8.ニール
翌日から、アシュレイに遅れられての帰宅が始まった。
仕事の終わりに、やや迷う気持ちで彼の教授室に向かった。行ったら、彼がそんな約束など忘れているのでは、とも考えた。もしくは、後悔しているとか。
(だったら、そのまま普通に帰るだけだわ)
半ば義務感で扉をノックした。
秘書の年配の女性がドアを開け、彼女を中へ招じた。
ジョシュの研究室は見慣れていたが、あちらとは雰囲気が違った。立派な書斎と応接間が続いている。暖炉もあり、初めて入った時、ちょうどその火の前でアシュレイがタバコをくわえていた。
彼女へ振り返り、軽く頷いた。
その仕草にノアはほっとした。場違いな場所に勝手にやって来た気まずさが消え、思わず彼へ微笑み返した。
彼女が来るのと入れ替わりに、秘書の女性は帰宅した。
タバコをゆっくり吸い終え、彼が暖炉の火の始末をしてからノアを伴い車寄せへ向かう。
そんな日々が、もう半月も続いている。
出迎えてくれる秘書の女性が、先に帰宅している場合もある。火の前で彼が居眠りしている時もあった。机に向かっている場合もあったり、本を読んでいる時もある。
最初、迷惑では? と彼女は彼の表情を読んでいたが、いつしかそれも止めた。
(都合が悪くなったのなら、言ってくれるでしょ)
と、少しは彼にノアも慣れた。
すぐ彼女と目を逸らすのは、気まずさや照れ臭さからだと気づいたし、二人のこの日課も単純な善意から来るものと理解したからだ。女性が困っているのを知りながら手をこまねいている状態が、紳士である彼の良心と相容れないのだろう。
(よくわからないけど、それでこの人が納得がいくみたいだから)
ある時は、彼は酒を飲んでいた。グラスに指二本ほどの琥珀色の液体を口に運んでいる。
彼女が現れたので、すぐにグラスをテーブルに戻した。
「いいの。ゆっくりなさって」
「女性に勧める酒じゃないが、君もどう?」
「ええ、いただきます」
相手がいた方がいいだろうと、つき合った。
二人で過ごす時間も、互いに突っ込んだことは尋ねなかった。黙っていることも多いし、天気の話や季節の話に、ちょっと互いのものが混じる程度だ。
校内を歩いている時、呼び止められた。振り返れば、以前学生主催の舞踏会で会ったニールだった。
そこですぐ、彼からドレスのモデルを誘われていたことを思い出す。
やはり、その催促で、
「どうですか? そろそろお返事がほしいのですよ」
と、急かす。
受けてもいいのだが、今は急いでいる。話す時間が惜しい。早く店に入って仕込みをしないといけない。
「ごめんなさい。今ちょっと時間がないの。また今度でいいかしら?」
「しょうがないな、いいですよ」
渋りながらも引き下がってくれた。彼女は詫びてニールと別れ、店へ急いだ。
それから二日後だ。
昼の混雑が過ぎ、ジョシュに食事を取らせれば、日課になった露店販売だ。売り場は日々変えている。一つ残して売り切り、残ったそれをアシュレイに差し入れする。せめてものお礼だし、彼は昼を食べずにいることが多い。好みなのか喜んでくれていると、彼女は嬉しく思っていた。
この分は伝えて、マスターから賃金より差し引いてもらっている。
(細かなようだけれど、勝手に儲けを抜かれていると後で知られると、不信感を持たれちゃうもの)
ただでさえ、ジョシュへ食事を提供してもらっているのだ。得難い職場だ。
空のバスケットを提げ、彼女が店に戻った。コックのジムが帰り、彼女が店を受け持つ。マスターは店番と称して、隅の安楽椅子で居眠りしている。
彼女が来る以前は、老齢にさしかかったマスターも、ぎりぎりの状態で働いていたというから、随分と楽が出来ているようである。
そこへドアベルが鳴り、お客が入って来た。ニールだ。
「返事をもらいに来ましたよ」
と彼女へ微笑んで見せる。若く魅力的な男性だ。彼へ注文のワインを運びながら、気持ちはずいぶん傾いていた。
「本当にドレスの採寸だけでいいの?」
「ええ。あとはお針子たちの仕事です。あなたはドレスの出来上がりを待って、それを着て下さるだけでいいのです。ね、簡単でしょう?」
「そうね」
熱心に声をかけてくれるのだ。ほだされそうになった。
「じゃあ、やってみようかしら」
「よかった。口説いた甲斐があった」
ニールが嬉しげにグラスのワインを飲んだ。彼の叔母のアトリエへの道筋を聞いている時、またドアベルが鳴る。目をやれば、常連のジークだ。
「ちょっと待っていて」
ジークへ応対しているわずかな間、ニールは腰上げた。テーブルに金を置き、すぐにも出て行きそうな様子に、彼女は声をかけた。
「急ぐの? 叔母様のアトリエの住所といつ伺えばいいのかだけ教えて」
「あ、ああそれは…」
彼女の問いに、ニールは気まずそうに返す。慌てた素ぶりで挙動も不審になる。彼女には意味がわからない。
すぐ側で、舌打ちの音がした。ジークだ。不快さを隠さない顔をニールへ向けた。
「貴様はまだそんな詐欺まがいなことをやっているのか。いい加減にしろと、前に警告したはずだ」
「いえ、そんなつもりは…」
ジークの声にニールは顔を伏せ、急いで店を出て行った。彼女には目もくれなかった。
(何なの? 詐欺まがいって、一体…)
きつねにつままれたようだ。いつも通りグラスにビールを注いでジークに運んだ。ニールの去ったドアへ目をやりながら、
「どういうこと?」
と尋ねた。
ジークはビールを一口飲んだ後で、苦い顔をしながら返す。
「あいつが君に何を吹き込んだか知らんが、全部忘れてくれ」
「え」
「品のいい素ぶりで女受けのいい話を持ちかける。しかし、そんなものはでたらめだ。君が行った先には、若い女と遊びたがっている金満家が待っている仕組みだ。それであいつは連中から駄賃をもらっているんだ」
以前、ジークの秘書の女性がその被害に遭ったという。
「秘書から相談を受けたから、あいつを呼び出してこっぴどく叱りつけたのに。また繰り返しやがって」
と腹立たしげにぼやく。
ノアはあ然とした。出来事がちょっと信じられない。しかし、確かに潔白なら、ジークの叱責を受けてすぐこそこそと姿を消すことはない。何の抗弁もなく、みっともないほど慌てて帰って行った。
「君が被害に遭う前でよかった」
「ありがとう。わたしもうかつだったわ。話を受けたら金になるかも、なんて浅ましく考えちゃったから」
「相手の女性が何を望んでいるか、見抜くのだけは上手い。その才能をちっとは学問に傾ければいいものを。面も悪くないから、王宮の小姓でも務めときゃいいんだ。人気が出るだろうよ」
ノアは驚きがまだ尾を引いている。椅子にもたれるようにして尋ねた。
「ねえ、ニールって、裕福なおぼっちゃまなのでしょう? どうして変な連中からお駄賃をもらうようなことをしているの? 親御さんからもらえないの?」
「親は散々あいつの悪事の尻拭いをさせられた後なんだ。教育以外には金は出さない。それでも悪い遊びは止められないから金が要る。だから、あんな卑怯な詐欺を繰り返しているんだ」
ノアも横道にそれる若者は見てきた。けれど、彼らには家庭の貧しさなどによる原因があった。
裕福で身分高く生まれ何不自由なく見えるニールに、一体どんな理由があったのか。彼女には想像がつかない。
「アシュレイが担当教授だが、学力がどうしようもないと匙を投げていた。本人にやる気もない。退学も近いな」
ふと飛び出したアシュレイの名に、彼女はちょっと心が跳ねるのがわかる。
「そう」
早々空いたジークのグラスのお代わりを注ぐためにカウンターに戻った。
もうしばらくしたら、アシュレイと二人だけの時間が持てるのだと、嬉しくなる。
(何にもないのだけれど)
ただそれだけの時間が、彼女はなぜか待ち遠しく思った。
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