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彼女はいなかった。  作者: 豆狸


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第二話 三人の犯人(生け贄)~前編~

 マルティネス公爵令息デシルシオンは恋をしていた。

 最初から叶わないとわかっている恋だ。

 彼は王太子ペルデドルの婚約者、ルビオ辺境伯令嬢アドリアーナに恋をしていたのだった。


 ルビオ辺境伯領は王国の端にあり、魔獣の蔓延る魔の森に囲まれている。

 辺境伯家が治めていなければ、その領土は数日で無人の地となっているだろう。

 しかし辺境伯家は滅びるどころか襲撃してくる魔獣を討伐し、その(むくろ)を解体して魔獣素材を王国へ献上してくれている。豊富な魔獣素材によってこの王国は他国に先んじて魔術研究が進み、研究後の素材を加工した特殊な効果のある品物の輸出によって潤っている。


 王家は辺境伯家との絶対的なつながりを求めていた。

 それで現当主のひとり娘であるアドリアーナと王太子ペルデドルの婚約を強行したのである。辺境伯家は親族からガナドルを養子として迎えていたが、王太子と令嬢の間に跡取り以外の子どもが生まれたときは、その子に辺境伯家を継がせるということで密約が結ばれていた。

 王家はどうしても自身と辺境伯家の血を交えたいのだ。


 マルティネス公爵家が王家から分かれたといっても、デシルシオンが望んだ程度でアドリアーナを奪えるわけがない。

 それにアドリアーナに恋していたものの、デシルシオンは王家を滅ぼして国を乱れさせてでも玉座と彼女を奪い取るまでの覚悟はなかった。

 だれにも心を明かさぬまま諦めてしまえば良かったのに、デシルシオンにはそれも出来なかった。


 ひとつ年下の辺境伯令嬢がこの王国の貴族子女が通う学園に入学して、彼女の婚約者である王太子が男爵令嬢の底の浅い誘惑に落ちたとき、デシルシオンは浅ましい欲望を抱いてしまったのだ。

 王太子が辺境伯令嬢との婚約を解消することはない。

 だれもそれを許さない。


 けれど男爵令嬢を愛妾にすることは許すかもしれない。

 王家が辺境伯家とのつながりを求めたことで王太子を犠牲にしている。

 国王と王妃はそう思っていたからだ。──辺境伯令嬢だって犠牲にされているのに。


 愛妾に夢中な夫を持った哀れな王太子妃を支えていたら、いつか振り向いてもらえるのではないだろうか。孤独なアドリアーナは自分にだけ微笑んでくれるかもしれない。

 デシルシオンはそう思ってしまったのだ。

 心のどこかで間違っていると自覚しながらも、デシルシオンは王太子と男爵令嬢の仲を煽り、素知らぬ顔で傷ついた辺境伯令嬢を慰める自分を止められなかった。


(……それで、このざまだ)


 あの男爵令嬢がアドリアーナを突き飛ばしたときに、辺境伯令嬢を庇って階段から落ちれば良かった。

 落ちたときに頭を打って死んでしまえば良かった。

 今のデシルシオンは心からそう思っている。


 デシルシオンは意識を失ったアドリアーナに駆け寄ることすら出来なかった。

 アドリアーナよりもひとつ年下の義弟ガナドルが現れたからだ。

 彼は義姉を案じて近くで待っていたらしい。アドリアーナを抱き上げて救護室へ運び、救ったのはガナドルだ。デシルシオンではない。


 デシルシオンはアドリアーナが階段から落ちている間に、集まってくる人間の目から隠すために男爵令嬢を逃がした王太子を止めることも出来なかった。

 男爵令嬢はその場にいなかったことにするという、王太子の愚考に反対することも出来なかった。

 王都の辺境伯邸で、アドリアーナに真実を告げることも出来なかった。


 王家が婚約解消を認めたといっても、このままでは王家とルビオ辺境伯家の間に亀裂が入ってしまうのは明白だ。

 王国が乱れてしまう。罪のない民人が苦しむことになる。

 デシルシオンが浅ましい欲望を抱いて、王太子を諫めなかったせいで。


 自分のおこないを後悔したデシルシオンは、アドリアーナを突き落とした犯人になることにした。

 突き落とした理由は男爵令嬢への愛だ。

 本当は一度たりとも彼女に好意を抱いたことはなかったけれど、男爵令嬢を愛するデシルシオンが、いつも彼女を悪しざまに言う辺境伯令嬢を逆恨みして突き飛ばしたことにした。……婚約者のいる男性に擦り寄る女性が悪いのは本当のことだけど。


 この期に及んでもデシルシオンにはアドリアーナに気持ちを打ち明ける勇気がなかったのだ。

 アドリアーナは優しい女性だ。

 本当は男爵令嬢が犯人だと知っていても、デシルシオンの気持ちを汲んで王家と辺境伯家に亀裂が入らないようにしてくれるだろう。


(だから好きになった。幼いころから未来の王太子妃として、国のことを真摯に考えている彼女に恋をした。ずっと彼女の隣に立っていたかった)


 いくら公爵令息とはいえ、辺境伯令嬢を階段から突き落としてお咎めなしとはならない。

 落ちた直後のアドリアーナは意識を失っていたし、打ちどころが悪ければ死んでいてもおかしくなかったのだ。

 だがそれで自分が処罰されたなら、今度はマルティネス公爵家とルビオ辺境伯家の間に亀裂が入る。それも問題だ。


 デシルシオンは辺境伯令嬢を突き落とした理由と、自分の個人的な感情なのでマルティネス公爵家にまでは累を及ぼさないでくれと遺書に書いた。

 都合の良い願いだけれど、アドリアーナなら聞いてくれると信じていた。

 そして彼は死んだ。


 デシルシオンが死の瞬間に思い出したのは辺境伯令嬢の微笑みだった。

 王都の辺境伯邸で義弟の隣に座っていたときの安心しきった微笑み。

 ずっと支えて大切にしてくれる相手に好意を持つのは当たり前のことだ。もちろんアドリアーナは婚約を解消するまで義弟を意識してはいなかっただろう。辺境伯令嬢は男爵令嬢と違って貞淑な令嬢だった。


 本当は王国のために死を選んだのではなかった。

 デシルシオンは間違ってしまった自分が、二度とアドリアーナの隣に立つことが出来ないと悟ったから死を選んだのだ。

 奪うことも諦めることも出来ない浅ましい恋心を抱いたままで──

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