おっさん、魔法使いを拾う
人並の生活をしていれば、きっと誰しも一度はやりたいこと、やってみたいこと、そういうものと出会う瞬間があるはずだ。かく言う俺も、かつては壮大な夢を頭の中のキャンパスへと思い描いて、後先考えずがむしゃらに走っていた時期があった。
先行投資だの、将来何かの役に立つかもしれないだの、何かと適当な言い訳をしてはお金を浪費し、それに見合うだけの成果も得られないままにダラダラと時間は食いつぶされていった。
無論、それらが一切無駄だったかと問われるとそんなことはなかった。何かに打ち込めているときは楽しいし、新しいことができて交流の輪が広がるのはもっと楽しいし嬉しくもあった。
しかし、仕事が忙しくなるにつれて段々と好きなことに打ち込む時間自体が減っていったのと、単純に体力が追い付かなくなっていった。二十代こそ、深夜まで起きて活動しても平気だったのに三十代に踏み込んだ辺りから泥沼にでも足を突っ込んだかのように体力の消費が早くなった。
家に帰って何かやろうとしても途端に力尽きて、気づいたら出勤時間になっていることなんてザラ。休日も寝つきが悪かったり、布団から出られなかったりして結局何もできないまま……。
自分の部屋で埃を被ってしまっている機材の諸々が悲しんでいるように見えたことなんて幾度もあったが、手入れの一つもしてやれないまま部屋の壁や床と同化していった。
やがて、自分の生活基盤が仕事のみになっていき、そのうち自分が何のために生きているのかなんて考え始めてしまった。
そんなこと考えたって仕方ないことは分かっているが、一度考え始めるとドツボにはまるものだ。考えれば考えるほど、自分が呼吸をするために生きているのではないかという結論へたどり着きそうになる。
それが嫌だったから、一度思い直して仕事を生きがいにしてみるのはどうかと考えた。しかし、自分にとって仕事はどこまでいっても金を稼ぐ手段でしかなく、今更転職しようにも地に足のついた仕事を手放す勇気が俺にはなかった。
……結局のところ、俺は言い訳ばかりを並べ立てて、できない理由を盾にして現状を変えないよう逃げ回っているのだ。そんな自分を自覚して、もっと自分が嫌いになっていく。
「……明日も仕事、か。何か、もう馬鹿馬鹿しいな」
今しがた空になったビールの缶がまた一つ、テーブルの上に増えた。食卓のおよそ半分はビールの缶とコンビニ弁当の残骸の詰まった袋で埋まったが、こんなのはまだ序の口だ。
読みかけの雑誌、捨て損ねたゴミ袋の山、身じろぎするだけで舞うハウスダスト……。部屋の明かりもろくにつけていないから、どこに何があるのかも分からない。
正直、部屋は帰って寝るためだけの場所だ。手元を見るだけならスマホの画面をつければ明かりになるし、ニュースやSNSの情報が見られるから一石二鳥……などということも、もうなくなるのだろう。
ある意味、この部屋は自分自身を現しているように思える。息を吸って吐くだけの社会のお荷物、いや粗大ゴミと評した方が的確かもしれん。
「……もういいか。何もかも、どうでもいい」
今しがた、携帯のバイブと共に着信のメッセージが現れた。五年くらい前までは着信が来るたびに恐怖を感じたものだが、今となっては画面のオブジェクトの一つと化している。
昼夜問わずひっきりなしに鳴るものだから、いつしか抱く感情そのものがアンインストールされたのかもしれない。それで空いた容量の代わりにインストールされたのが何ら映えることのない人生経験というのは割に合わなさすぎる。
「……ゴミ、捨てに行くか」
明日はちょうど、燃えるごみの日だったはずだ。これを機に、俺は今までの自分をゴミと一緒に捨てようと心に決めた。
朝から晩まで、酷いときは退勤してるのにサビ残させられる上に、休日を返上して仕事をしても手当は出ないし気づけば有給は勝手に消化させられてなくなってるし……。そんな会社にずっと居たところで、自分の精神がすり減るのをただ待つだけになってしまう。
具体的にこれからどうするとかは決めていないが、幸い、今まで使ってこなかった分だけ貯金はたんまりあるので一年くらい休暇をもらって自分のキャリアを見直そうと思う。
そうと決まれば行動は早く、かかってきた上司の電話に折り返しのコールをかけた。
『榊原! コール三回以内に電話を取れっていつも言ってるだろうが!』
言い忘れていたが、俺は榊原恭介。そして、この電話の向こうにいるのが丸々肥え太った声だけ大きい豚さん上司の富田だ。
「すんません、部長。いつもいつも電話が鳴ってるもんですから、何コール目なのか分からなかったんですよ」
『だったらさっさと受話器を取れ!』
「スマホに受話器なんてないですがね」
『減らず口を! ともかく、今すぐ会社に戻れ! 納期が迫ってる仕事が……』
「すんませんが、俺会社辞めるんで」
『何だと!? そんな勝手が許されると……』
「悪いですけど、部長がパワハラをしてる証拠いっぱいあるんすよ。これを労基に持っていったら、俺を解雇する話どころか部長が立場なくすんじゃないですか?」
『脅してるのか!? ここまで誰が世話してやったと……』
「あんたのサンドバッグになるのはもう御免だ。じゃあな」
電話の向こうで何か怒鳴り声が聞こえてたが、もう知ったことではないと通話を切った。一応、直属の上司には話したが駄目だったという言い訳もできたので、早速上役の携帯にメールを一報出しておいた。
すると、返事が割と早く返ってきて退職届だけ送ってほしいとのことだった。上役の人は部長と違って話が分かる人なので、こういう時のために仲良くしておいて正解だった。
会社を辞めることが正式に決まり、すこぶる心が軽くなったところで背中の見えない羽を伸ばすように大きく背伸びをした。背負うべき責任から解き放たれたときの快感とは実に素晴らしいものだと喜びをかみしめつつ、部屋の片づけを開始した。
久しぶりにつける部屋の明かりで目が少し眩んだが、それもすぐに慣れたというのに……。
「まじか、我ながらこりゃ酷い」
部屋のそこら中にゴミというゴミが散乱しており、足の踏み場もないというか足の踏み場がゴミというか……。こんな部屋に住んでいたのかと思うと今までの自分の正気を疑ったが、よくよく考えれば昔から片づけは苦手だったようにも思える。
「最低限、必要なものだけ残して他は処分するか」
いらなくなったメモ、古いレシートの山、読まなくなった雑誌などなど……。ともかくテキパキと片づけを進め、気づいたら夜中の二時。
しかし、何とか目につくゴミだけは処分できたので、個人的にはひとまず満足といったところか。
「よし、じゃあ運び出すか」
あまりにも量が多いので何度かに分けて運び出すことにして、深夜の住宅街へと身を投じた。
季節はもうすぐ七月、春や梅雨との境も最近は分からなくなりずっと蒸し暑さが続いている。夜ならもう少し涼しくならないものかと愚痴りたくなるが、天然のサウナにでも入ったような気分にさせられる。
そのくせ、両手に持ったゴミ袋の重量感はしっかりと感じられるし、何なら持ち手の縛り方ががきつすぎたせいで指や手のひらに食い込んで痛いまである。これをあと何往復もしないといけないと考えると何かしらの拷問にすら思えてくるが、そうも言ってられないのもまた事実だ。
まあ、こんな時間にオフィスへ行って上司の怒鳴り声をBGMに働くよりはずっと静か心地も良いので楽ではないが気楽ではある。
「さっさと終わらせて、もう一杯冷えたビールでも飲むか」
住宅街共同のゴミ捨て場までは少し距離があり、四、五分ほど歩かねばならない。夏の虫の声を聴き、滴り落ちる汗と格闘しながらやっとの思いでゴミ捨て場へとたどり着いた。
「さっさと捨ててっと……」
俺がゴミ袋を無造作に投げたその時だ。
「……ぅ」
「は?」
ゴミ袋の山から虫の声とも違う小さな鳴き声が聞こえた気がした。最初は気のせいだと思って捨て置こうとしたが、気になってスマホのライトを機能を使ってゴミ袋の山を照らし出す。
「おいおい、嘘だろ。こんなところで何してるんだ?」
驚くべきことに、そこにはゴミ袋を布団代わりに女性が横たわっていた。そんなに伸ばす必要があったのかと突っ込みたくなる髪の毛は腰辺りまで伸びていて、服装も布を継ぎ接ぎに合わせたような格好だ。
それこそ、服の用途というよりかは局部を隠すだけのためにある民族衣装にも思える。ぱっと見だけど、目鼻や顔だちも日本人っぽくないし、明らかにどこか知らない国の異邦人という印象が強い。
ぶっちゃけ、とてつもなく関わりたくない。しかし、あと十はあるゴミ袋を捨てに来る身としてはこんなところで寝られていても邪魔なだけだ。
周囲に人はいないし、助けを求めようにも深夜二時なんて時間にご近所さんを訪ねるわけにもいかない。
「仕方ない。警察に……」
「……っ!」
携帯で警察に連絡しようとしたときだ、横たわっていたはずの女が突如として目を覚まし俺の首にナイフを突き立ててきた。たまらず携帯を手放してしまい、動こうとしたが首に鋭い刃が当たってチクリと痛む。
恐らく、動くなということなのだろう。仕方なく、俺は自分が丸腰であることを示すために両手を頭の後ろに組んで直立不動の体制を取った。
「……そのナイフ、どっから出した? どう見ても手ぶらだったろ?」
「##$%’!!”」
「な、何だって? 何言ってるか分からんが、ともかく落ち着け。この通り、敵対する気はない」
「……##$””&&&&」
彼女が小声で何かを唱えると、急に彼女の体が緑色の光に包まれた。その幻想的な光は俺の方へと流れ込んできて、やがて時間と共に霧散していった。
「何が、どうなってるんだ? 今のは……」
「これで、私の言ってることが分かる?」
「日本語? お前、日本語が喋れたのか?」
「喋れないわ。これは魔法。特定の対象と言葉を通じ合わせるものよ。あまり魔力がないから、もうあなたくらいにしか使えないけど」
「魔法……」
何を言っているんだ、この女は? どっかの宗教の勧誘か何かだろうか?
……などと言いたくなったが、一旦そこはグッと堪える。さっき、ナイフを何もないところから出したのが手品ではなく魔法なのだとしたら、一応説明としては通ってしまうからな。
「それで、どっかの国の魔法使いさん。俺に何の用だ?」
「私にこの国情報を吐きなさい」
「情報?」
「私は#$””%%%……こちらの国の発音だと、たぶんルヴュエンターニャっていうところから来たの」
「それは、どちらの国の名前で?」
「この世界にはないわ。私は、異世界からやってきたから」
彼女は鋭いナイフとそれに劣らない鋭利な視線で俺のことを捕えながら、またしても頓珍漢なことを言ってきた。こんな状況じゃなければ笑い飛ばしていただろう戯言だが、そんなことすれば飛ぶのは恐らく自分の首の方だろう。
それに、ルヴュ……何とかって国や地域を俺は知らない。異世界産かどうかはともかく、相当な地理マニアでもすぐ国や地域名が出てくるかどうか怪しい。
ただ、いずれにしろこいつは日本人ではない。でなければ、この国の常識を教えろなんて言ってこないだろう。
だが、今のところ目の前の女の好感度は0どころかマイナスだ。そんなイケてない女のために俺が何かしら施してやろうっていう気にはなれない。
「悪いが、俺では力になれそうにないな」
「っ!」
彼女は目を更に細めて首に刃を突き立てる。今の、たぶん軽く切ってる気がするがそれでも俺はこいつに何かしてやろうって気にはならなかった。
「知ってるか、異邦人。ここ日本って国では、相手に物を頼むときは刃を首に突くんじゃなく、礼儀を尽くすものなんだ」
「それが何? あなた、今の状況が分かってないの?」
「分かってないのはお前の方だ。俺が死んだら、この国のことを教えてくれるやつはいなくなる。さっきの魔法、だったか? もう俺にしか使えなかったんだろ? 命まで捨てるつもりはなかったが、お前がそれでいいならそれも仕方ない。仕事も辞めてきたし、そろそろ潮時かもしれんと思って諦めるよ」
「……」
八割くらいはハッタリだが、二割くらいは本気だ。ここで命を落とそうと悲しむ人間はもういないし、今の段階で思い残すことってぶっちゃけない。
彼女は暫く黙っていたが、小さく溜息を吐くと手に持っていたナイフを手の中から消して見せた。
「少なくとも、ナイフをあなたに向けることが礼儀ではないことくらいは分かるわ。でも、どうすればいいのかしら? 私は、本当にこの国のことを知らない。だから、どうすれば良いのか分からないのよ」
さっきまでやけに好戦的だったかと思えば、今度は牙をもがれた獣のように塩らしくなってしまった。闇に溶けるように浮かび上がる彼女の瞳には、寂しさのような色が混じっている気がした。
たぶんだが、ここまでたどり着くにも相当苦労したのだろう。何があったかは知らないが、自ら進んで故郷を離れたって感じでもない。
今の俺とは違い、彼女は生きることに必死なのだ。だから俺を脅してでも、生き延びようと必死であがいている……勝手な想像だけどな。
「そうだな……。まあ、ひとまずは助けてやろう」
「本当に?」
「ああ。だが、俺に対する礼は自分で考えろ。礼を尽くすっていうのは、真心を以て人に最大限の感謝を表すものだ。人から教えてもらったものじゃなくて、自分で学んだことを生かせ」
「……分かったわ」
「なら、さっさと家に……ん?」
振り返ると、そこには再びゴミ袋の上で眠っているお姫様の姿があった。どうやら、自分が助かると分かって気が抜けたらしい。
すやすやと寝息を立てているが……。これ、俺が持って帰らないといけないんだよな?
「ゴミを捨てに来たのに、また者が増えるのか……。助けるって言ったからには、助けるけど」
仕方なく彼女を背負うと、自分の家に向かって歩き始めた。人を背負っているとは思えないくらい軽く、か細い寝息は消えかけの蝋燭の炎のような危うさすら感じる。
「ひとまず、かゆでも作るか」
こうして俺は、自分を捨てにきた帰りに一人の女性をお持ち帰りすることになったのだった。