。で、私はそんな子に聞いたことがある。九州の冬ってどんな感じ?
その子は答えてくれた。
こっちの秋みたいな感じ。
私は、そのとき(いいね)って言ったかもしれない。雪も降らず、朝晩くらいしか水たまりも凍らない。確かにそれは北海道の晩秋に似ている。でも、そんなの冬じゃない。その子は北海道に来るまで、本当の冬を知らなかったんじゃないかな。だから、三月、だんだん暖かくなってきて、まるで夜が明けるみたいに季節が移ろいでいくあの時期のうれしさを、あの子は感じてくれたんじゃないかって思う。私は、三月から四月、五月六月へ至るこの時期が、一年でいちばん好きだ。四月は雪解けがちょっと汚いし、五月は桜が終わってもしばらくは緑がなくて寂しいけど、でも、道ばたのタンポポが黄色く花をつけて、木々の新芽がふいてだんだんと日が長くなって。あの時期は、私はまだ十六回しか経験がないし、うち何回かはまるで記憶にないんだけど、好きだ。
喉が渇いた。
日がかげり始めてた。今何時だろう。季節によって日の長さが変わるっていうのも、理科の時間で自転軸の傾きとかそういうシステムを習うまで、不思議だった。いまでもなんで自転軸が傾いているのか理解できてないけど。腕時計を見ると、五時近かった。まだ明るい。夕方っていうには、全然早い。
「加苅さん」
呼ばれた。反射的に振り返った。ここ、五時過ぎたら鍵かけられるんだっけ?
「加苅さん」
「蓬田?」
痩身、細いアゴ。なんとなく広司とは対極に位置するような体型の彼。蓬田がいた。
「なにしてるの?」
なんの遠慮も躊躇もなく、蓬田は私のADIZ(防空識別圏)の内側へと進入してくる。レーダーサイトはなんの警告もしてくれなかった。すでに蓬田とは一度会い、彼がアンノウンじゃないから? だから?
「何って、なんも」
私はフェンスにもたれたまま、だけど蓬田を向かないで答えた。
「いい天気だったね。今日も」
なぜ過去形で言う? 今日はまだあと七時間くらいあるんだよ。だからつい口に出た。
「蓬田、君」
面と向かっての呼び捨てがまだ躊躇された。いや、私実はホント、奥手のはにかみ屋なんだって。
「なに?」
返事をする間も、蓬田はどんどん近づいてくる。トラッキング・ノーチェンジ。領空侵犯の可能性あるのか? 私の中のレーダーサイトが、警告を実施、してくれない。
「夜の間も、雲が出て、風が吹いて、昼間と変わらないで天気が変わってるって、いつ知った?」
何を言ってるんだ私は。警告するんじゃなかったのか。スクランブル機はいつ上がるんだ。ちょっとは警戒しろ。
「どういう意味?」
蓬田はどんどん進み、なんと私と並んでフェンスにもたれやがった。あっけなく領空侵犯である。むしろ領土侵犯である。重罪である。Turn heading east immediately.
「そのまんま。夜の間も、雲が出てるって知ってた?」
私が言うと、蓬田はエレメントリーダーに寄り添うウィングマン並みの距離で、私に並ぶ。
「意味わかんないかな」
蓬田が黙っているから、私は追加で言葉を足した。
「月が出てたら、雲が見えたよ。そういう答えでいいかな」
的のど真ん中を撃ち抜くような言葉じゃなかったけど、でも、的には当たってるような気がした。
「じゃあさ」
私はフェンスにもたれたまま、僅かに彼から距離を置いた。背中でボツボツとフェンスが痛い。いまフェンスが外れたら、四階の屋上だから、ここは五階。落ちたら死ぬ。なんて考えながら。
「本当の闇って、知ってる?」
支離滅裂だ。私は何を言ってるんだろう。思いつく端からイメージを言葉にしているみたいだ。脳と口が直結状態。
「闇?」
「闇。真っ暗闇」
私が言うと、しばらく蓬田は沈黙した。やった、威嚇射撃が成功した。かな。
「真っ暗闇は、経験ないなぁ」
蓬田はひどくのんびりした口調で言う。私の視線の端に、ランディングライトをつけた旅客機が見える。ILSランウェイ19Rへ進入するのかな。
「本当の真っ暗闇って、どんな感じなんだろう。私も知らない」
私はもたれていたフェンスから身体を離した。風がちょっと吹いた。気持ちよかった。
「上も下も右も左も、わかんなくなりそうだよね」
蓬田が言う。
「バーティゴ?」
「よく知ってるね、そういう言葉」
「君もね」
蓬田の顔を見て、「お前」「あんた」はなんとなく呼びづらかった。
「僕は、ほら、親の職業が職業だから」
「パイロットじゃないんでしょ」
「だったらよかったけど」
「君がパイロットになればいいじゃん」
私が言うと、蓬田は黙った。黙って、フェンスを向いた。私と同じように。
「なれると思う?」
「来年、試験受けてみれば?」
「なんの」
「航空学生」
自衛隊には、パイロットになる方法がいくつかあるんだ。そのうちのひとつ。大学に行ってから幹部候補生の試験を受けて、飛行要員になる方法もあるけど、最短距離でウィングマークを取れるのは、高校を卒業したら受験ができる航空学生なんだ。それくらい、私も知ってる。もっとも、この視力じゃ受験資格もない。女の子も受験できて、女の子のパイロットもいるっていうのにね。
「加苅さんは、受けられないの?」
「目がね。もうめちゃくちゃに悪いから」
「コンタクト?」
「うん。コンタクト。メガネも持ってるけど」
「加苅さんがメガネかけてるのは、想像つかないなぁ」
蓬田が微笑んだ。
その瞬間、私は疑惑を抱いた。ほとんど蓬田とは初対面だ。そもそもランウェイエンドで会ったときが、初めて言葉を交わした最初の日だ。で、今日はまだ二回目なのだ。それなのに、このそぶりは何だろう。馴れ馴れしすぎないか。
「あのさ」
私はちょっと蓬田と距離を置く。ほんの少し。
「なに」
「なんか用、あった?」
いきなりこれでは露骨すぎ。でも私は、そういう調整っていうのが苦手。
ああ、やっぱり蓬田君、ちょっと面食らってる。せっかくいい感じに話ができたのに。いつもそうなんだ。私はこうして、国籍不明機を追い返す。もしかしたら味方かもしれないのに。人間にIFF(敵味方識別装置)がついてたら、便利なのになぁ。
「別に用はないよ。うん、特にない」
「そっか」
会話を止めてしまった。堰き止めたんだろうか。だったら、流れ出ようとする言葉が、私たちの間のどこかで圧力を高めて、そのうち決壊するのかもしれない。私と広司の間ではよくある。だいたい私が言葉を堰き止める。巨大なダムを造ってしまう。でもそういう原因を作るのはたいていが広司の方。
「河野とは、加苅さん、付き合ってるんだよね」
決壊とは行かなかった。魚道。それくらいの細い流れ。蓬田の声も小さかった。
「いきなりなに?」
「あいつさ、小学校のときに同じクラス」
「中学は?」
「おんなじ学校だったけど、ずっと別のクラスだった」
「で?」
「たまに話するんだよ。たまに」
「うん」
「加苅さんが、飛行機が好きだっていうから、飛行機の話ができるかなって」
「なに?」
「いや、たださ、」
蓬田はずっと私を向いていたが、ふっと視線をはずして、フェンスに両手の指を引っかけてブラブラし始めた。
「飛行機の話ができる人って、案外いるようでいないから」
分かる。
「しかも、女の子で飛行機が好きって、聞いたことないから」
「悪かったね」
「悪いなんていってないさ」
「どうも」
「なんで、飛行機好きなの?」
「防衛機密」
「またそれだ」
「防衛機密」
「理由なんて、ないか」
「そのとおり」
「航空祭、行くの?」
「行くつもり」
「河野は?」
「あんなの、連れて行っても邪魔だよ。あいつ、飛行機全然興味ないんだから」
「連れて行けばいいのに」
「なんで」
「そそのかしてパイロットにでも」
誰かおんなじこと言ってたな。
「無理だね。あいつの英語の成績じゃ」
「加苅さん英語得意?」
「嫌いじゃない」
空が騒がしい。また着陸態勢の旅客機が見える。夕方だから。飛行機の数も多いのかな。
「そろそろ帰るよ」
蓬田が、飛行機を目で追いながら言った。
「うん」
私は蓬田を見ないで返事した。
「航空祭、僕も行くよ」
私は返事をしなかった。
「見かけたら、声でもかけてよ」
返事をする代わりに、蓬田を向いた。そしたら、視線が合った。
いま気付いた。
蓬田の目は、紺色みたいに濃い茶色をしていた。