第5章「伝える者たちへ」
午前6時15分。
東京湾を渡ってくる冷気が、築地市場の跡地に差し込んでいた。
新聞配達の軽バンが、まだ人通りのない街を滑っていく。
その荷台には、久保田の書いた最終見出しが、全国へと散っていた。
〈尖閣“放棄”の裏に日米交渉文書――国家の交戦回避と報道の責任〉
印字の黒が朝焼けに濃く浮かんでいた。
日報新聞・編集局。
社会部デスクの机の上には、抗議の電話メモが山積していた。
「あの記事は反日だ」
「国防機密を漏洩させたのか?」
「政府の立場を理解しているのか?」
「あの記者はどこにいる」
だがその一方で、社内イントラにはこんな声も流れていた。
「読者から激励の電話あり。『ようやく本当のことが出た』と」
「政治部・国際面の記者が、紙面連携に感謝」
「久保田を一面に戻せという署名、50人超」
そして最後に――
「新聞協会賞、推薦検討」
SUBTEXT。夜。
久保田はマスターの前に、静かに座っていた。
カウンターに置かれたロックグラスの中で、氷が鳴った。
「お前の書いたもの、CIAも中国も、“両方”怒ってたよ」
「それは、正解だったということですか?」
「……分からない。ただな、クボタ。
“正しい”ってのは、いつも“誰かにとって都合が悪い”もんだ」
久保田は小さく笑った。
「じゃあ、俺は、都合の悪い記者であり続けたいですね」
公安・佐藤圭吾は、霞が関の地下食堂で、テレビ中継を見ていた。
国会中継。防衛大臣が、答弁している。
「尖閣を交戦回避地帯とする協議は、存在していないと承知しています。
また、いかなる交渉文書も、公式には……」
その“行間”に、国会が騒然とした。
佐藤は静かに、久保田からもらった封筒をスーツの内ポケットに押し込んだ。
その中には、久保田の言葉で記された“録音起こし”が全文入っていた。
「これは、記録だ。誰にも渡す義務はないが、
いつか誰かが再び問い直すだろう。だから残す。それが記者だ」
夜、与那国島。
久保田は防波堤に立っていた。
その向こうは、もう海だった。
彼の右手には、誰も読まない私稿が綴られていた。
タイトルはなかった。見出しもない。リードもない。
ただ一行だけ、ノートに走り書きされていた。
「伝えた。たとえ、この国が黙っていても」
東京、翌朝。
編集局のホワイトボードに、一枚の紙が貼られていた。
【異動】
整理部・久保田真一 記者 → 社会部・特報班 復帰(即日)
その下に、誰かが走り書きしていた。
「ようこそ、再び修羅場へ」
新聞というメディアがまだ存在する限り、
その活字の隙間には、
誰かの声なき声と、名もなき記者の手が、確かに刻まれている。
[完]
『影の潮流:記者たちの島嶼戦線』