46.プロローグに代えて
アシュレイは肩を抱いたままノアの髪に指を触れた。
彼女が前触れなく旅に出たと知らされ、自分は束の間、泡のような夢を見ていたのではないかと思った。甘くて幸福なそれがぷちんと割れ、現実に残酷に引き戻された気がした。
しかし、彼女は帰ってきたし、側にいる。手で触れ、口づけることも出来た。夢ではない。
(ノアはオードリーとは違う)
今が嬉しかった。
彼女の存在で波立っていた気持ちが和ぎ、自分が幸福なのだと気づく。
「北州のどこへ行ったの?」
「オーブリーの古城へ。その辺りを散策したの」
「なら、ノッティングかな」
「ええ。先生は行かれたことがあるの?」
「いや、そこの知事に度々鹿撃ちに招かれていた。興味が持てなくて断ってきたけれど」
「…お知り合いなの?」
「大学の先輩に当たる。式典で会って話す程度だよ。確か、イーサン・フレミングだ」
彼女は、こほんと軽く咳き込んだ。女性だけの旅では疲れることも多かっただろうと、少し痛々しく感じる。腕に包むように華奢な身体を引き寄せた。
彼女が旅の計画を打ち明けてくれていたなら、幾らでも手配の労を取った。同行せずとも、安全面にも十分気を配ってあげた。適当な宿ではなく、フレミングの館に泊まらせることだって自分なら容易かった。
そういえば、と噂を思い出す。
(長く独身を通して来たイーサンが、幼なじみと最近結婚したと聞いた)
「ねえ、先生」と言う彼女の声に、顔を向けた。
「…さっき、お邸に招待するっておっしゃったけれど、お茶会か何か?」
「いや、君に邸に慣れてほしくて。家内の者にも会わせたい。僕の妻になる人だから」
ノアがしゃっくりするような声を出した。その反応がおかしくて彼は笑った。
「笑わないで。急に求婚なさるから、驚いたの」
「え」
彼には思いを告げることがすでに求婚を意味した。それに対して、彼女から反論もなかったから、承諾をもらったと考えていた。
(違うのか)
彼は勉強で苦労をした経験はない。しかし、この時は落第を突きつけられた学生の気持ちを味わった。
「僕は、まだ返事をもらっていなかった?」
彼女は彼の腕の中で少し身じろぎした。その仕草さえ意味深に思え、落ち着かない。
「…わたし、きれいなお邸でお花を活けたり刺繍をして、おとなしく過ごすことが出来ないと思うの」
「今のままの君でいい」
「先生は奥様らしくないの、お嫌じゃない?」
ノアの小動物を思わせる愛らしい瞳が、くりんと彼を見上げる。その意味ある視線に、気持ちを真っ直ぐ射抜かれるようだった。
「変な商売を続けたって構わない。好きにしてくれていい」
「それなら…、お受けします」
彼女は彼を見つめながら微笑んだ。
彼はちらりと思った。
意志の強い彼女だ。『ブルー・ティールーム』の経営を続ける自由は、彼から譲歩させようと目論んでいたに違いない。
(僕が絶対に呑むと知っていて、だ)
餌に引っ掛かった自分を思うが、不快でもない。生き生きと彼女らしく振る舞う姿にこそ、彼は恋したのだから。
「何か僕から贈らせてほしい。ドレスや宝石や、君のほしいものを。結婚前のグレイのやり方なんだ」
彼の言葉は花嫁支度に窮するブルー家を思い遣ってのものだった。彼女が恥じらって遠慮しても、家訓だと押し通し、すべて用意してあげるつもりでもある。
「何か僕にねだってくれないか?」
彼の問いかけに、彼女は思い出したようにはっとなった。真剣な眼差しで告げる。
「ジョシュ」
「は」
「池を駄目にしてジョシュが大学をクビになったら困るの。先生、助けて。お願い」
アシュレイは一瞬呆れ、その後ふっと笑顔になった。そんな彼女に自分はすでに夢中でいる。
(この思いを見失ってはいけない)
「任せて。僕が何とかするよ」
終
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