血
今度の引越し先はどこだと思う?
私が生まれてこれまで引っ越して来た回数? 数え切れないね。君はどうだい?
私が誰かって? そんな野暮はよしとこう。
――――「わー、ママ! この玩具なぁに?」
年の頃は4つ程だろうか。赤いベロア素材の半袖ワンピースを着た女の子は、母親らしき若い女性に振り向き問う。
母親は長い黒髪、痩せた体に大きな瞳の美しい女性だ。
「うふふ、マナ、それはね『万華鏡』というの。綺麗でしょう」
女の子は飽きずに土産物売り場の店先で万華鏡を覗き込みクルクルと回している。口が半開きだ。
暫くすると奥から腰の曲がった白髪の老婆が現れた。
「あ、すみません。この子ったら」
母親が、商品でいつまでも遊んでいる娘について詫びる。
女の子は老婆がやって来るとそっと万華鏡を元の位置に置き、じっと老婆の目を見た。
「お嬢ちゃん、こんにちは」
目がなくなるほど細くし、老いた猫のようにしゃがれた声をした老婆が笑んだ。
女の子は貝のように口を閉ざし俯いた。俯いた視線の先には先程の魅惑の玩具がある。
「マナ、この玩具が欲しいのね?」
女の子は黙って真剣なまなざしで頷いた。
「あの、万華鏡を戴きます。おいくらでしょう」
低い棚の上の全ての商品に値札が付けられていなかった。そうだ、軒先に吊るされ爽やかさを与え続ける風鈴にも。
透明な瞳をして、この母娘を観察してはチリリン……チリン、チリンと体を揺らす。
すると老婆はニコリと笑い「いえいえ、お代は良いですよ。お嬢ちゃんにあたしからプレゼントさせてくれないかい?」と女の子に向けて、曲がっている腰をより一層曲げて見せた。
女の子は母親と手を繋ぎ、老婆の胸中を伺うような表情をしている。迷子になったような顔。
「あ、あの、それは申し訳ないです。どうかお代を受け取って下さいませ」と母親。
「ママ、欲しい」
女の子が急に口を開いた。
まるで老婆の頑固さを予知でもしたかのように。
(このおばあちゃんは絶対にお金を受け取らない気だ)と。
「うん、マナ。でもね、ここはお土産を売っていらっしゃるお店だから、お金を払うのが当たり前なのよ」
母親はしゃがみ込み、女の子のボブヘアーを撫でている。
女の子は上目遣いで老婆を見た。
「良いんですよ、お母さん。お嬢ちゃんが気に入ってくれてるのがあたし、嬉しくってね。何も気にしなさんな」
「ママ! この玩具欲しい」
女の子がさらに母親に追い打ちをかけた。
「うん……。あの、ではご厚意に甘えさせて戴いてもよろしいでしょうか」
老婆は若干腰を伸ばした。
「ええ! もちろんだよ。お嬢ちゃん、お家で楽しんでね」
女の子は遠くを見ながらコクリと頷いた。
――――母親は……この険しい海で……幼いわが子と無理心中する気で最期の観光に訪れた。
無論女の子はそんな事を分かる術もない。
娘に父親は初めからいない。母に夫は初めからいない。『マナちゃん』は未婚の母の子どもだ。
母親は……もうくたびれ果てた。
働く事が好きで、出産前から勤めている電子部品工場で正社員として頑張っている。ライン作業での梱包の担当だ。
毎日休まず働いている。欠勤・遅刻とは無縁だ。
日中マナちゃんは保育所へ通っている。
じゃあ何故? 何故心中など。
孤独のせいだ。
母親は孤独に疲れた。
マナちゃんの運動会に娘の父親がいない事、マナちゃんの参観日の時、娘の父が自分と肩を並べ子ども達の後ろに立たない事。
暗くなる頃、慌てて保育所へお迎えに行けば『お父さん』と仲良さそうに帰って行く子どもがいる。
マナちゃんの母『望』には父親がいない。
つまり、望は母と同じ生き方を選んだのだ。
望を支配する孤独は、表面上マナちゃんへの不憫さとして認識されているが、その実、己の抱えきれない寂しさと言えよう。悪魔のよう。お馴染みの。生まれて来てから一度も抜け出した事のなき感情。
*
宿へ帰ると、マナちゃんは嬉しそうに物珍しいカラフルな宇宙の虜だ。万華鏡を回し「ママ、キラキラしているよ!」と大喜びだ。
「良かったね。マナ。素敵な贈り物を戴いたわね」
必死で笑っているが今にも泣き出しそうな望。
わが子を明日殺すのが嬉しい親が何処にいる。
望は、自分を失ったマナを生きさせておく訳には行かないと考える。孤独の友達になった望はそう思う。
(マナは命があったとて、わたしに先立たれたなら死んだも同然。その悲しみは言葉を絶する。ならば一緒に……)
望こそが、万華鏡を回し続けている。
万華鏡から見えるだけの小さな天国を拠り所と決めているかもしれない。
だが、望の激痛はとどまる事を知らない。
孤独。
*
――――翌朝4時。すでに望は起きていた。同じ布団ですやすやと眠るマナちゃんの髪をそっと起きないようにいつまでも撫で、こらえ切れずに数時間泣いた。
朝8時にマナちゃんは目覚めた。望は最期のお化粧をしている最中だ。
8時半。メイクも着替えも済んだ望は、マナちゃんを着替えさせた。娘が一番気に入っているピンク色のフレアスカートのドレスのようなワンピース。
「マナ、海を観に行こう。お天気でとても気持ち良いよ」
「うん! ママ」
旅館の窓から、くっきりとした青空が二人をジッと見ている。
朝食も済ませ、さあ行こう、という時「あ!」とマナちゃんが言った。
「あの玩具を持って行く。万華鏡」
お気に入りとなり、マナちゃんは「万華鏡」という名前も憶えた。
「うん」
穏やかに微笑む望。
『崖まで近づける絶景スポット!』と謳われている名勝の場。マナちゃんの小さく柔らかな手を握りしめ、一歩一歩宙を飛ぶ場所まで歩を進めて行く望。
だんだんマナちゃんが静かになって行く。
崖のそばまで辿り着いた時、望の顔から喜怒哀楽の色は消えている。
マナちゃんは崖の近くで座り込んだ。
「ママ、死ぬ前に万華鏡を見たい」
そう言ったのだ。
絶句する望。刹那泣き崩れた。マナちゃんを抱き締め狂ったように泣き始めた。
「ママ。ママ、大好き」
マナちゃんはそう言い、必死で望の手を握りしめた。
「御免なさい。御免なさい! マナ、御免! 御免なさい、御免なさい、御免なさい。御免なさいっ……! 死んだりしないよ!」
*
私は万華鏡。マナちゃんは何故かは分からない。
母親・望のその言葉を聴くのと同時に私を海へと投げ捨てた。
母娘はその夜美味しいごはんを食べ、翌日街へと帰って行った。
そうして再び老婆の店頭へ並んでいる私。
波に溺れて苦しくなかったかって?
うん、そうだな。私は生物ではないし、まず感情に溺れないように出来ている。
だから平気だ。
だが、お節介な老婆の手によりあちこちたらい回しにされているうちに、情という温みを知った。
次の引越し先にはどれほど居座るだろうか。そんな事どうでも良いがな。
今となっては、自分が回った時に織り成す輝きへの賞賛よりも私は、私を手にした主の幸せを欲するようになったのさ。




