5.本物のノアの真実
気まずさを感じつつも、ノアは包みを取り出し彼へ差し出す。
「ほうれん草がお嫌いでなければ、こちらがお勧め。卵液に浸したパンを焼いたものです」
「卵液?」
「そう。卵味のパンだと思ってもらえれば」
アシュレイは目を細めて、包みを受け取った。端を開き中をのぞいている。焼いたパンの間には刻んだほうれん草とベーコンのソテーが挟まれている。
ひと齧りして、彼が目を見開いた。続けて食べ進めている。
(お口に合ったようね)
と、ノアはほっとする。食堂経営時代に人気だったメニューの一つだ。自信はあったが、相手は庶民的な味はお気に召さないかもしれないと、反応が気になっていた。
すぐに食べ終え、包みをきれいに潰している。その長い指に目を落としながら、彼女はちょっと落ち着かない気分だった。
「もう一ついかがですか?」
「いや、もう十分。ありがとう。おいしかった」
「こちらこそ。ジョシュなら、兄ですけど、五つは食べるから」
「ふうん」
会話が止まる。ノアは二人を取り巻く空気を重く感じた。キアヌが彼を指して言っていた、「とっつきにくい」とはこういう感覚か、と納得もする。
きれいに整ったまぶしいような横顔に彼女は話しかける。
「学生さんが舞踏会をするのですって。ご存じでした?」
「知らない」
再び会話が止まった。
(そもそもが共通項がない者同士だもの。しょうがないわ)
儀礼的に座らせてくれたのだ、とノアは立ち上がった。ベンチに敷いてくれた上着を返さなくてはいけない。
「座ってくれないか。話せない」
こちらを見もせずに、硬い声が言う。それに押されて彼女は腰を戻した。
「君は、どこから来たの?」
その問いに、ノアはどきりとした。ノアの身体に入ったララの意識を見抜かれているような気がしたのだ。
彼女がどう返していいか考えている間に、彼がまた言葉をつないだ。
「ブルー男爵家の令嬢の話は耳にしたことがない。貴族の社会は狭いのに」
そこで、ちらりと彼女へ目を向ける。身元を疑われているのか、とノアは納得した。
(生活のためとはいえ、貴族の令嬢らしくない振る舞いだろうし。胡散臭く見えるのかも。自分の友人と急に親しくなったりして)
「王都を離れて、領地で暮らしていたの?」
彼女は首を振った。彼の視線を感じ、ノアの気の毒な身の上を語ることがなぜだか少し恥ずかしくなった。
「我が家はすごく貧しくて、世間とおつき合いをしてこなかったんです。きっとそのせいだと思います。働くために大学に来たのは、兄のいるここしか外につながりがないから」
両方の指で頬を抑えた。少し火照る気がしたからだ。
長く感じるほど返事がなかった。
ようやく、
「僕も社交はしない」
とぽつりと返った。
「そうでしょうね」
うっかり心の声がもれた。しまったと彼を見たが、怒った様子はなかった。頬を少し緩めている。
(良かった。怒らせなくて)
その後会話も弾まないまま、彼とは別れた。自分のためにベンチに敷かれた上着を返す時、ほのかに彼女は寂しく思った。
手ぶらで店まで戻る道すがら、彼との時間を何となく反芻してみる。
(ハンカチじゃないんだ)
ララの亡夫は結婚前に彼女を連れ出した際、芝生に座る時、ハンカチを広げて彼女を座らせてくれた。上着は脱がなかった。それでも十分紳士らしく彼女の目に映ったのを覚えている。
アシュレイは少し水滴の残るベンチに、上等に違いない上着を当たり前に敷いてくれた。彼女のドレスが汚れないように。
会話の少なさや一緒に過ごした時間のぎごちなさより、彼の紳士的な行為が彼女に印象深かった。
(ノアが大した令嬢じゃないって、知っていたはずなのに)
彼女はほのぼのと嬉しかった。ノアに意識が入って以来初めて、心から嬉しいと思った。
仕事を終えて邸に帰った。
メイドがかごに入ったジョシュのシャツを運んで来た。
彼がよれてシミのついたものを着ているのが気になっていた。そのシミ抜きを頼んであったのだ。
「ノア様、どれもシミが取りきれません。食べ物の汚れではなくて、別なもののようですよ。大学の薬品か何かでないでしょうか」
「そうね」
ノアが検めても、そのように見えた。古い土壌から古代の生物の名残を取り出すのに、薬品を種々使うのだと彼から聞いたことがあった。
「もったいないけれど、処分してちょうだい。新しいものを買って置いてほしいの」
ノアが働き出して、食費が賄えるようになりわずかな現金が残るようになった。そこから捻出してもらう。
そこで彼女は近いうち、大学で学生主催の舞踏会があることを思い出す。ジョシュがステーキサンドにつられて彼女の参加を約束してしまったため、出席しなくてはならない。
(着ていくものあるかしら?)
ドレスはある三枚を交互に着ていた。そのままでいいかと思うが、会には当然若い女性も多いと聞く。普段のままでは少し見すぼらしいような気もしていた。
夕食の後で、自室のクローゼットを探してみた。必要なもの以外はあまり手を触れてはいけない気がして、これまで見てこなかった。
きれいに整理された奥の引き出しの中に、ショールを見つけた。他はドレスにするには丈の足りない布地が数枚。
ショールを取り出した。絹地のとても上品なものだ。
(これに髪飾りでもあしらってごまかそう)
ショールを広げ、肩に掛けようとして何かが落ちたのに気づいた。床のそれを拾う。封筒に入った手紙のようだ。
咄嗟に、
(ラブレター?)
と感じ、ノアは中を見るのをためらった。身体はノアでも意識は違う。その私的なものを自分が見るのはいけないのではないか、と指が手紙をつまんだままだ。
(でも…)
少しの逡巡の後で、好奇心が勝る。彼女はショールを脇に置き、ベッドの端に腰掛けた。封を開ける。中には便箋が一枚だ。
取り出して開いた。長くもない字面を目が追い、愕然とした。
『これを見るのは誰かしら。
お兄様かも。
だったら、ごめんなさい。
きっと悲しませてしまいます。
これからのことを考えると怖いのです。
年をとった何もないわたし。
誰にも顧みられないわたし。
そんな自分から逃げることを責めないで。
家も、邸も何もかもが嫌。
ノア・ブルー』
(これは遺書だわ)
彼女の意識が入る前のノアは昏睡状態が続いていたという。
(まさか、自殺を図った?)
手紙の内容から、将来への不安と絶望が読み取れる。それを苦に死を選ぶのだと。
彼女は便箋を封筒に戻し、クローゼットの奥の元あった場所にしまった。
(「何もかもが嫌」って…)
若い女性の頑なな思い込みと片付けることはできない。ノアはそう思った。今は離れた娘のピッパがこれと同じような気持ちを抱いていたならと、切なさに胸が塞がれるようだ。
本物のノアは深窓に育った貴族のお嬢様だ。自分から外に出ることなど、思いも寄らないだろうし、また求められもしない。
外の世界への扉は親や兄弟が開いてくれるものだ。将来の可能性は、美しく着飾った彼女が彼らが用意してくれた馬車に運ばれ、やっと知り叶うこと。
本物のノアには親もなく、大きな負債が残る半分朽ちた邸での貧しい暮らしだけしかない。外の可能性に触れる手段はないと言っていい。
(ジョシュが頼りがいのある兄だったらまだしも…)
気がよく優しい男だが、研究員は収入がない。のち教授になれても名誉職であり薄給だ。ジークやアシュレイがそれで安穏としているのは、彼らが資産の豊かな貴族だからだ。
学問に身を入れるのは素晴らしいことだが、実質が伴わないジョシュには分不相応な贅沢と言えた。
(ノアが気遣いの人だったのかも知れないけれど、これほど思い詰めていたことをジョシュは何も知らなさそうね)
大体、妹に別の人格が入ったというのに違和感すら持たないようだ。無邪気であるのが救いの、自分本位な若者に違いない。
けれど、同じ貴族でもちょっと家が違えばそれが当たり前に許されている現実もあり、ジョシュばかりがわがままな訳でもない。
(この家には、何か抜本的な改革が必要かも)
それが何か、また自分に何ができるのかもノアには定かではない。
ただ、本物のノアの秘めた思いに胸が揺さぶられて、ひどく切なかった。
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