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3.アシュレイ


一月もすれば、ノアはもう何年もここに勤めているかのような様子になった。


昼を過ぎれば、手の開く時間もできる。そこで、彼女はマスターに露店販売を提案した。


「外で売るのかい?」


「そう。軽食を用意して、バスケットに詰めてここから少し離れた校舎の方に売りに行けばどうかと思って」


「うーん。どうかな」


マスターは腕を組み考え込んだ。


(他のカフェテリアとの縄張り関係とかあるのかしら?)


彼女がこんなことを言い出したのも、少しでも店の売上に貢献したいからだった。大学内のカフェテリアは大学の経営だと思っていたが、そうではなく、オーナーがこのマスターだ。大学につてのある者が許可を得て店を開き、営業している。


昼間は忙しいが、ノアの目から見てもう一押しが欲しいところだ。コックのジムの腕もいいから、よそからの集客も十分見込めると思った。その宣伝も兼ねて、の露店販売だ。


「何か問題がある?」


「問題はないが、そんなことまで始めたら、ノアが参っちゃわないか?」


「大丈夫よ」


このような試みはララの時に経験済みだ。昼食前に露店販売用に多目に仕込んだ。サンドイッチの他にパイも用意した。


バスケットに詰めるとさすがに重いので、食事を終えたジョシュに運んでもらった。


芝の広場の奥に池がある。この辺りは彼女は初めてだった。学生の声に混じり、遠く鳥の声がした。鳥の庭があるという。


ベンチにバスケットを置いた。


「手伝おうか?」


「いい。ジョシュがいない方がいいの」


「何だよ、僕だって役に立つよ」


「忙しいでしょ、行っていいから」


食べ物は、髪もさっとしてよれたシャツを着た大男より、自分が売った方が映えると彼女は思う。すでにちらちら視線を感じる。


一人になり、声を出した。


「サンドイッチいかがですか。パイもあります」


もの珍しさにか、学生が寄って来る。一人が買ってくれれば、次につながった。若い男性は食欲旺盛だ。昼食が済んでも軽食なら手が伸びるようだ。


三十分もしない間にバスケットは軽くなった。あと残りはパイが一つと、卵のサンドイッチだ。


「学生が噂していた。一つくれないか?」


声に顔を上げた。きちんとした紳士の身なりをした男性だ。すぐに学生ではないと気づく。


目が合った。端正な顔立ちのその人は、なぜだか彼女を見て衝撃を受けたようだった。


「どちらにします? パイとサンドイッチがあります」


「…どっちでもいい」


やや狼狽えたように彼女から目を逸らした。コインを突き出した。どっちでもいいと言われれば、困るのは彼女だ。どうせ今日は試験販売だ。


「お昼はまだですか?」


「え」


「二つともどうぞ」


「え」


驚いたり動揺したり、忙しい人だと思う。


ノアは彼に包みを二つ手渡した。どこかぼんやりと彼女を見ながら男性は受け取った。


「理事会館近くの『子鹿邸』です。ぜひいらして下さい」


「…君は?」


「『子鹿亭』から来ました」


「そうじゃなく、名を聞いたんだ」


「ノアです。兄が古生物科で研究員をしています」


それに返しはない。すらりとした身をふつっと翻した。足早に去って行った。




露店販売は好評だった。雨の日以外は毎日行った。同じ場所でなく、違う方へも出向き、『子鹿亭』の名前を宣伝した。


店の売り上げが増えれば、ノアの給金も弾んでもらえる。それを励みに、日々くるくるとよく働いた。


忙しく過ごしながら、ふと思う。


(今、ララはどうしているのかしら?)


自分がノアの身体に入ったのと同時に、ララの身体にノアの意識が入ったのだと、彼女は考えている。互いに命の危機を迎えた時に、奇跡的な何かが起こり、そうなったのだと。


いつか、ララを見たいと思った。


彼女の想像では、本当のノアは貴族令嬢でしとやかなお嬢様だ。貧乏だったから、という理由だけでなく持ち物から推しはかれる人物像はある。ドレスの手入れや古びた人形の繕いなどを見ても、倹しくも私物に愛情を注いで手をかける女性であるとわかった。


そんな人が活動的な食堂経営者のマダムに転生して、さぞ困っているだろうとも思う。


(毎日、泣いていないといいけどれど)


もうちょっと生活が落ち着いたら、ララを探したい。ここは王都で、彼女が住んでいたのはずっと離れた北州の都市の郊外だった。行くのには、時間も費用もかかる。今はどちらもが足りずに無理だった。


ノアとララが出会った時、不思議なことが起こるのかもしれない。もしかしたら、瞬時に意識が本来の身体に戻ってしまうとか。


(とにかく、仲良くはなれそう。共通の話題に事欠かないもの)


そんなことを取り留めなく思う。


本来の自分に帰れず、あの生活や人生を取り返せないのでは。娘のピッパを抱きしめることができないのでは。そんな不安は無理に考えなかった。


(考えてもしょうがないことは、悩むだけ損)


彼女はそうやって生きてきたのだし、これからもそうするしかないと知っていた。


そして、こちらのノアの生活も楽しみ出していたのも事実だった。



『子鹿亭』は夕方までの営業だ。午後六時頃まで店を開け、学生や職員の訪れを待つ。


昼食客は学生も多いが、その時間をずれると、主に教授や職員がふらふらと憩いにやって来る場だった。

お茶にコーヒー、ビールもワインもある。最近ノアがアイディアを出し商品にしたチーズケーキが好評だ。甘味が控えめでつまみにもなると、酒類と共に注文する客も多い。


社会学教授のジークは常連だ。シャツの襟元を緩め脚を伸ばし、寛いだ風にビールを飲んでいる。


(もうそろそろキアヌも来るかしら)


キアヌは男性で、この大学の運営側の人間だ。理事を務めている。ジークの友人で、しょっちゅうこの店で落ち合っていた。


カウンター内で明日の仕込みをしながら注文に応じ、客の話し相手も務める。長い経験を持つ彼女にとっては造作もないが、周囲は目を見張る。てきぱき動いて愛想もいい彼女は、すっかり『子鹿亭』の看板娘になっている。


「マスター、ノアを雇ってよかっただろ? 俺に感謝してくれよ」


「ジーク、それ言うの、ふた月で八回目よ。いい加減くどくない?」


「恩を着せようとしてるんだ。な、マスター」


「実際その通りだから、言い返せないよ」


ノアはチーズケーキを切り分け、テーブル客に提供した帰りに、ジークのテーブルにちょっともたれた。


「知っているでしょう。ここは願ったりの職場なの。マスターは毎日ジョシュにたくさん食べさせてくれるんだから。ありがたいのはこっち」


「おう、安く使えていいな」


それにマスターが笑って手を振った。


磊落な印象のこのジークが、王女の母を持つれっきとした貴公子だと知ったのは少し前になる。けれども、ノアが楽に喋るのを好んだ。


王族そのものでもなければ、若者相手にそう畏れない。


(立派な人でもまだ二十八歳だもの。二十代なんて、わたしにとっては少年みたいに感じるわ)


などと微笑ましく眺めている。


ドアベルが鳴った。彼女が顔を向ける。案の定、ドアを開けて入って来たのはキアヌだった。


特徴的なふわりとした癖毛が風に揺れた。その肩の奥にもう一人いるようだ。


「いらっしゃい」


彼女はジークのテーブルへ彼らを招じた。


「僕はワイン。アシュレイ、君は?」


「コーヒーを」


「飲まないのか?」


「いい。追試の口頭試問が残っている。酔っていたくない」


うつむき加減の横顔に彼女ははっとした。以前、露店販売で広場前まで出向いた時の男性だった。彼女に名を尋ね、そのまま去っていった人物だ。深い銀髪は印象的だった。


(ジークたちのお友だちなのね)


お読み下さりまことにありがとうございます。

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