42.ララへの旅
夜、ジョシュが帰宅し、ノアはそこではっとした。
自分たちのことで一杯で、ジョシュの処分のことを話すのを忘れていた。
「ノア、先生たちに頼んでくれた?」
「ええ、大学に行ったわ」
上着を脱いだジョシュのシャツは泥汚れがひどい。騒動の後始末に、池の掃除でもしていたのだろう。
ジョシュは食卓に向かい旺盛な食欲を見せながら、池の魚を供養してきたと言う。
「そのまま埋めるのは衛生上どうかと思って、焼いたんだ。そうしたら、旨そうな匂いがしてさ、ちょっと味見をしようっていう話になってさ」
「供養じゃなかったの?」
「食べるのが一番の供養じゃないか」
「でも、薬品に浸った魚じゃないの? 大丈夫?」
「そう、毒性はないはずだけど、念のため二匹で止めておいたよ」
などと幸せそうに語る。大学での日々は性に合っているようだ。それが消えることがないように、彼女はひっそり願う。
(やっぱり、アシュレイ先生にもう一度お願いしておこう)
夜も更けて、寝室に下がった。
洗ってぬれた髪を拭い、この日のことを振り返る。
アシュレイと過ごした時間のことを思えば、嬉しくなる。胸が高鳴った。自分で思うより、よほど
(好き)
と気づく。
少し憂いのある端正な顔立ちも素敵だし、隙のない上流紳士然とした様子も目にまぶしい。けれど、そんな彼が不意に見せる可愛らしさが、彼女の心に刺さり、
(きゅんとなる)
のだった。
(まさか、こんなことがあるなんて。長く生きてきたけど…)
そこで、
(あ)
と、なった。重大なことに今頃気づいた。忘れていた。
(わたしは本物のノアじゃない)
当然の事実に愕然となった。ノアとしての日々が長くなり、ララだったことを思うことも少なくなった。過去を忘れたのではないが、振り返って考えることもない。
(いつの間にかノアとして生きていた)
鏡に映った姿を見つめる。小柄で華奢な身体。愛らしい顔立ち。濃い栗色の髪。それらはすべてが本来のノアのものだ。彼女に属していない。
すっかり見慣れて、自分自身だと疑いもしなくなった。
(でも、これは、ノアのもの)
本当の彼女はとはまるで違う。一人で娘を育て上げた三十八歳の食堂経営者だ。背が高く金髪で、しっかりした身体を持っていた。
どんなにノアとしてノアの人生になじもうが、彼女のものではない。たまたま奇跡的に意識が入り込み、そうしているに過ぎない。借り物の身体だ。
最初はそう意識もしていたはずだった。日々に紛れ、ノアに成り代わって生きてきた。
(返さないといけない)
でもそれは、ノアとして生きている今を失うことだ。
出来るのだろうか。
数時間前、アシュレイから思いを告げられた。あんなにも甘くときめいた時間とこれから先の彼との未来を捨てなくてはならない。
そうしなくてはならないと思うと、胸が切なさで痛む。やっと過去を追わなくなった彼を、また傷つけることにもなる。
(出来るの?)
横になることもできず、ベッドに腰掛け長く悩んだ。答えは決まっているのに、そこへ気持ちが流れていかない。
(このまま放っておけば…)
そんな気持ちも顔を出す。気づかずに入れたら良かったと、涙ぐんだ。
しかし、偽ってノアのまま過ごし、ある時何かのきっかけで意識が元に戻ることだってあり得る。自分はララへ、ノアはノアへ。見た目は一緒でも、それはアシュレイが選んでくれたノアではない。
それは大きな彼への裏切りだ。
(駄目)
丸ごとの彼女を受け入れてくれた彼へ、その仕打ちだけはできない。本来の身体へ戻る、戻れないは別として、このまま彼の前でノアでい続けることは、大きな欺瞞であると気づく。
夜明けに近い頃、ようやく心が定まった。
赤い目をこすり、ベッドに入る。深く眠れず、予定通り少しだけ仮眠が取れた。
昨日の続きなのに、世界の色が変わって見える。
(別れを感じるからかしら?)
身支度をし、軽い朝食をとった後で『ブルー・ティールーム』へ向かう。そこで予約客へ手紙を書いた。店を休業する知らせだ。急なキャンセルを丁重に詫び、とりあえず十日の猶予を願う内容にした。
それらをメイドに託し、出してもらった。店の準備のため仕込んだ菓子の生地も、厨房で使ってもらうよう言った。
(さて、あとは旅支度ね)
彼女は本物のノアに会いに行こうとしていた。
北州のノッティングがノアの故郷だ。列車で二日行ったテラノという土地で乗り換える。そこからは馬車を頼んだ。
用心のため、旅にはメイドを一人伴った。給金付きで旅行に出れると、メイドは大喜びだった。逆にノアは気持ちが落ちて、しんと冷えている。
途中、長旅の疲れもあり、宿を取って一泊した。
「お嬢様、観光はなさらないのですか?」
「ノッティングに着いたら、どこか見てまわりましょう」
宿の部屋で、彼女は手紙を書いた。宛名は本物のノア。つまりララへだ。それを女中に渡して郵送を頼んだ。中身は会いに行くことを伝えたもので、都合がつくまで待つつもり、とも書いた。
翌日は小雨が降っていた。ぬかるんだ道を馬車は威勢よく走る。
目的の地に馬車が着いたのは、夕刻近かった。久しぶりに見る彼女の家はこぢんまりとしていた。
(荒れ屋だったけど、ブルーの邸は広いものね)
メイドに訪を入れさせる。
現れたのは彼女も見覚えのある女中だった。針仕事が得意で、繕い物など嫌な顔せずこなしてくれた。懐かしく、何となく微笑んだ。
「奥様はいらっしゃる? ノア・ブルーです」
「奥様はお店に出られています」
「そうわかったわ。ありがとう」
メイドを連れ、店に向かう。家から徒歩で五分ほど。この界隈では大きな食堂で、味もいいと遠方からも来客があった。
ドアを開け、中に入る。夕刻前の今頃は、早々ビールを飲みに来たお客がちらほらで、まだ閑散としている。
過去の感慨と一緒に店内の匂いを吸い込む。メイドを促してテーブルに着いた。注文を取りに来た女中へ、メイドの分と一緒に飲み物を頼む。喉が渇いていたので、互いにビールだ。
「奥様がお手隙なら、会いたいのだけれど」
「はい、大丈夫だと思いますよ」
ほどなく、グラスを持って別な女性がやって来る。ノアは鼓動が激しく、思わず目を閉じた。
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