第1章「沈黙の南西諸島」
午後四時を回った編集局内に、突如としてポーンという電子音が響いた。
「全バラだ! 全バラ、組み直し!」
社会部デスクの怒号が、一気にフロアを震わせる。フラッシュ速報が走った。
〈石垣島沖・領海接近:中国船籍の不明船複数・第十一管区が警告発報〉――。
運動面の紙面整理をしていた久保田真一は、瞬時に頭を切り替えた。
これが“戦場”に戻る合図だ。公安の担当デスクが無言で手招きしてくる。
「夜討ち、行ってこい。公安筋。あと、できれば与那国方面の海保にも当たれ」
背中で相槌を打ちながら、久保田は自席から私物のモールスキン手帳と
SONYのICレコーダーをつかみ取った。ネクタイを外し、上着だけ羽織る。
【本文続く→】
久保田の足はそのまま、新橋にある《SUBTEXT》と呼ばれる、記者と情報屋、
時に公安や外交官までが出入りする場末のバーへと向かった。
そこは、「裏」を語る人間たちの“待合室”だった。
夜の気配が路地に滲み出していた。
SUBTEXTのマスターは、新聞を畳みながら目だけで久保田を迎えた。
「また“南西”だね」
「ええ。石垣の海保が動いたようです。テレグラフは?」
「奥の席。もう来てる。米の人だよ」
久保田はカウンターをすり抜け、奥の黒革のボックス席に目を向けた。
そこには、CIA東アジア課所属のアレックス・ダンが、
ライムを落としたバーボンを前に静かに座っていた。
「久保田さん。あなたの政府は、今夜も“静か”ですね」
「黙っているということは、事実だということですか?」
「沈黙は時に、国益です。だが、あなたはそれを嫌う」
アレックスはスーツの内ポケットから、1枚の写真を差し出した。
カラーではなかった。低解像の衛星画像――石垣港近辺の岸壁。
夜間。貨物バースに、人影がある。1隻の漁船のようなシルエット。
だが、その甲板には、肩に構えられた銃器らしき物体が確認できた。
「これは……海保の画像じゃないですね。NSAの衛星?」
「……想像にお任せします。ただ、日本は、これを“なかったこと”にしようとするでしょう」
久保田は、黙って画像を受け取ると、バッグの中にしまった。
それを見ていたマスターが、そっとバーボンを彼の前に置く。
「うちの氷は、溶けにくい。今夜は、長くなるよ」
警察庁庁舎前。午後十時五十二分。
久保田は、県警担当時代に鍛えられた“張り込み姿勢”を再び取り戻していた。
公安調査庁の特命係長・佐藤圭吾は、定時の退庁をせず、
裏口から私服姿で姿を現す。
「まだ、やってるのか」
「尖閣ですよ。石垣港に不審船。警告発報済み。貴方の知る何かがあるでしょう?」
佐藤は足を止める。口元に煙草を咥えたまま、静かに火をつける。
「久保田、お前、紙面のトップに載せたいんだろ?」
「それが仕事です。公安が情報を握っていて、国民が知らない状況なら尚更です」
「お前が記事を出したあと、漁民が海に出なくなる。与那国の港は封鎖される。
それでも、お前は“伝える”のが仕事か?」
久保田は、かすかに唇を噛んだ。
「それを“国益”と言うなら、俺はそれと戦いますよ」
佐藤の目が一瞬、揺れた。
「……キム・ジフンに会え。お前が信じる情報源があるなら、彼だ」
深夜零時、新大久保・地下室の貸し会議室。
韓国国家情報院、通称NISの東アジア分析室室長・キム・ジフンは、
一枚のスライドを壁に投影していた。
「この2週間で、尖閣をめぐる法的・実効支配の動きが顕在化している。
中国側は、正式な上陸命令は出していない。しかし、“個別行動”は別だ」
「漁民を偽装した部隊?」
「その通り。そして、日米間では“尖閣は領土だが、戦場にしない”という
非文書協定が交わされているという話もある」
「つまり、放棄?」
「戦わずして失うこと。これを日本政府は“国益”と言う」
久保田は、メモを取る手を止めた。
「ジフンさん。もしこの情報が本当なら、日本の領土が、情報の中で既に消えていることになる」
「だから君に託す。私はここで止まるが、君は活字で先に進める」
その夜、久保田は編集部に戻り、社会部デスクに電話した。
「記事にします。“尖閣に上陸の兆候”で一面、張らせてください」
相手はしばし沈黙ののち、こう答えた。
「お前が責任を持つなら、いい。紙面のレイアウトを全バラにするぞ。
これは、“報道”の戦争だ」