おっさん、魔法のチートさを思い知る(2)
「待たせたわね、ようやくできたわ」
「おお~、こいつは見事なもんだな」
「当たり前でしょ、私が書いたんだから」
こちらから見て右側はまるで台風が渦を巻いているような荒々しい感じの文様なのに対し、左側は規則正しく波音が漂っているような雰囲気だ。全体としては左右非対称であるものの見たまんまの神秘性を宿しており、惜しむらくは描かれたのが机の上だったということだろうか。
これがどっかの洞窟の最奥にでもあった日には、苦労してたどり着いた探検家どもがこぞって写真を撮ったり文献を調べたりすることだろう。専門家でもない俺からしたら興味本位で美術館に行ったときに飾られている作品を見て得る感動と大差はないが、目の前で作品が完成されていく様子を観察していたせいか凄さの重みがいつもより違って感じられて感慨深い。
「月並みで申し訳ないが、本当に凄い。これだけ見事なものが書けるのなら、お前が魔法の天才だって言われても誰も疑わないだろう」
「それはそうよ、私は生まれながらにして天才なんだから。こんなこと、できて当たり前なのよ」
「そうなのか? だが、俺はこいつを書くにもすげえ努力をしたんじゃないかって思うんだけどな?」
「え?」
ナタは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして目をパチクリさせた。こんな表情でも美人顔が崩れないのは流石だが、そんな相手の意表をつくようなことを言った覚えはない。
「だって、お前がこれを書いているときの表情は真剣そのものだったし、何より所作が流れるようでナタも作品の一部なんじゃないかってくらい綺麗だった。何の努力もしてない人間が観客相手に人生の裏側を想像させたなら、それは確かに天才なんだろう。だが、そこにあるのが当たり前って感じはしなかったからな」
努力をした人間とそうじゃない人間の決定的な差は、きっとその作品に込める思いの重みそのものだろう。呼吸するように作品を作るのなら、普段呼吸することを意識しないように作品を作るから感情は籠らないし作品を描くときの表情に緩急が生まれることはないだろう。
確かに、手の動きは酷く機械的だったがそれは何千、何万と書き続けて体に染みついている証拠だ。実際、彼女の額からは努力の結晶とも言うべき若干の汗が伝っていてる。
「もっと誇っていいんじゃないか? むしろ、謙虚すぎるくらいだ」
「……そう」
彼女の頬に、ほんのりと紅色のチークが乗せられた。視線を彷徨わせる様子は見ての通り、行き先の分からない迷子のようで誉められたことに対する反応に困っているようにも見えた。
髪を誉めた時といい、そういう顔をされるとこっちの方が恥ずかしくなる。育った環境のことを聞いたから何となく彼女の境遇は想像できるが、俺だって女性の扱いには慣れてない童貞のおっさんなんだからよ。
「ともかく、美人顔が台無しにならないくらいに勝ち誇った顔をすればいいんじゃないか?」
「何、口説いてるの? そういうの気持ち悪いからやめてよね」
「そこは照れるところだろ何で素に戻るんだよ」
「キョウスケに言われても嬉しくないからよ、この”&#%”&」
おい、そんなゴミムシを見るみたいな目で見るな。それに今、とんでもないことを口走らなかったか?
「そのモザイクよろしく異世界言葉で悪口言うのやめねえか? 傷つくんだが?」
「私が悪口言ってるかなんて分からないでしょ? ”#&%%」
「そのバレなきゃ犯罪じゃないでしょみたいな理論で連呼するな! 悪口言われてることくらい、お前の顔見てれば分かるんだよ傷つくなぁ!」
かと思えば楽しそうに口元を釣り上げやがって。悪女っていうか、女帝っていうか、そんな感じのキャラも様になってるところがまたムカつくな。
「まあいい。話は逸れたが、儀式をやるんだろ? 俺はどうすれば良い?」
「私の目の前に座って。そして、右手をこっちに」
「こうか?」
ナタの指示で彼女の正面に正座し、手のひらを見せるようにして彼女に差し出した。そして、その手の上に彼女の白く嫋やかな手が重なった。
爪の先まで真っ白だし、細い指だな。如何にもか弱そうなのに俺より強いって、何だが不条理すぎやしないだろうか?
「言っておくけど、私があなたに触れるのは儀式進行のため仕方なくだから。こんなことで発情して私が触れたところ以外に触らないこと」
「いい歳したおっさんがそんなことするか!」
もうガキじゃないんだ、異性と体が触れ合った程度でどうこうということはない。
ただ、異性側から触れられたのはかなり久方ぶりのことなので多少の緊張はある。正直、ドキドキっていうよりかはヒヤヒヤって感じで心臓に悪いから早く終わってくれと願うばかりだ。
「じゃあ、始めるわよ。私と感覚を繋ぐから少し酔うかもしれないわ。あと、私の記憶は極力見ないようにして。きっと苦しむだけよ。私も、必要な情報以外は見ないつもりだから」
「? まあ、分かった」
返事をしたその瞬間、俺の周囲は闇に包まれた。手を繋いでいる感覚はあるのに、それを離したら自分を見失ってしまいそうなくらい深い闇だ。
立っているのとも、漂っているのとも違う。形容し難い不思議な体験を俺はしている。
そんな時だ、耳元で何か囁き声が聞こえてきた。最初は僧侶が聞き取れないくらいの声音で草書の念仏でも唱えているのかと思ったが、徐々に声は大きくなっていく。
『この人でなし!』
『化け物が、こっちに来るな!』
『お前はただ魔法を修学しさえすればいい。それだけの道具なんだ』
『お前に生きてる価値なんてねえ! さっさとおっちんじまいな!』
俺はこんなことを言われたことなどない。これはナタの記憶の中の声なのだろうが、まるで自分が言われているかのように心の中でグサグサと棘が突き刺さる。
感覚の繋ぐというのは文字通り、ナタが過去に経験したことを追体験しているということだったのか。記憶見ないように進めたのも、もちろん見られたくないという気持ちはあったのだろうが俺の精神を気遣ってののことだったのだろう。
「クソ、声がどんどん大きくなりやがる……。それに、体が焼けるように痛い……!」
まさか、実際に焼かれてるのか!? おい、辞めろ! こっちに来るな!
今度は頭に何かをぶつけられた痛みが走った。脳に直接打撃を加えられたみたいな頭痛と眩暈が襲いかかる。
体のそこら中から硬いものをぶつけられ、思わず嗚咽が漏れ出した。これが現実なら、いい歳したおっさんが床の上を転げ回る愉快な見せ物ができたかもしれない。
早く……、とにかく早く抜け出さないと!
俺は逃げ場所を求めてもがこうとするが、体が楔で固定されたように動かない。思えばここは現実じゃなく実際に動いているわけではないのだから、いくら逃れようとしても無駄なのだ。
これが、ナタの記憶? 良いものじゃないことくらいは分かっていたつもりになっていたが、これほど酷いものとな想像もしていなかった。
クソ、意識が……。俺もだが、ナタもまた意識を失うことで痛みによるストレスからの解放を求めているのか?
だが、そんな時だ。
『大丈夫。私がついているからね』
俺の両頬に触れた温かな何か……。それが何かは分からなかったが、煉獄の炎に焼かれていたかのような痛みは消えていく。
逆に、それは俺が求めていたもののようにも思えて縋りたくなってしまう。俺はそれへ無意識に手を伸ばそうとして……。
「あっ……」
次の瞬間には元のいた部屋に戻ってきていた。そこに手を伸ばしたのは微かに感じた温もりを求めたからか、触れた右頬が薄らと濡れていることを自覚したのは少し遅れてのことだった。
「ナタ、お前……」
「やめて。何の記憶を見たかは知らないけれど、同情だけはしないで。憐れまれるような覚えはないわ」
「……すまなかった」
「いいのよ、そんな申し訳なさそうにしなくても。少なからず、何かしらの記憶を見てしまうのは不可抗力だもの。こちらこそ、私の記憶であなたを傷つけてごめんなさい」
「……」
そんなことない、と言えるほどの図太さがあればどれほど良かったか。あの記憶で傷つかない人間なんて、俺には想像することもできない。
それくらい、彼女の痛ましい過去の記憶は焼印のように心の奥深くに刻まれることになった。
互いの間で気まずい沈黙が流れ何だか居心地が悪かったので、気分を変えるためにも話題を変えることにした。
「それより、どうだったんだ? 常識とやらは身についたのか?」
「ああ……。ええ、一通りは。お陰で、こちらでの生活や会話とかに困ることはなさそうよ」
「魔法のチートさは相変わらずだな……。だが、実際に体験してみると、良いことばかりでもなさそうだ」
「当然よ。あなたの言うチートが楽をすることを意味するなら大間違い。昔、この魔法をBさんに使ったAさんが、自分をBさんだと思い込んで事件へ発展したこともあるんだから」
「入れ替わりじゃなくて成り変わりか……。想像しただけでも背筋が凍りそうになる」
とはいえ、それを完全に掌握して操ることができればどんな人生だって生きられる。そういう危険と隣り合わせな部分も、魔法の魅力の一つなのかもしれない。
「ともあれ、これでナタが日常生活に困ることは無くなったな」
「そうとも言えないわ。日用品も不足してるし、この世界で歩き回るための服もないし、お金もない。だから、これから頼りにさせてもらうわね。キョウスケ」
「男に二言はねえ。どんな返礼をしてくれるのか、期待してるぞ」
「エルフにだって矜持があるわ。必ず、あなたを満足させてみせるから覚悟しておいて」
そんなこんなでなんやかんやあったが、いよいよエルフとの共同生活が始まった。
だが、こうして常識を共有してもなおナタとの生活に様々な障害が発生するなんて……。この時の俺は知る由もなかったのだった。