スローライフを望んだはずが、気づけば戦記だった件
国王が死んだ。
俺の父だ。
それは、母である側妃が毒殺されてから、わずか数時間後のことだった。
血を吐いて息絶えた母を前に、父は「正妃の部屋に行く」とだけ言い残し、そのまま正妃の首をはねた。
父の最後の言葉は、第二王子である俺の行く末に配慮したものだった。
――第二王子に、豊かな領地を与えて公爵にせよ。
――伴侶は第二王子本人に選ばせ、決して他の者が決めてはならない。
兄である王太子はそれを受け入れ、皆の前で、父は自ら命を絶った。
だが、王に即位した兄は、そのすべてを反故にした。
兄は、正妃の息子で、俺とは腹違いの兄弟だった。
俺は「叙爵」という婉曲な言葉で、事実上の追放を受けた。
北の果て、寂れた寒冷地のモルフェン地方へ。
ウィンターガルド公爵として。
兄である国王の命令で。
そして兄は、俺の妻を一方的に選んだ。
母の護衛騎士だった――エルヴィナだ。
高い身長に、厚い胸板、逞しい腕を持つ、伯爵家出身の女性。
水魔法と剣に長けた騎士だ。
簡易的な式を執り行い、すぐに馬車に押し込まれて公爵領に向かわされた。
行き先は、新しく公爵領となるモルフェン地方。
長い道のりを経て、エルヴィナと一緒にモルフェンへ足を踏み入れた時、俺はようやく本音を漏らした。
「最高だ。これでやっとスローライフができる。……しかも、好きな女性と一緒に!」
――俺の夢は、この時叶ったと思っていた。
***
モルフェンは、レグナス王国の最北に位置する寒冷な地域だ。
馬車から降りた瞬間、冷気が顔に叩きつけられた。
季節は春だというのに、王都の秋のように肌寒かった。
到着したのは、ウィンターガルド公爵邸のはずだった。
だが、そこにあったのは、みすぼらしい小屋がひとつだけ。
「……俺の屋敷はどこにあるんだ?」
「こちらでございます」
従者が指したのは、ただの板張りの小屋だった。
周囲には塀もなく、家畜の姿すら見当たらない。
王族の俺の目には、とても屋敷には見えなかった。
だが一応、部屋は複数あると聞き、この現状を受け入れた。
「……飲み水は、あるんだろうな?」
「裏に井戸がございます」
「水道魔道具は?」
「……井戸がございます」
「全国民に無料配布されている水道魔道具すらないのは、さすがにおかしいだろうっ」
「それでは、私はこれにて失礼いたします。ウィンターガルド公爵領の発展を、心よりお祈り申し上げます」
王宮付きの従者は、嘘が見え見えの美辞麗句を並べて王都に帰っていった。
あいつも兄の派閥の者だ。
俺への嫌がらせだろう。
「……思っていたより、ずっと荒れていますね」
隣で、新妻のエルヴィナが静かに呟いた。
背筋を伸ばし、真剣な眼差しで小屋を見つめている。
「大丈夫だ。ここからだ」
俺は深く息を吸い込み、冷たい空気を肺に満たす。
「俺の魔力と、この土地の底力を信じよう」
そう言って小屋に入ろうとした矢先だった。
「レゴリオン様ーーっ! お待ちくださいーーっ!」
遠くから、雪解けのぬかるみに足を取られながら、ひとりの青年が走ってくるのが見えた。
「……誰だ?」
「僕です! ニックです! ついてきました!」
息を切らせながら、しかし笑顔だけはやたら明るい。
「僕以外の従者は、みんな国王派に寝返っちゃったんですが……! 僕が雑用でも使い走りでも、なんでもやりますから! それに、これでも商家出身の子爵令息ですからね。領地運営の役にも、きっと立てると思います!」
相変わらず明るい奴だ。
子爵家出身だが実家は大きな商家で、数年前から俺の専属の従者をしていた。
十八歳の俺より五歳上なのだが、それを感じさせない気安さがあった。
「僕がいれば百人力ですよっ、レゴリオン様!」
エルヴィナが横目で俺を見る。
「……本当に、百人力ですか?」
「……まあ、従者が一人いるだけで助かる」
俺はそう答えた。
本当は、こんな辺鄙な場所までついてきてくれたニックには、感謝しかなかった。
だが――
「おい、ニック。なぜ、お前も同じ部屋で寝ているんだ」
ニックが当たり前のように、俺たちの寝室のソファに毛布を敷き、横になり始めたのだ。
「レゴリオン様ぁ~、まともな暖炉があるのは、この部屋だけなんですよ。他の部屋は、すべて煙突が壊れてました! 新婚にはお邪魔だと思いますが、新しい暖炉ができるまではご容赦ください!」
「……おやすみなさいませ、レゴリオン様」
隣でエルヴィナが淡々と布団に入る。まったく動じていない。
「う、うう……早急に! この屋敷を修理するぞ! 最優先事項だ!」
新婚の俺には、厳しい現実だった。
***
それからというもの、俺は領地の改革に勤しんだ――と言いたいところだが、まずは自分たちの家を整えた。
領民に声をかけ、家の修理について聞くついでに、この土地のことも調査した。
どうやらこの地域は、長らく領主不在だったようだ。
そのため形式上は王家直轄地とされていたが、実際には誰の手も入っていなかった。
特に目立った特産物もなく、細々とやりくりしていた。
領民は穏やかだがよそよそしく、どこか覇気がない。
新しい領主になった俺に対して、期待や敬意どころか、不信感を持っているようだった。
あのボロ小屋の修繕を手伝おうとする者もいなかった。
「これは、思ってた以上に大変かもしれないな……」
俺は無意識に声に出して呟いた。
「なーにをおっしゃってんですか!」
すかさず返事をしたのは、ニックだった。
「大変なことなんて、レゴリオン様には日常茶飯事じゃないですか!」
からからと笑うニックの明るさに、憂いが吹き飛ばされたような気がした。
確かに振り返ってみれば、俺の人生で大変じゃない時なんてなかった。
レグナス王国の第二王子として生まれた俺は、生まれた日から命を狙われ続けた。
国王である父は、側妃である母を深く愛した。
そのせいで嫉妬に狂った正妃から、毒や刺客が日課のように俺の元に送られてきた。
だが、俺には効かなかった。
王家の始祖は竜人であり、俺はその血を濃く継いでいる。
強靭な肉体と、Sクラスの魔力。
人間の刺客に負けることはなかったし、猛毒も平気で飲み干してやった。
そして、竜人は運命の相手である『番』が分かる。たとえ相手がその事実を知る由もない人間であっても、こちらには一目で分かってしまうのだ。
父にとっての番は母であり、俺にとってのそれは、エルヴィナだった。
なお、竜人であるという事実は国民には知らされていない。
異質な存在は恐れの対象になり、いずれ反意につながるからだ。
だから、狙われるのが俺だけなら、まだ良かったのだ。
正妃は最終的に、母を狙った。
今までその一線だけは越えなかったのに。
――母は、父の番だったのに。
だから父は、母の死を知ってすぐ、正妃を斬り、自らも母の後を追った。
正妃がそこまで追い詰められた理由も、見当はついている。
俺は王位継承権第二位の立場にあり、国内最高位の魔力を持っていた。
しかも、国王に溺愛された側妃の息子だった。
そのせいで、俺の成人の儀が近づくと周囲が勝手な噂を立てたのだ。
――国王は、第二王子を後継者にするらしい。
実際はそんなつもりなどなかったのだが、その噂が正妃の恐怖に火をつけたのだろう。
だが、いくら殺そうとしても、俺は死ななかった。
俺という邪魔者を物理的に排除できないと悟った正妃は、その矛先を母へと向けたのだ。
母を殺せば、俺から「王の寵愛」という盾を奪い、兄を後継者にできると考えたに違いない。
だから、母を殺した。
だが、王妃も殺され、父も死んだ。
残されたのは、俺と兄だけだった。
結局俺は、王になった兄からも警戒され、こんな僻地に飛ばされた。
兄は、竜人にとって『番』がいかに絶対的な存在かを知っている。
だからこそ、父の遺言に背いて俺の伴侶を勝手に決めることで、俺から「運命の相手と結ばれる権利」を奪い、絶望させようとしたのだ。
兄の目には、エルヴィナは母の護衛をしていただけの、可愛げのない大柄な女騎士に映っていたのだろう。俺が彼女を一目で番だと気づき、恋をしていたことなど、知る由もない。
俺にとって重要だったのは、王位でも、権力でも、名声でもない。
俺の隣に立っている、この女性――
エルヴィナの存在だけだった。
「……どうかしましたか?」
「いや、君に見惚れていただけだ」
「……また、そうやってご冗談を……」
俺の妻は、すぐに赤くなって、可愛い。
無口で真面目で我慢強い。
俺はそんな妻を、でろでろになるまで甘やかしてやりたい。
甘やかしてやりたい……のだが。
俺たちは今、小屋の隙間を埋める作業をしている。
全員、貴族出身だ。
こんな作業はしたことがない。
だが、エルヴィナはてきぱきと板を釘で張り付けていく。
頑張る彼女は素敵だが、作業で服は汚れ、手は傷ついていた。
ドレスや宝石を贈るどころか、騎士服を着せて釘打ちをさせてしまっている。
モルフェンに来てから、雨の日も風の日もこの作業を続けてきた。
一ヶ月かけてようやく、この小屋も雨漏りしない程度にはなったが、ドレスを着せてやれる日はまだ遠い。
俺は、一つだけ重要なものを見落としていた。
王位も、権力も、名声も別にほしくはない。
だが――金だけはいる。
しかも、生半可な額じゃ足りない。
この領地を潤して、エルヴィナに贅沢をさせるんだ。
こんな……ボロ小屋ではなく豪邸に住まわせてやるっ!
そう誓いながら、俺は慣れない釘うちに集中した。
俺の周りには、ところどころ折れた釘が転がっていた。
悲鳴が聞こえたのは、釘を打つ音が途切れた直後だった。
「――っ!」
甲高く、切羽詰まった声。
方向は、集落の外れだ。
俺は反射的に立ち上がった。
エルヴィナも、同時に武器に手を伸ばしている。
「ニックも行くぞ!」
「は、はいっ!」
雪解けでぬかるんだ地面を蹴り、俺たちは走った。
見えたのは、柵を破られた小さな家畜小屋。
逃げ惑う羊と、地面に倒れ伏した一頭。
そして――
「……狼か」
だが、ただの狼ではなかった。
灰色の毛並みは逆立ち、目は異様な光を宿している。
呼吸は荒く、唸り声は低く濁っていた。
狼は俺たちに気づくと、牙を剥いた。
だが逃げない。
人を恐れない狼など、俺の知る限り聞いたことがない。
「レゴリオン様……」
「分かっている」
俺は一歩、前に出た。
「下がっていろ」
言うが早いか、狼が跳んだ。
――いや、跳んだ、というより。
飛んだ。
跳躍力とは思えないほど高く跳ね上がり、突風がそれを後押ししていた。
土が舞い上がり、視界が一瞬霞む。
次の瞬間、狼の影が一気に距離を詰めてきた。
速い。
明らかに、ただの獣の動きじゃない。
だが、俺には届かない。
避けた直後に、腰の短剣を抜き、踏み込んだ。
跳びかかってきた狼の体勢を崩すように、前脚の付け根へ魔力を纏った一閃を叩き込む。
硬い手応えが、刃越しに確かに伝わった。
狼は体勢を崩し、地面に転がって激しくもがいた。
俺は迷わず間合いを詰め、その喉元に短く刃を入れた。
静寂が戻る。
助かった家畜たちが、小さく鳴いた。
「……助かりました……!」
駆け寄ってきた領民が、震える声で礼を言う。
だが俺は、それにすぐ応えられなかった。
しゃがみ込み、倒れた狼だったものを見下ろす。
「……なんだ、これは……」
俺は眉をひそめた。
そこには灰しか残らなかった。
魔獣という、魔力を持った獣がいる。
完全に魔獣化したものは、白目が黒くなるため判別できる。
だが、進行途中の個体は外見では分からないことも多い。
それでも、魔に侵された生き物は、死ねば何一つ残らず灰になる。
「ただの狼じゃなかったのか……魔獣へ進行途中だった……?」
戦いのときに吹いた突風も偶然ではなさそうだ。
この魔狼が持っていたのは、風属性の魔力か?
――この土地は、思っている以上に追い詰められている。
そう、直感が告げていた。
俺は深く息を吐き、立ち上がる。
ここから先は、考えるべきことが山ほどある。
「……最近、こういう被害は続いていたのか?」
俺がそう尋ねると、領民たちは顔を見合わせた。
「……はい」
「実は……」
「狼が増えてきて……」
ぽつり、ぽつりと、言葉が零れる。
以前から狼はいたが、数年前から明らかに強い個体が現れた。
少しずつその数は増え、家畜や人が襲われるようになった。
初めは村の若者を集め対抗していたが、死者が出た頃から、若者が村から出て行った。
残ったのは、守りきれなかった後悔と、どうにもならない諦めだけだった。
大切な財産である家畜や畑が、好き放題に食い荒らされたが、為す術がなかった。
領民たちは狼に怯える毎日を過ごしていたという。
「そういうことだったのか」
どうりで、皆に覇気がないと思った。
確かに若い男も少なかった。
ここにいると狼退治に駆り出されるため、皆いなくなったんだろう。
もし領主がいれば、せめて王家から派遣された代行官でもいれば、すぐに王宮に報告して討伐隊を派遣してもらえただろう。
だが不幸にも、ここは王家直轄領だったというのに、しばらく見放された土地だった。
そのために領民たちが犠牲になった。
俺が領主になったからには、もう放ってはおけない。
その夜、ボロ小屋の中で、簡単な領地の収支を洗い出して、俺は眉をひそめた。
……ない。
この領地には驚くほどに金が、ない。
税として集められる金はごくわずかで、維持費を差し引けばほぼゼロ。
領主が贅沢をする以前に、まともな運営すら難しい数字だった。
これでは、エルヴィナを甘やかせられない。
今日聞いた話が、頭をよぎった。
襲われた家畜、荒らされた畑、去っていった若者たち。
これだけの土地があり、山も森もある。
人もいる。家畜もいる。
それなのに、金が回っていない。
――奪われている。
金になる前に、すべてが。
狼だ。
あいつらが、すべてを食い尽くしている。
まずやるべきことは、あいつらの討伐だ。
狼の数を把握し、生息域を洗い出す。
そして、討伐計画を立てる。
討伐自体は、俺一人でなんとかなるだろう。
今日の個体はそこまで強くなかった。
――そのはずだった。
数日後、俺は森を走っていた。
「なんで! こんなに強いんだ!!!」
魔狼の放つ氷と風が、容赦なく追いかけてきた。
一人で森の狼の調査をしていると、魔狼のボスと出くわしてしまった。
しかもこいつは、風だけじゃない。
氷まで、使ってきやがる。
明らかに他の個体よりも強かった。
白目は黒く濁り、完全に魔獣と化していた。
さらに、それで終わりじゃない。
他の魔獣化しかけの狼たちも一斉に俺を標的にして迫ってきた。
(完全に魔獣化したわけじゃないが……半魔狼とでも呼ぶべきか)
一人でなんとかなるという考えは、甘かったのかもしれない。
襲ってくる氷と風、そして半魔狼たちの牙を高く跳んでかわし続ける。
避けるついでに反撃はできるが、次から次へと数が減らない。
魔狼のボスが使う氷と風の魔法は、俺の魔力属性である雷・火・風と相性が悪かった。
俺の火魔法は氷の壁に遮られるが、ボスの氷の攻撃は防ぎきれない。
俺は、風魔法で跳んで逃げるしかなかった。
得意の雷魔法が効かないのが誤算だった。
氷は雷を通さない。
雷魔法を放つたびに、やはり氷の壁に防がれた。
分厚い氷の表面にひびを入れることくらいしかできなかった。
俺は氷風の攻撃を避けながら、半魔狼たちの配置を確認する。
(特大の雷魔法を、地面に放てばなんとかなるか?)
地面はところどころぬかるんでいた。
水は雷を伝導させる。
地続きになっている半魔狼どもの大半を屠ることができるだろう。
俺は手に魔力を込めた。
特大の魔力を放とうとした、そのとき。
「レゴリオン様ぁ~!」
ニックの声がした。
領民たちと一緒に加勢に来た。
……つもりらしい。
だがそれは逆効果だった。
「逃げろ! お前たちでは歯が立たない!」
「レゴリオン様を見捨てることなんてできません!」
勇ましく叫ぶニックの隣で、領民たちは狼の群れに震え上がっていた。
とても戦えるとは思えない。
それに――
(お前たちがそこにいたら、雷魔法が使えないじゃないかっ!)
雷魔法を地面に放つと、範囲は指定できない。
ニックたちだけを避けるなんてことは不可能だ。
しかも、次はあいつらを守りながら戦わなければならない。
半魔狼たちの一部が、ニックたちの方へ方向転換して走って行く。
俺はそいつらに火魔法で攻撃する。
なんとかあいつらを守れたと安堵した一瞬、気を抜いてしまった。
音もなく忍び寄った半魔狼の一匹が、俺を目がけてとびかかってきた。
(まずい……! 間に合わな――)
危険を覚悟したそのとき、目の前の半魔狼が真横にぶっ飛ぶ。
地面に叩きつけられた半魔狼は、灰へと変わった。
その灰が、水に濡れる。
水魔法だ。
「レゴリオン様、油断してはいけませんわ」
エルヴィナだった。
「エルヴィナ、なぜ来た! 危ないだろう!!」
「……夫婦ですから」
「くっ!」
(クソっ! 俺の妻が、可愛い!!)
エルヴィナの凛々しくも可愛いその姿に悶えていると、次々に指示が飛んできた。
「ボスを雷魔法で攻撃してください」
「だが、あいつには……」
「大丈夫です。考えがあります。ほら早く!」
「あ、ああ!」
俺はボスに向かって雷魔法を放った。
だがやはり、ボスの頭上に厚い氷の盾が現れ、雷の攻撃は防がれた。
次の瞬間、エルヴィナは魔力で生み出した大量の水を叩きつけた。
ボスにではなく、その上の厚い氷へ。
氷の盾は水に濡れ、その雫が下へ落ちた。
「今です! 特大の雷を氷に落としてください、レゴリオン様!」
言われるがまま、多くの魔力を込めて雷を氷の盾に解き放った。
低い轟音とともに、地面を震わせる雷が落ちた。
また氷の盾に阻まれる――はずだった。
だが、滴った雫が道を作り、雷はそれをなぞってボスへと落ちていった。
「ギャァァァ!!」
断末魔を上げて、ボスは息絶えた。
死体はすぐに灰となって消えた。
周りにいた半魔狼たちも灰になり、残りは一目散に散っていった。
「水か……。考えたな、エルヴィナ」
「レゴリオン様の雷魔法あっての作戦です」
「うっ……!」
(夫を立てる完璧な妻じゃないか!)
心臓が鷲掴みにされたようにぎゅんぎゅんと高鳴った。
俺が胸を抑えている間に、エルヴィナは逃げ惑う半魔狼をバッサバッサと切り倒していた。
なんて頼りになる妻なんだ。
俺が再び恋に落ちたことは言うまでもない。
その夜、領民から大量の食料や酒とともに、感謝の言葉が届いた。
彼らの態度から、ようやく俺が領主として受け入れられたと感じた。
ニックはえらく喜んでいた。
エルヴィナは安堵の表情を浮かべた。
俺はそのときようやく、食料や物資が尽きかけていたことに気づいた。
今まで俺は、民がどう思おうと関係ないと思っていた。
だが、この土地に住む民の協力なくして、領地運営はできないのだ。
ここで生きていくために、領民と関わり、信頼を得て、領地を豊かにしていく。
それが、今の俺にできることだ。
そう決意して数日。
魔狼の討伐から間を置かずに、王命が届いた。
公爵としてこの地に足を踏み入れてから、季節が一つ変わろうとしていた。
二ヶ月かけて屋敷の隙間風を止め、さあこれから本腰を入れて開拓を、という時だった。
近隣で魔獣被害が相次いでいるため、実績のある俺に現地へ向かえという。
新婚生活を整える間もなく、俺は三か月もの間、領地を離れることになった。
「エルヴィナ、苦労をかけるが、領地を頼む」
「かしこまりました。ご武運を」
「ニック、エルヴィナを頼むぞ」
「はい! 任せてください!」
王命の準備金で村娘を一人雇った。
家事や雑用は彼女に任せ、エルヴィナは領地運営に専念することになった。
俺は一日でも早く領地に戻れるよう、全力で魔獣退治に取り組んだ。
……のだが。
どの任地も、早々に切り上げられるものではなかった。
相手は――人間だったからだ。
討伐隊の編成は最小限だが、王家の騎士もいたため、魔獣だけならば早々に討伐できた。
魔獣討伐に向かわされた地のほとんどは、悪徳な領主がはびこっていた。
俺は魔獣だけでなく、その領主までもを相手にせねばならなかった。
そうだ。
問題は、領主たちだった。
俺が行く先々の領主たちは、領民を平然と虐げ、脱税や癒着も当たり前だった。
俺を懐柔しようとする領主は多く、媚薬を盛られ、女を用意されることも日常茶飯事だった。
もちろん、俺はエルヴィナ以外に興味はないため、すべて断った。
ひどい奴は、俺に毒薬を盛ってきた。
俺に毒を盛った領主は、空になった杯を前に冷笑する俺を見て、腰を抜かしていた。
父の時代、王宮で日課のように毒を盛られてきた俺にとって、地方の安物など、ただの苦い水に過ぎない。
俺は震えるその領主の首根っこを掴み、王国兵士へ引き渡した。
もちろん、媚薬を盛った領主も同様だ。
公爵であり王族である俺にそんなことをすれば、死刑に値する。
割と大ごとになりながらも、俺は我が国の法に則り、毅然と対応した。
よほど悪政を行っていたのか、領主たちを失脚させ王都から監査官が派遣されると、それぞれの領民たちからは、安堵と感謝の声が上がった。
領地を移動するたびに王国の中心にある王都に戻り、兄上へ報告をした。
不敬な領主を失脚させた報告をしても、兄上は書類から目を上げることなく次の領地を指し示した。
執務室の机には山のような書類。
兄上の目の下には、以前より深い隈がある。
魔獣討伐を重ねるうちに、分かってきた。
……兄上は、俺を道連れにする気だ。
『便利すぎる掃除屋』として使い倒す気だ。
兄上は、俺を地方に向かわせて、汚職にまみれた領地を立て直させようとしている。
そのための理由として、魔獣退治などと言っているに過ぎない。
それならば、俺は最短ルートで解決する。
一日でも早く、エルヴィナのいる領地に戻るために!
魔獣を焼き、汚職領主を吊るし、各地の混乱を正した。
本来なら数年かかるそれらを、俺は数週間で片付けた。
すべては、エルヴィナのいる北の地に帰るため。
俺の魔力と剣は、民を救うためではなく、一秒でも早く俺とエルヴィナだけの新婚生活を取り戻すために振るわれた。
遠征中の宿舎の庭で、仕事終わりに娼館へ向かう兵士たちを横目に、俺は一人、剣を振り続けた。
(まだなんだ……俺とエルヴィナは、ニックのせいでまだ、何も……!)
滾る思いを、無心で剣を振ることで発散した。
おかげで俺の剣は遠征前より一層鋭さを増し、遠征の終盤には、周囲が息を呑むほどの気迫で魔獣の群れを一人で屠るようになっていた。
俺が本気でブチギレて戦っているのを見て、周囲の兵士や領民たちは『公爵閣下はなんと慈悲深く、民の苦しみに憤っておられる』と勝手に感動して涙を流していた。
だが、俺の頭の中にあるのは、一刻も早くエルヴィナと二人きりになれる我が家に帰ることだけだった。
ようやく領地へ戻れたのは、夏が終わる頃だった。
久しぶりのモルフェンには乾いた風が吹いていた。
三か月ぶりに会ったエルヴィナに感動して、思わず強く抱きしめてしまった。
元騎士の彼女は痛がりもせず、微動だにしなかった。
顔も無表情。
だが頬は真っ赤だった。
(か、可愛い!!!)
俺はすぐに家の修繕状況を確認した。
この三か月で修繕は終わり、暖炉も使えるようになったという。
(これで、ようやく……!!)
期待に胸を膨らませたとき、一人の老人から声をかけられた。
その一瞬で、エルヴィナの表情が曇ったことを、俺は見逃さなかった。
「領主様、よくご無事に帰還されました。私はこの一帯を取り仕切っておりますカルドスと申します」
カルドスと名乗るその老人は、平民にしては良い身なりをしていた。
「取り仕切っているだと?」
「いえ、ハッハッハ。管理人とでも申しますか。三代にわたりこのモルフェンの実務を行ってきました。煩雑な事務仕事などは、私にお任せください。領主代行のエルヴィナ様も、私に任せてくれていたのですよ」
カルドスは顔中を皺だらけにして笑って見せたが、目の奥は笑っていなかった。
これと同じような目を、俺はこの三か月、嫌というほど見てきた。
「今宵は、領主様のご帰還を祝う宴を開きます。ぜひ我が家にいらしてください」
横目でエルヴィナを確認すると、俯いていた。
(これは、早々に決着をつけた方が良さそうだな)
「ああ、分かった。今夜向かおう」
「それでは、お待ちしております」
カルドスの姿が完全に見えなくなってから、小声でエルヴィナに言った。
「心配ない。問題は早々に片付ける」
「レゴリオン様……」
話を聞くと、エルヴィナはすでに何度かカルドスと面識があったらしい。
俺がいない間、エルヴィナたちはカルドスの巧妙な妨害に遭い、領主としての仕事は、碌にさせてもらえなかったようだ。女と侮られていたのかもしれない。
ニックからも、上手く補佐できなかったことを平謝りされた。
そして夜になり、カルドスの家へ出向いた。
俺に宛がわれたボロ家の近所にあるとは思えないほど、立派な建物だった。
この辺一帯が貧相な家ばかりであることを思えば、明らかに浮いている。
「は……? なんだこれは。やけに立派じゃないか。どこに、こんな贅沢ができる金があったんだ。狼被害で、領民は皆、余裕なんてなかったはずなのに……?」
「……」
「これはこれは、領主様。ようこそ、おいでくださいました」
そして開かれた宴は、食べきれない量の食事に酒、舞う女たちと、この地方にしてはずいぶんと豪華なものだった。
念のため、エルヴィナには口にする物には気を付けるよう言ってある。
俺はわざと派手に飲み食いした。
毒か媚薬が入っていると思ったからだ。
俺には効かない。
「領主様は、良い食べっぷりですな。ハッハッハッ」
「まあな。剣をふるってきた帰りだから、腹が減っていたんだ」
「魔獣討伐でのご活躍は聞き及んでおります。さぞ腕が立つそうで」
「剣の腕だけならエルヴィナに敵わないさ」
「ハッハッハ! エルヴィナ様はお強いそうですのぉ」
「そうだな。……なんだか……この部屋、暑くないか?」
俺はカマをかけた。
毒らしき苦味は感じなかったため、媚薬が効いているふりをした。
俺がそう言うと、カルドスは笑みを深くした。
「おなごは、しとやかな者に限りますじゃろうて。おい、こっちへ!」
カルドスが声をかけると、十人ほどの若い女性たちが横一列に並び、一礼した。
予感は的中した。
そしてカルドスはいやらしい笑みを浮かべて口を開いた。
「騎士風情の大女より、小柄で柔らかい娘の方が良いに決まっております。遠征先でも、いろいろと味見されたでしょうが、ぜひうちの娘たちも試してみてください。ハッハッハッ!」
(三ヶ月も我慢して、ようやく環境を整えてエルヴィナを抱こうと決めて帰ってきたっていうのに、この老いぼれは何を抜かしてやがる……!! それに俺は味見なんかしてないぞ!)
煩悩を振り払うために一心不乱に剣を振っていたというのに、ひどい風評被害だ。
隣で、エルヴィナが剣の柄に手をかけた気配がした。
彼女から、鋭い殺気が立ちのぼる。
……待て、エルヴィナ。
それは俺の仕事だ。
俺の方が、今、こいつを八つ裂きにしたいと思っているんだ。
いや、その剣は、本当にこいつを狙っているんだよな?
まさかこいつの言ったことを真に受けて、俺を狙っていたりしないよな?
内心焦りながらも、ふいに、目の前の老いぼれの下品な笑い顔が、学園時代に馴れ馴れしく兄上に言い寄った令嬢に重なった。
皆の前で冷徹に令嬢をはねのけた兄を見て、当時の俺は「厳しすぎるのでは」と眉をひそめたものだ。
だが、今なら理解できる。
序列を無視し、立場を弁えず、あまつさえ俺の大切なエルヴィナを侮辱する――そんな奴を野放しにすれば、法も秩序も崩壊するのだ。
俺がなすべきことは一つ。
「……エルヴィナ。剣を納めろ。俺がやる」
俺が指先を動かした瞬間、夜の闇に白い閃光が走り、カルドスの邸宅のすぐ脇に巨大な雷が一直線に落ちた。
轟音と振動に、女たちは悲鳴を上げる。
非戦闘員であるカルドスを驚かせるには十分だった。
腰の鞘から剣を抜き、奴の首にかけた。
「エルヴィナは、ここにいる誰よりいい女だ。俺の妻を侮辱することは許さん」
「ひっ」
「貴様の家が豪華な理由は、領民の血税か? それとも国王への背信か? どちらにせよ、王族に媚薬を盛った罪でお前は終わりだ。余罪次第では、この首一つで済むと思うなよ」
「ひいぃ……!」
カルドスは腰を抜かした。
数日後、王都から派遣された兵士がやってきて、カルドスは連行された。
後の調査で、この地方で起きた過去の不審死の多くがカルドスと無関係ではなく、さらに長年にわたる帳簿の偽装や横領も発覚した。関係者は一斉に摘発された。
俺の領地では、不正は二度と許さない。
そう宣言すると、領民は歓声を上げて湧いた。
皆、長年にわたりカルドスに虐げられていたのだ。
それからは、俺たちの邪魔をする者はいなかった。
驚いたことに、あのボロ家は領主屋敷ではなかった。
本物の領主屋敷は、少し離れた場所にある石造りの立派な家だった。
カルドスの嫌がらせだったらしい。
どうりで、おかしいと思った。
「くそっ! 俺たちは何のために今まで、あの隙間風の吹く小屋で釘を打っていたんだ……! エルヴィナに、あんな重労働を……!!」
そう憤る俺に、エルヴィナは少しだけ頬を緩めて言った。
「ですが、あの小屋も悪くありませんでした。レゴリオン様と一緒に、一歩ずつ作り上げている実感がありましたから」
「エルヴィナ……!」
「ちょっとぉー! 僕のこと忘れないでくださいねぇー?」
「……ニック、お前も一緒に住むのか?」
「当たり前じゃないですか!? 他にどこに住めと言うんです!?」
「そ、そうだな」
「それに、僕も愛しの恋人ができたんでお互いに邪魔はナシですよ!」
「……は?」
「ニックは、使用人のルーシーとお付き合いしているんですよ」
「なんだって?」
「冬ごもりが楽しみですね! レゴリオン様!」
「寄るな! 裏切者め!」
その夜、ようやくニックを別室へ追い出すことに成功し、俺たちは本当の意味で夫婦となった。
人生で最高の夜だった。
そして、満ち足りた日々が続いた。
この地方の冬は、積雪で外に出られない。
食料や薪を蓄え、家に籠る。
……家に籠る!
冬が明けた頃。
エルヴィナは子供を宿した。
モルフェンの冬は至福だった。
最高のスローライフだ。
これが一生続けばいい。
だが、そううまくはいかなかった。
春にまた、魔獣討伐の王命が下った。
俺は一秒でも早くエルヴィナの元へ帰るべく、血眼になって魔獣を狩り、悪徳領主を断罪した。
救世の勇者とか呼ばれたが、そんなものは知らん。
俺はただ、エルヴィナとこれから生まれる子供と一緒にいたいだけだ。
領地に戻ると、エルヴィナのお腹が大きくなっていた。
その過程を見られなかったことが残念でならなかった。
だが、エルヴィナが落ち込む俺の頭をなでてくれたから、良しとする。
二年目の秋に生まれた長男エイゴリオスは、俺に似て魔力が強く、エルヴィナに似て身体が大きかった。
三度目の冬には、外が猛吹雪で閉ざされる中、次男ルナリオンが産声を上げた。
一歳になったばかりのエイゴリオスが、小さな赤ん坊を不思議そうに指でつついていたのが微笑ましくも、俺は父としての責任を一段と強く感じたものだ。
その間も春には魔獣討伐に出向き、領主の悪行を暴き、秋に家に帰る日々だった。
子育てと魔獣討伐の合間、俺は領地の産業にも着手した。
狼が消えたことで増えすぎた狐の中に、珍しい銀色の毛皮を持つ個体がいることに気づいたのが始まりだった。
この地域では昔から、たまに見かけるものらしい。
その話を聞いたニックが目の色を変えた。
彼の提案で、俺はエルヴィナと協力して魔法を使用し、毛皮を一切傷つけることなく狩って回収した。
それはやがて、最高級の『銀狐の毛皮』として、我が領地の名産となった。
さらに、秋に収穫し忘れていた野菜を春先に掘り起こしてみると、驚くほど甘くなっていた。
これを知ったニックは、またしても水を得た魚のように動き出した。
彼はこれを『雪下野菜』として売り出し、越冬に向く畑や品種を選んで工夫を重ね、ほどなく安定して供給できるようにした。
王都の商人たちは、やがて大金を積むようになった。
ニックは実家のツテをフル活用し、王都の有力商人たちを次々とこちらに引き込んだ。
気づけば、我が領地の金庫には、かつてとは比べものにならないほどの金が積まれていた。
エルヴィナにはボロい騎士服ではなく、最高級のシルクを贈れるようになっていた。
「ニック。お前、商人の方が向いているんじゃないか?」
「やめてくださいよー! 僕はレゴリオン様の側仕えがいいんです。……ウィンターガルド公爵家公認の商家を起こすなら、考えますけどね!」
四度目の春と夏は、魔獣討伐の王命が一度も下らなかった。
あらかたの被害は収まり、地方の混乱も落ち着いたのだという。
(……ようやくか)
その年、俺は初めてモルフェンで夏を過ごした。
涼しく過ごしやすい気候だった。
家族と幸せな時間を過ごしながら、領地運営にも力を入れた。
夏が明けたある日。
王家から一通の招待状が届いた。
王宮の夜会への誘いだった。
毎年十二月に行われている夜会だが、俺たちは結婚してから一度も出席していなかった。
今までは、ドレスを用意する金もなく、王都へ行く余裕もなかった。
だが、今の俺たちは違う。
「……エルヴィナ。とびきりのドレスを用意しよう。俺たちの三年間の成果を、兄上に見せつけてやるんだ」
「でも……大丈夫でしょうか」
「心配ない。ついでに銀狐と雪下野菜の宣伝もすればいい」
俺はすっかり領主として、領地の名産を宣伝することが当たり前になっていた。
その年の冬は、王都に家を借りて家族とニック達で移り住んだ。
子供達にとって雪のない冬は初めてだ。
二歳を過ぎて屋敷中を駆け回る長男と、ようやく伝い歩きを始めた次男。
賑やかすぎる息子たちを、ニックやルーシーに預け、俺たちは数年ぶりに王家主催の夜会に出席した。
会場を圧倒したのは、まさに氷の女王と呼ぶにふさわしい、エルヴィナの凛とした美しさだった。
深い夜空のような濃紺のシルクドレス。
ドレスの肩には、一点の濁りもない白銀の毛皮が、優雅に掛けられていた。
それは、王都の市場でもめったに出回らない、銀狐の毛皮を贅沢に用いたストールだった。
「……あれは、元第二王子の……ウィンターガルド公爵閣下?」
「まさか、北の果てで野垂れ死んだのではなかったのか?」
「野垂れ死ぬどころか、救世の勇者様と最近、話題になっておりますのよ」
「隣にいらっしゃるのは奥様? 身に着けていらっしゃるのは……銀狐の毛皮!?」
貴族たちの驚愕の視線を背に受けながら、俺はエルヴィナの腰に手を添えた。
俺たちが一歩踏み出すたびに、絹のような銀の毛並みがシャンデリアの光を反射して、幻想的な輝きを放つ。
視線の先、玉座の近くで顔を強張らせている兄上と目が合った。
兄上の横にいる王妃の毛皮が、まるで安物の野兎に見えるほどの圧倒的な質の違い。
俺の妻は、世界で一番美しくて豪華なんだ。
ようやく留飲を下げた俺は、曇りのない言葉で兄上に挨拶をした。
「ウィンターガルド公爵、レゴリオン。ご無沙汰しております、兄上」
俺の声が会場に響くと、ひそひそ話がぴたりと止まった。
兄上は、相変わらず無機質な瞳で俺を見下ろした。
その視線が、エルヴィナの纏う白銀の毛皮をわずかにかすめる。
「……モルフェンの地をそこまで立て直した手腕、そして魔獣を退けた武功、聞き及んでいる」
兄上の声は低く、感情が読み取れない。
だが、その顔色は驚くほど白かった。
「おかげさまで。兄上の『ご期待』に添えるよう、死ぬ気で働きましたので」
俺がわずかに皮肉を込めて笑うと、兄上はふっと、誰にも気づかれないほど微かに口角を上げた。
……いや、それは笑みというより、安堵のようにも見えた。
「ならば良い。お前を派遣したのは、正しい判断であったということだ」
(……やはり、確信犯だったか)
兄上は、俺を悪徳領主と魔獣の掃除屋として使い潰すつもりだ。
都合が良いだけの存在になってたまるか。
俺にはもう、守るものがあるんだ。
「兄上の素晴らしい判断のおかげで、魔獣被害は収束しました。最前線で戦ってきた者として、断言できます。あとは、その地の領主の仕事です。私も、これ以上領地を空け続けることは、公爵としての責務に反します。今後は、我が公爵領に最善を尽くす所存です」
実質的な、討伐拒否だった。
戸惑いを含んだ声が、周囲に漏れ始めた。
国王の命が下る前から、それを受けぬと公言する公爵など前代未聞だ。
兄上はしばらく俺を見つめていたが、やがて短く言った。
「……いいだろう。お前の意思を尊重しよう」
抑えきれないどよめきが、会場に広がった。
国王が、弟とはいえ公爵の要求を受け入れた。
救世の勇者なんて呼ばれ方までしている元第二王子。
今夜の話題の中心は俺たちだった。
一矢報いた気分になっていると、兄上はゆっくりと皆によく聞こえる声で話し始めた。
「我が弟、ウィンターガルド公爵よ。お前の功績は計り知れない。北の地を救い、民を豊かにしたその手腕は、王国の宝である」
会場中の貴族が耳を澄ませる。
俺は、自分の耳を疑った。
兄上からこんなに誉められたことなど、生まれてこの方、一度もない。
「ゆえに、命ずる。お前のその稀代の才を、次は南の荒地で振るうがいい。……モルフェンの地は、後任の者が引き継ぐ。ウィンターガルド公爵に、領地替えを命ずる」
一瞬の静寂の後、会場中が騒がしくなった。
(……なんだって? 今、何と言った?)
南の荒地。
この数年、異例の冷害で飢饉に陥り、重税に耐えかねた民が暴徒化。
領主たちは逃亡し、伯爵領や侯爵領だった一帯は、今や誰の管理も受けないまま無法地帯となっている。
――俺に、そこへ行けと?
薄く笑みを浮かべた兄上を、無意識に睨みつけた。
何のために、領地を立て直したと思っているんだ。
俺は、モルフェンの冬を愛している。
あそこで永遠にエルヴィナと仲睦まじく過ごしたい。
やっと、やっとエルヴィナに贅沢をさせて、ゆっくりさせてやれる環境を整えたんだ。
それなのに、そんな無法地帯へ行ったら――
(俺のスローライフが、遠のくじゃないか!!)
夢であるスローライフへの道は、どうやら、まだまだ終わりそうになかった。




