おっさん、魔法使いを励ます
次に目を覚ましたとき、俺は何故か見知った天井を見上げていた。どうやらリビングのソファに寝かされていたらしく、少し首を横に向けるとそこには不安や悲しさを織り交ぜたような複雑な表情をしていた。
しかし、俺が目を覚ましたことが分かると見開いた目に若干の安堵感が重なって、次に吐いたのは大きなため息だった。
「良かった、ちゃんと目覚めてくれて。ここまで運んでくるの、大変だったんだから」
「いや、もとはと言えばお前のせいだろうに」
「ご、ごめんなさい……。その、魔法か、それに類する何かで防御できるものかと思ってて」
「おいおい、人間にそんなことできるわけねえだろ」
「私のいた世界では普通だったのよ。喧嘩するときに魔法合戦をするのだって、よくあることで……」
何だその物騒な世界観は。まあ、確かにアニメやラノベでは主人公を吹き飛ばすヒロインの描写があったりするものだが、あれを現実でやるっていうのは結構グロテスクな感じがするのは俺だけなのか?
「つまり、知らなかったんだな。なら、もういい」
「許してくれるの?」
強気かと思えば、また塩らしくなる。こいつ、典型的な真面目タイプなのはもう確定だな。
そんな小動物が怯えたような表情をされても、こっちがどう対応すればいいか困るから控えてほしいものだ。
「そっちは謝ったんだし、俺はこの通り無事だ。結果論だけどな。次からは気を付けてくれ」
「分かったわ。次はビンタくらいにしておいてあげる」
「それはそれで勘弁願いたいな」
「ふふっ」
昨日から怒ったり、不安がったり、かと思えば悲しそうな表情をしていたのに、今初めて彼女が笑った顔を見せた。みすぼらしくて、汚れ塗れで、貧乏という言葉ですら足りないような娘でも笑った顔というのはとても尊いものだと思った。
何とか体を起き上がらせたが、いつの間にか着せられていた服に違和感を覚えたと思ったら……。
「これ、前後ろ逆だな」
「え、嘘!? 私、間違えちゃった……?」
「着せてくれたのはありがたいが、後で着替え直すよ」
「ごめんなさい。男性の服を着替えさせたことなんてなくて……」
「あったらそれはそれでって感じだけどな。それくらいは全然構わない。それよりも、だ」
問題なのは彼女の格好の方だろう。布一枚、全身汚れ塗れ、あんまり気にしないようにしていたが近づくと臭いも相当酷いし、何より……。
「お前、足も洗ってないだろ。靴も履いてなかったみたいだし、そこら中泥まみれだ」
「そ、それは……。し、仕方ないでしょ! 今は魔法が使えないんだから」
「さっきは派手に切り刻んで吹っ飛ばしてくれたろうに」
「あれは! 使えるとは思ってなかったのよ!」
「そう言えば、そんなこと言ってたな。それで、俺は……」
俺の体は、普通じゃなかった。一回気絶したお陰か、さっきよりも事実を……受け入れたわけではないが、状況をある程度は俯瞰して見れている感じがする。
目の前の女のこと、自分の体のこと、仕事を辞めて半日も経ってないのに整理しなければならないことは山のようにある。だが、まずは目の前の問題を解決するべきだろう。
「風呂に入ったことはあるか?」
「な、何よ藪から棒に。向こうの世界にだってお風呂くらいあるわよ」
「そうか。だが、こっちの道具の使い方は分からないだろ」
「え、ええ。そうね」
「教えるから、まずは体を綺麗にしてくれ。着替えもこっちで用意する」
「分かったわ。その、ありがとう」
「向こうの世界にも、ありがとうがあるんだな。それが言えるだけ、立派なものだ」
「何よ、偉そうに」
「家主だし、実際偉いですが何か?」
冗談に冗談を返したら、互いにくすっと笑みが零れた。住む世界が違く手も、こうして一緒に笑いあえるのは何だか心地が良い気がした。
ここ最近は笑った記憶すらも久しぶりのことで、胸の辺りがほんのりと温かくなったのは気のせいじゃないと断言することができたのだった。
風呂の使い方を教えてから暫く、汚れたところをざっとだが掃除しておいた。目立ったところはないと思うが、また後でちゃんと綺麗にはしようと思う。
今は彼女が出てくるのを待ちながら御粥とちょっとしたつまみを作りながら待っていた。作ると言っても、レトルトをちょっとアレンジしたり、缶詰の中身を適当に野菜で和えたりする程度のものだけどな。
「にしても、本当に何にも使い方を知らんとはな」
どうしたらお湯と水を使い分けられるのかを教えた時なんて、『お湯と水がどっちも出るの!?」なんて言ってたし。たぶんだが、向こうでは水が出るのが基本でお湯は後から沸かすのが普通なのだろう。
それに、シャンプーや石鹸のことも知らないようだったし、向こうではどんな体の洗い方をしているのか聞いてみたくなる。それをやったら、こっちの世界ではセクハラになる可能性があるから聞かないけど。
できあがった御粥を茶碗の中に盛り付け、てっぺんに日の丸印の梅干と刻み海苔をまぶして完成。お供はツナ缶と刻んだピーマンを和えただけの適当つまみだ。
「よし、準備完了っと……お、上がったか?」
丁度いいところに、お風呂から上がったばかりの彼女が出てきたらしい。
時間にして一時間半、いやもう二時間経つかもしれない。汚れは酷いものだったし、それも仕方ない……。
「ん? どうしたの? 私の顔に何かついてる? それとも、着方がおかしかったりするかしら?」
「いや、そうじゃないが……」
いや、たぶん俺自身が一番驚いていると思う。こんないい歳になったおっさんが、まさか女に対して美人だと感じるときが再び訪れようとは思わなかったからだ。
美人……というか、もう一発でこの世界の人間とはこう何だろう……構造そのものが違うような感じだ。
最初に目を引いたのは汚れが洗い流されたことで露わになったシルクを束ねたような銀色の髪だ。光が反射している部分は星が乗っているかのように照り輝いている。
そのせいなんだろうか、彼女の持つ碧眼がより一層輝いて見えていた。何というか、石ころの山しかない鉱山から偶然にもエメラルドを掘り当てたような……肌も白く透き通っていて、まつ毛も長いし、スタイルだって良い。
きっと、この世界で生きていたなら簡単に女優やモデルになれただろう。芸術品が服を着て歩いているなんて表現が似合うのは、後にも先にもこの女だけのような気がしてならない。
「その、なんだ。その髪……」
「か、髪が何!? あ、あなたも、なの……?」
「ん?」
髪の話題に触れた途端、彼女の肩がびくんと跳ねて碧眼の中に恐怖という濁りが現れ始めた。彼女は右足を半歩下げ、自分の身を守るように両手で身を抱いた。
触れちゃいけない話題だったのか、知らなかったとはいえ礼儀を欠いたのは俺も同じってことか。
「気に障ったなら申し訳ない。この通りだ」
「えっと、その……」
俺は何の恥も外聞もなく頭を下げた。それで相手に誠意が見せられるなら、幾らでも下げて構わないというのが俺の心情だ。
「いいのよ、別に。この髪は忌み嫌われて当然のものだから。そう思ったのなら、そう言ってくれていいの」
「いや、そうじゃないんだ。ただ、その髪が綺麗だなって言おうとしただけだ」
「綺麗? この髪が?」
「あ、ああ」
頭を上げた時、今度は涙をボロボロと流していた。魔法を見たり、自分の体の異常性で気絶したかと思えば、今度は女を泣かせちまった。
今日は人生初体験ばっかだし、この日を初体験記念日にでもするか……って言ったら場合か!
「本当にすまん、傷つけるつもりはなかったんだ。だから、泣き止んでくれ。な?」
「違うのよ、これは……」
「違う?」
「ええ。初めて褒められたから、嬉しいのよ」
「そ、そうか、何があったか知らんが、そんな綺麗な髪なのに褒められたことがないなんてな。お前の髪を見た奴ら、きっと目が節穴に違いないぞ」
「何よ、それ」
「本当だって。銀髪の似合う美人なんて、そういるわけねえ。そいつらが褒めないのは、あまりの美人さに嫉妬してるか口説く勇気がないだけだ」
「……ありがとう」
「別に。単に思ったことを言っただけだ。それより、ご飯ができてるからまずは腹ごしらえだ。話はそれからってことで」
「ええ、そうね。それがいいわ」
崩れかけの橋の上を渡ったようなヒヤリとする場面もあったが、何とか二人で食卓を囲む運びとなったのだった。