第3章「報道という“介入”」
午前5時。
東日本新聞・日報本社の輪転機が、低くうねるような唸りを上げながら回っていた。
その最前列――束ねられた一面紙の見出しには、こう刷られていた。
〈尖閣・石垣、すでに戦場か――交戦回避の“指示”文書浮上〉
〈海自、静観:日米協定の限界〉
社会部の久保田真一は、地下の輪転室をガラス越しに見下ろしていた。
インクの匂い。刷られた紙が跳ねる音。
この場所だけが、報道が物質になる瞬間だった。
「君の文字が、戦争を始めるかもしれない」
背後から静かに声がかかる。編集局長だった。
「そうなったら、報道の責任ですか?」
「そうなったら、国家が君を“使った”ことになる」
久保田は言った。
「なら、僕はそれに抗います。自分の言葉で」
午前9時。
記者クラブでの官房長官定例会見は、報道陣で満員だった。
「今朝の各紙一面で報じられた“交戦回避指示”について、政府見解を――」
官房長官は、慎重に言葉を選びながら答えた。
「そのような事実は確認されておりません。仮にあったとしても、国際的協調の文脈における“安全配慮”が前提であります」
それは否定ではなかった。
含意されたのは、「存在はしていたが、語らない」という政府の態度だった。
午後2時。
日報新聞社会部・特報班室内。
久保田の机には、社内メールがいくつも届いていた。
「よく出した」
「気をつけろ、君は今“危険な場所”にいる」
「政治部の連中が色めき立ってるぞ」
「防衛省が“説明要求”してきてる」
彼はそれらをすべて無視した。
ICレコーダーのログだけを再生していた。
佐藤公安の言葉。キム・ジフンの声。冴子の沈黙。
夜、SUBTEXT。
カウンターに久保田が座ると、マスターが無言でロックグラスを出した。
「政治家の男、来てる。裏の個室だ。……CIAもな」
「アレックスか」
「いや、もう一人。“カウンターインテリジェンス”の本職だ。つまり、あんたの記録を消す人間だ」
久保田は無言で立ち上がり、個室の扉を開けた。
中には、アレックス・ダンと、もう一人、初老の男がいた。
スーツ姿、髪は銀色。眼光だけが異様に鋭かった。
「Mr.Kubota。君の報道は、すでに“交渉障害”と見なされている」
「その交渉とやらが、尖閣を“取引材料”にしているなら、
俺はもっと書く。何度でも。何面でも」
アレックスが口を挟んだ。
「君の紙面が今朝出た瞬間、我々は台湾方面の戦力展開を“保留”した。
日本の報道が“米軍が無力だ”と報じた状態で行動すれば、それは挑発になる」
「それを……俺に黙れと?」
「いや。君はもう“使えない”。それだけだ」
翌朝、日報新聞社の社内ポータルに一文が流れた。
【人事異動】
社会部・久保田真一 記者 → 整理部・紙面構成課へ異動(即日発令)
同僚たちは沈黙した。
久保田は、それをただ画面で読み、何も言わずにモニターを閉じた。
その日の深夜。
公安・佐藤圭吾が、警察庁裏の喫煙所で久保田に会った。
「お前……飛ばされたな」
「当然です。CIAに睨まれれば、組織は守りに入る」
佐藤は久保田に小さな封筒を手渡した。
中には、石垣の民間警備映像。
夜間、漁港をうろつく“軍靴の男たち”――。
「これを使う気か?」
「使えないかもしれない。けど、証拠は蓄積する。
俺が消えても、誰かが拾えるように」
佐藤は静かに笑った。
「……なあ久保田、お前さ、まだ“報道”を信じてるのか?」
「それしか、俺にはないんです」
その夜、久保田は久々に冴子と会った。
彼女は言った。
「私、今度アメリカ国防大学に行く。2年契約」
「国益の名の下に、また何かを見捨てるのか?」
「逆よ。私は“国益”の正体を、言葉にする訓練を受けに行く。
あなたは、もう言葉にしたじゃない。なら、次に書いて」
「何を?」
「“国益”とは何か――あなたの活字で、あたしに教えてよ」
久保田はひとり、編集部のフロアに戻った。
整理部の片隅の机に座り、原稿用のワードファイルを開いた。
タイトルを打つ。
〈記者は国家の歯車か、それとも記録者か――“報道の意味”を改めて問う〉
それは、見出しではなかった。
コラムでもなかった。
魂の置き場所だった。