7.舞踏会の終わりに
雨が降った後か、路面がぬれていた。
靴音をさせ、ノアは歩いた。帰りはいつも大学を出て通りまで行き、そこから行き合えば乗合馬車に乗る。この日はいつもの帰宅時間からずっと遅れた。都合のいい馬車は来ないかもしれない。
(一時間も歩くのか…)
仕事の後でダンスにつき合い、徒歩での帰宅だ。歩く前から足が重くなるのを感じた。
背後から馬車が彼女を追い越していく。何台か過ぎた後で、ある一台が脇に停まった。彼女はそれを避けて歩く。
その時、馬車の扉が開いた。誰かが降りるのが見えた。街灯に照らされ、背の高い影が出来た。
「ノア、君か?」
はっきりと自分へ掛けられた声に、彼女はどきりとした。答えるより前に、声の主が彼女の側に足早にやって来る。
そこでようやくその人がアシュレイだと気づいた。ほっとする。一人の夜道で声をかけられれば、気丈な彼女もやはり怖い。
「一人です。舞踏会に誘われて、今帰りなんです」
「送ろう。来なさい」
促されて、馬車に乗る。彼女を乗せた後で乗り込んだ彼が扉を閉めた。指の節で壁を叩く。それが合図で、馬車が走り出す。
「ありがとうございます。助かりました。いつもと時間が違って、歩くしかないと思っていたんです」
返事がない。
暗い密室の沈黙に、ノアはじんわりと緊張する。
(居丈高ではないけれど、静かに威圧的なのよね、この人って)
けれど、自分を拾ってくれるなど非常に親切だ。
膝に置いた指を組んで窓の外を眺めた。
「ジョシュは何をしているの?」
「さあ。研究室らしいですけど」
「妹を夜一人で歩かせて?」
きつい声にノアはわずかに身をすくませた。たたでさえ硬い空気だ。送ってくれる厚意はありがたいが、非常に居心地が悪い。
「何を考えているんだ、あの男は」
「ジョシュは何も考えていないの。たくさん食べることと古い土から固い虫を取り出すことだけ」
「大学は変人揃いだが、彼も極めつきだ」
「まともな人ばかりに見えますけど?」
「レディの前で取り繕うくらいの知恵は働く」
ノアはちょっときょとんとなる。アシュレイの使った「レディ」が誰を指すのか、咄嗟に分からなかった。
(まさか、わたしのこと?)
しかし、それ以外はない。
驚いて彼を見た。視線が合い、いつかのようにまた彼がついっと目を逸らす。
「君に自覚はないかもしれないが、貴族令嬢だ。それなりの尊敬を受け取って然るべきじゃなかいか」
「先生もそれで送って下さるのですか?」
「え」
ノアが何気なくした問いに、アシュレイは絶句した。口元に手をやり、夜目にもわかるほど狼狽している。
(何かいけないことを聞いちゃったのかしら?)
しばらくの沈黙の後で、彼が低い声で返した。
「知った女性が夜分一人で歩くなど、放っておけないじゃないか」
理想的な外見だけでなく、根っから紳士な人なのだろうと、ノアは納得した。
「先生の妹さんはお幸せでしょうね。頼りになるお兄様が守って下さるのですもの」
「妹はいない」
「あら、残念」
「…姉がいるが、もう他家に嫁いだ」
「ご結婚は?」
彼は首を振って返事に代えた。
これ以上の私的なことを尋ねるのはためらわれた。
会話が尽きた。
(まだつかないのかしら?)
半分廃墟になっている邸だが、今夜は恋しい。意思のある大きな岩とでも同席しているような妙な気分だった。
「一人歩きは止めなさい。特に夜分は絶対にいけない」
急にお説教が始まり、彼女は気取られないよう細くため息をついた。普段はこんなに遅くなることはない。ジョシュの研究室に寄って、都合が合えば一緒に帰るようにしていた。出来る限りの安全は図っているつもりだった。
(こっちは、専用の馬車がお迎えに来るような身分ではないもの)
ひっそり腕を抱いた。
「女性が、あまりにも不用心じゃないか」
「しようと思った訳では…。どうしようもない時もあるんです」
「どうしようもないでは済まない」
「でも、ジョシュは研究室に入ったら、なかなか出ようとしないもの。連れ帰るのも大変なんです。いつもご飯で釣って…」
「ジョシュなんかどうでもいい。あんな大男、放っておきなさい」
「じゃあ、どうすれば?」
それでノアは口をつぐんだ。不毛なやり取りだと思った。
さっき、アシュレイは「大学は変人揃い」と言ったが、
(この人だって、そうかも)
と感じ始めている。彼の意に適う答えをこちらが出さないと満足しない。それをノアに強いているのではないか。
(お偉い人にありがちな、独善的な人なのかも)
彼女が彼へそんな印象を持ったのとほぼ同時だった。
「僕が君を送ることにしよう」
「え」
言葉の意味わからなかった。ノアはアシュレイをまじまじと見つめた。
「それはどういう…」
「ジョシュなど関係ない。僕が君を送れば済む話だ」
「先生がわたしを送って下さるのですか? どうして?」
そこで彼は顔を窓へ背けた。重ねた問いに、少し気分を害したようにも見えた。
そこからは会話が途絶え、ほどなく彼女の邸へ着いた。馬車を下りる際、彼が先に下り彼女が下りるのに手を貸した。
「ありがとうございます」
「明日、君の仕事が終わったら送る。僕の部屋に来てくれないか」
本気だったのか、とまた驚いた。
「そこまでしていただかなくても…」
遠慮や恐縮というより、正直なところ面倒だなという気持ちが大きい。
彼女の反応に構わず、彼は身を翻した。
「待っているから」
そう言葉を返し、馬車に乗り込んだ。すぐに走り去って行く。
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