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 森が遠いはずなのに、セミが鳴いていた。森や雑木林がなくてもセミがいるって、いま気付いた。

 自転車を降りて、私はまぶしさに目を細めていた。コンタクトレンズを初めて入れたのが去年。世界がこんなに広いんだって気付いた。

 暑かった。うつむくと、私の真下に、私と自転車の影が真っ黒になって落ちていた。昼下がりだった。南中、なんて言葉をふと思い出して、いまごろ教室でいねむりをしてるかもしれないクラスメイトのこと考えた。

 カバンのポケットに突っこんだ携帯電話は沈黙している。でも、ここって電波届くのかな。私は左足をアスファルトの上に、右足をペダルの上に載せて、首筋にじっとり浮いている汗のことを考えていた。そう、気化熱。水が気体になるとき、熱を奪っていく。だから、身体が熱いと汗が出る。そうだっけ?

 午後の授業のことを考えたら、教室にいるのか面倒になった。私の席は窓際の一番前で、教室の窓は南西を向いているから、これからの時間はとにかく暑い。カーテンを引いても、公立高校の予算ってあんなもんなのかな、ペラペラのカーテンは本当、焼け石に水。私の席が窓際なのはいいとして、最前列なのは、私が猛烈に近眼だから。

 いつから目が悪くなったのかは記憶にない。気付いたらメガネをかけていた。中学生の頃、私の指定席は、教室の最前列のどこかになった。それは高校に入ってからも同じで、みんなからは同情された。でもみんなは分かってない。居眠りするとき、一番目立たないのは最前列の、しかも教壇の前なんだよ。

 いま、空席になった私の席は、どうしているだろう。私がいなくなったこと、みんな知ってるかな。そんなことを思っていたら、あごをつたって汗が一滴、落ちた。

 喉が渇いたな。思ったけど、ここから一番近いコンビニは、いま来た道をずっと下って、国道まで出なきゃない。面倒だった。私がここへ来たのは、午後の授業が退屈になりそうだったからということもあるけど、予兆が午前中にあったからだ。

 私のたたずむ道路は細くて、両脇には背の高い草が茂っていて、草の中から虫の声が聞こえる。ときどきそいつらは飛んできて、私の腕にとまったり、顔の前をぷんぷん飛び回ったりする。私の血を吸いに来る奴もいる。で、その向こうには金網がある。金網のところどころには、「立入禁止」の赤い文字が見えていて、「立入禁止」の下には、「防衛庁」って書いてある。

 金網の向こうには、またちょっとした草地があって、そのまたちょっと先には誘導灯がある。学校の体育館の天井にぶら下がっている水銀灯みたいにでかい奴。これ、夕方になったらとってもキレイなんだ。で、そのまた向こうに、本命。

 滑走路が延びている。

 思いっきり走るのは好きだ。学校のグラウンドでも、廊下でもいいや。走るのは好き。自転車で走るのも好き。けれど、学校の第一校舎の廊下だって、私が全速力で走っても、……何秒かな。グラウンドだったら分かる。私の学校のグラウンドは結構広くて、直線を全速力で走ったら、私の足で、16秒くらい。速い方らしい。陸上部に誘われた。

 陸上部。私の友達がいる。毎日走ってる。走るだけじゃなくて、ウェイトトレーニングだとか、なんだか色々やってる。いつも思う。陸上部じゃなくて、航空部だったら入るのにって。

 でも、誘導灯の向こうに伸びている滑走路を、私は全速力のままで端から端までは走れない。オリンピック選手ならできるのかな。考えたこともなかった。何せ、滑走路は三千メートルある。

 私は待っていた。滑走路を使うのは、陸上部のあの子でもオリンピック選手でもなくて、飛行機だ。

 午前の授業で、また派手に窓が震えていた。空はものすごく晴れていて、私のスカートの色ほどじゃないけど、ほとんど紺みたいな色だった。教室の窓が震えたのは、飛行機が思いっきり助走をつけて離陸していったから。それも、旅客機じゃなくて、戦闘機。

 陸上部の男の子で、大会に出て表彰状をかっさらってくるような奴は、みんな絞った身体をしている。走るためだけに作られたような身体。私は無駄がないそういう身体が好き。なんでもそうだと思う。無駄なものって、あんまりキレイじゃない。お弁当箱の中のひじきの佃煮みたいに……好きな人には悪いけど、私はひじきが苦手だ。

 戦闘機。戦う、飛行機。そのまんま。

 戦うためだけに作られた飛行機。もちろん空を飛ぶのが大前提だけど、人をたくさん乗せるためとか、遠くまで飛ぶためとか、それ以前に、戦うため、勝つための飛行機。それだけでカッコイイ。

 確かに、明日数学の小テストがある夜だとか、大好きな英語のリーダーの時間に戦闘機が学校の近くを飛んでいったら、ちょっとだけ腹が立つ。その音って、ものすごいから。

 だから、私の通う高校は、めずらしくエアコンがついてる。この町の、飛行場に近い家の窓も、防音工事がされている。工事をしたのは、「立入禁止」の文字の下に書いてあるお役所。

 でも、こういう晴れた日に、のけぞるような角度で空へ向かっていく戦闘機って、自由だなって思う。

 だからあこがれる。

 午前中、ひっきりなしに窓が震えていた。飛んでいったんだ。で、飛んだ飛行機は帰ってくる。

 私が暑いのを我慢して、喉が渇いたのも我慢してここにいるのは、飛んでいった戦闘機が帰ってくるからだ。帰ってくるのをここで待ってるんだ。

 ランウェイ36R、イーストランウェイ。

 教室の窓が震えるってことは、36Rっていう滑走路を使ったから。で、風向きも変わってないし、市街地の真上を飛ばなくていいから、飛んでいった戦闘機はそのまま36Rに帰ってくる。はず。

 だから私は待ってる。

 セミが鳴いてる。

 どこにいるんだろう。

 でももうすぐ、セミの声は聞こえなくなる。灰色のあの戦闘機が帰ってきたら、その激しすぎる息づかいで、何も聞こえなくなる。

 でも、早く帰ってきてよね。

 私は、お弁当だけでも食べてくればよかったと、何か飲んでくればよかったと、じりじりと髪を焦がすような太陽に照らされて、思った。

 ファイナルアプローチは、まだ? って。


 唇が渇き始めていた。これはもう、かなり身体から水分がすっ飛んでいったんだなってこと。私はそれでも、日陰がまるでないランウェイエンドに突っ立っていた。

 学校を出てくるときに汗で湿っていた制服も、カラッカラに渇いていた。湿度が低いから、風さえ吹けばまだ楽なのに、今日は風らしい風が吹かなかった。午後、いま何時?

 私は左手首のおもちゃみたいな時計を見る。中学生のころの誕生日、祖母がくれた奴だ。いくらしたのか分からないけれど、見た目の割に結構丈夫だし、狂わない。狂わないっていいこと。それは思う。で、時計を見たら午後二時だった。

 私は顔を上げた。

 ランウェイエンド、その反対側。

 かすかに、低いかすれたような雷鳴が聞こえる。

 帰ってきたんだ。

 私は自転車を降りた。

 アスファルトがバスケットシューズの裏に暑く感じそうなほど。よく考えたら、バスケットボールなんて体育以外でやらないのに、なんでこの靴買ったんだろう。間違いなく、この時計より役に立っていない。この靴、狂わないといいな。

 やがて、草原と灌木の生い茂るむこうがわに、ひとつ、真昼の星みたいな灯りが見える。私の視力でも見える。ランディングライトだ。

 やがて、ランディングライトを中心に、主翼が左右に広げられているのが分かる。私の視力でも。だからそうとうに近づいている。機体センターにドロップタンク一個、垂直尾翼は二枚。お目当ての、私の「彼氏」が降りてくる。

 F-15。

 空港の中の小さな飛行機グッズ屋で読んだけれど、いまでも世界最強ってのが、F-15。私の場合、姿形を知ってしばらくしてから、その飛行機がF-15って名前があること、いや、名前はイーグルか。そんな名前を持った戦闘機だって知った。

 戦闘機が近づいてくる。ここからだとお腹しか見えないから、スピードブレーキを開いているだろう背中が見えない。当然、コクピットも見えない。

 轟音。

 ジェットエンジンは、反応が鈍いらしい。

 どれくらい鈍いかって、現代文のサカマキくらい鈍い。みんながちやほやしているのが、からかいだって気付かない彼は哀れだけど、鈍さでいったらジェットエンジンはそれくらい反応が鈍いらしい。だから、スピードブレーキを開いて、エンジン出力を絞りすぎない程度にしておいて、ようするに強引にスピードを殺して降りてくる。

 だから、やかましい。

 私はちょうど私の真上を戦闘機が通る場所に自転車を止めていた。見上げる。一瞬で過ぎていく。後ろ姿を見送る。あっという間にかげろうが沸き立つ滑走路に滑り込んでいく。スピードブレーキは全開、エレベータートリム、どれくらいなのかな。フラップはフルダウン。

 私は「イーグル」が、この町に生息する飛行機の中でいちばん好きだ。シンプルだから。わかりやすいから。

 二機目が来る。

 同じように私の真上を飛んでいく。私は目で追う。風が来る。主翼の先から、真っ白なヴェイパートレイルを引いている。案外湿度、高いのかな。

 派手さだけなら、ボーイング747……ジャンボジェットにかなわない。だいたいからして、エンジンが倍の4基だもの。機体もでかい。たぶんイーグルの4倍くらい。で、離陸も延々と滑走路を突っ走って、よっこらしょと宙に浮く。きっと現代文のサカマキが走り幅跳びをしたらあんな感じだ。で、747は着陸してからも騒々しい。スポイラを立て、主翼全体からヴェイパーを湧き上がらせて、とどめはスラストリバース、逆噴射って奴だ。

 それに比べたら、イーグルの着陸はシンプルだ。

 タッチダウンしてからしばらくは機首を上げたままで滑走路を走る。調べたら、これで速度を殺しているらしい。でもその姿も、ウトナイ湖あたりで優雅に舞う白鳥みたいで、私は好き。

 三機目。

 四機目。

 私はなんとか垂直尾翼に描かれているスコードロンマークを見分けようとしたけれど、動体視力が追いつかないし、そもそも見えない。私の近眼、こういうときに役に立たない。そのうち、目まで狂っちゃうんじゃないかな。

 私は喉が渇いていることも、飛行機が巻き起こした風なのか、たまたま吹いた風なのか、私の制服の衿が派手にめくり上がって耳元でばたばた言っているのにも気付かないで、ひたすら戦闘機が着陸していく様子を見た。

 クラスメイトのチャキやニャーに見られたら、これはなんかヤバイクスリか葉っぱを喫っている狂った人に思われるかも。

 きっとトリップしてるんだ。私は。

 私は地面の上で、焼け付くようなアスファルトの上で、紺色のハイソックスがやたらと陽射しを吸収して暑くなっているのを我慢しながら、めくり上がったセーラー衿を治すことも忘れて、乱れた髪のままで戦闘機を追った。

 私はこのために、午後の授業をすべて放擲したんだ。

 飛べたらいい、と思う。

 家族旅行で去年東京に行ったときに乗ったトリプルセブンじゃない。もちろん747でもない。

 一人乗りの、あの戦闘機に乗ってみたい。

 そして、きっと、どこまでも飛んでいくんだ。

 どこまでも。

 そんな願望をコー君に話したら、

「燃料はどうするんだよ」

 と至極まっとうなことを言われた。

「燃料が切れるまで、飛び続けるんだよ」

「迷惑だからやめてくれ」

 思い出すと、ちょっと身体がじっとりしてくる。それは暑さというか、彼の体温を思い出すから。

 コーラだけ飲んでりゃいいんだよ、広司君。

 結局四機目が降りたあとは、忘れたようにT-4っていう練習機が降りていき、それでまたランウェイエンドは静かになった。

 セミがまた、騒ぎ始めていた。

 いや、もしかしたら、ずっと奴は騒いでいたのかもしれない。

 私が気付かなかっただけ。

 よくあること。

 気付かなければ、なかったのと同じなんだから。


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