第2章「国家機関、報道機関」
朝の編集会議室に、湯気はなかった。
冬の東京、暖房の効いた空間の中で、空気だけが凍っていた。
社会部デスクが書類を叩きつけるように机に置いた。
「久保田、お前の原稿、一面でいく」
周囲の空気が変わった。
緊張でもなく、賞賛でもなく――警戒。それが久保田に向けられた。
「だがな。官邸ルートが黙ってないぞ。これ、お前が書いたって話にしとけよ。社としては“記者個人の分析”ってことで、逃げる。お前の名で勝負しろ」
「了解しました」
ペンでサインを書くように、久保田はうなずいた。
その瞬間から、自分が“楯”になったのだと実感した。
午前11時、記者クラブ。
官房長官の定例会見の場に、ざわめきが広がっていた。
「石垣における“民間人らしき集団の上陸”についてですが……」
質問が出るたびに、官房副報道官の目が険しくなった。
「その件については確認されておりません。誤報に基づく不確実な情報に対し、コメントは控えます」
沈黙が走った。
メモ帳の上に記されたのは、否定、否定、否定。
久保田の一面は、「国民を惑わせた」というレッテルを貼られつつあった。
午後、SUBTEXT。
酒場の奥の席には、CIA東アジア課のアレックスがいた。
彼のバーボンは手つかずだった。
「久保田さん、あの記事はあなた自身の判断ですか?」
「情報の出どころは明かせません」
「もちろんです。だが……我々は、その記事によって“軍の行動計画”を一部凍結しました」
「それが、真実の重さです」
アレックスは笑った。だが、その目には笑みがなかった。
「我々にとって真実は、操作するものです。あなたにとっては、信じるものかもしれないが」
「国益ってのは、そんなに単純ですか?」
「単純じゃないからこそ、操作するんです」
久保田は一瞬、背筋に冷気を感じた。
CIAが報道を“兵器”として認識していることを、改めて理解した。
その夜、防衛省・情報本部の中原冴子と、神保町の喫茶店で落ち合った。
彼女は書類のファイルを差し出す。
「非公開の日米実務協議文書。ほんの一部だけど、読んで。
そこには“尖閣を衝突回避ゾーンにする”という文言がある。
つまり、米軍は本気で防衛に来ない可能性がある」
「共同防衛義務は?」
「文面上は“包含される”って言ってる。でも現実には、“灰色地帯”が存在するの」
「それを国益って呼ぶのか」
「呼ぶのよ。冷酷に。でも私は、あなたがそれを書いてくれてよかったと思ってる」
久保田は、冴子の眼を見つめた。
「ありがとう。でも……次は、もう一歩踏み込む」
深夜、新橋の編集局。
社会部フロアの隅で、記者たちの小さな会議が行われていた。
「公安の佐藤圭吾が、リーク者じゃないかって噂がある」
「違う。あいつは、口が堅い。だが、動いてる。間違いなく国家レベルで何かある」
久保田は黙って聞いていた。
横目で見えるのは、編集デスクの冷めた目。
「記事は正しかったが、立場は不安定」――それが今の彼の状況だった。
翌日未明。
久保田は、都内の某所にて公安・佐藤圭吾と再び接触した。
「お前、記事出したな」
「“国益のため”に黙ってろとは言わないでください」
佐藤は手袋を外した。
その手には、小さなマイクロSDカードがあった。
「これには、尖閣での“作戦活動記録”が含まれてる。
ただし、それが事実かどうかは、君が確かめるんだ」
「これを渡す理由は?」
「記者は、記録する者だろ。だがその記録は、必ずしも発表されるとは限らない。
……それでも記録するか? 久保田」
「もちろんです」
佐藤は、静かに頷いた。
「なら、お前の言う“報道”を見せてみろ」
夜が明ける頃、久保田は編集局の端末にマイクロSDを接続した。
そこには、石垣沖に上陸する集団の映像が、夜間赤外線で記録されていた。
軍服ではなかったが、武器を携帯しているのが明確だった。
同時に、それを見守る海上自衛隊の艦艇――動かず、監視だけ。
「交戦許可、出ず」と画面下に表示されていた。
久保田は、立ち上がった。
この瞬間、彼は再び原稿に取り掛かる決意を固めた。
タイトルを打つ。
〈尖閣・石垣、すでに戦場か――交戦回避の“指示”文書浮上〉