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2.『小鹿亭』


彼女はララの時も大学は無縁だった。彼女の亡夫は大学に行ったが、ジョシュの大学とは違っていた。


兄と共に乗合馬車で大学に向かった。彼は黒に紫の縁取りのあるマントを身につけていた。珍しくて触ると、不思議そうな顔をされる。確かに、ノアならば大学に通う兄のその姿は見慣れているはずだ。


大学の校内に足を踏み入れた時、ジョシュが変な声を出した。


「上着を忘れた。スースーすると思った」


と笑っている。マントの下はシャツのみだ。しかもよれて少し汚れている。


(わたしがちゃんとしてあげないと)


ジョシュの身なりに気を配ることも必要なようだ。


大学は一つの街だ。堅牢な建築物の立ち並ぶ中を石畳の道が縦横に走っている。小川も流れ、池も小さな森もある。ノアはもの珍しさに目をきょろきょろとさせた。


大勢の学生たちが、灰色のマントを身につけ闊歩している。マントの色の違いがなくとも、大男の兄は目立つ。ノアは兄のマントの端をつかんでついて行った。


「僕がついていなくても大丈夫か?」


「ええ。ジョシュがいない方がいいの」


「何だよ、これでも兄貴だぞ」


「そうよ。だから、ジョシュの名前は出すわ。いいでしょ?」


「ああ、構わないよ」


兄の研究棟の前で別れた。道には案内板があり、迷う心配はなさそうだ。もしそうでも誰かに尋ねればいい。


彼女はカフェテリアを探した。そこで仕事をもらおうと考えたのだ。長く食堂を切り盛りした経験で、大学内の厨房の仕事などをもらえたらいいと目論んでいた。


道行く学生の好奇な視線を感じた。大学内は男性だらけだ。その中で、可憐なノアの姿は彼らの目を引いた。


ノアのクローゼットには数枚のドレスしかなかった。品も仕立てもいいが、どれも裾に目立たない繕いの跡があった。その中の小花柄のものを着ていた。


髪は高く一つに結び、結び目をひと束の髪でくるりと巻いてある。垂れた髪が程よくカールし、それが彼女が歩くたびにふわりと揺れる。娘のピッパの真似をしたのだが、よく似合うと鏡を見て嬉しくなった。


見た目はララとはまるで違う。年も違う。でも中身はかつての彼女だった。そっくり世界の変わった今が、最初怖かったが、今ではちょっと面白くも感じている。


(じゃあ、ララにノアの意識が入っているのかしら?)


いつか確かめてみたい、と決めてから、目の前のカフェテリアのドアを開いた。



あっさりと断られた。


理由は人手が足りている、だ。深く考えもせず、ノアは次を目指した。通りがかりの学生に尋ね、歩く。足がくたびれ始めた時、目的の建物に着いた。


重い木のドアに手をかけた時、いきなりそれが自分に向かって開いた。くわえタバコの男性だった。


「ああ、悪い」


ジョシュには敵わないが大柄な男性だった。彼は珍しそうに彼女を一瞥し、通り過ぎて行く。


男性と入れ替わりに中に入った。昼前でまだ開店前のようだ。広々としたホールのテーブル席は静まり返っている。カウンターの奥に年嵩の男性が一人立っている。マスターらしい。彼女へ怪訝な目を向けた。


「知らない顔だね。どの先生の秘書だい?」


「秘書ではありません。仕事を探して来たのです」


ノアはカウンターの前まで進んだ。マスターはグラスを磨く手を止めた。


「調理でも接客でも、掃除でも洗いものや片付けでも。何でもいいです。仕事はありませんか?」


「ははは」


おかしいのか、笑った。


「どこのお嬢さんか知らないが、簡単じゃないよ。あんたみたいな人に務まるとは思えない」


「これでも経験はあります」


マスターは経験については聞かず、どうしてここへ来たのかを問うた。


「兄がこの大学で研究員をしています。古生物科のジョシュ・ブルーです。わたしは働けそうな場所はここしか知らないのです」


「ああ、あの大喰らい男爵の…」


ノアは自分がそう言われたように頬を赤くした。ジョシュは確かによく食べる。すごく食べる。それも家計が逼迫する原因でもあるだろう。


(でも、食欲旺盛な人に食べるなとは言えないわ)


彼女は手を組み、家が貧しいことを切々と訴えた。自分が働かなければ、生活が立ち行かないのだと、マスターへ繰り返した。


「気の毒だとは思うがねえ…。うちも人は足りているんだ」


その返事に、彼女は肩を落とした。余分な人件費を惜しむ道理はよくわかる。


その時、ドアベルを鳴らして、ドアが開いた。


「マスター、雇ってやりなよ。可哀そうじゃないか」


声に振り返ると、さっきドアのところで行き合った大柄な男性だった。開いた窓から話し声が聞こえたと言う。


上着を肩に引っ掛け、こちらにやって来る。口まわりの髭を指でかきながら、


「人が足りているなんて見栄を張るなよ。手癖の悪い厨房のやつをクビにして困っているとぼやいていたじゃないか」


と、男性はわたしを見た。少し驚いた表情で、自分はジークと名乗る。社会学の教授をしていると言った。


「ノア・ブルーです」


「しかし、レディに務まる仕事じゃないんだ。力仕事もあるし、手も荒れる。立ち仕事ばかりだよ」


「使ってみるくらいしてやったらどうだ? 本人だってやる気なのだし。大食いジョシュの妹なら、身元だって十分じゃないか」


「お願いします」


「弱ったなあ」


マスターは迷う風を見せたが、折れた。


「ありがとうございます。頑張ります」


彼女はジークにも礼を言った。助け舟がなければ、ここも断られていた。彼のおかげだと、ありがたく思った。男だらけの大学は案外閉鎖的な場所で、入るには中の人間とのつながりが必要なのだと知った。


(ジョシュの名前も役に立ったわ)



ノアは訪れたその日から仕事を始めた。


店の掃除から始まり、仕込みと準備。調理は厨房にコックが一人おり、仕切っていた。他、雑用や接客の若い男がいる。クビになったのはコックの一人で、注文が追いつかない状況のようだった。


一日二日はこの『子鹿亭』のやり方をなぞって動いた。言われる前から洗い物や片付けもこなした。慣れた仕事ぶりに、マスターが驚いた。


「経験者と言ったのは、本当だったのか。悪かったよ、疑って。あんたみたいなお嬢さんが、まさかと思ったよ」


「いいえ。よければ、調理も入れます。コックのジムがよければ、メニューの簡単なものはわたしが担当するわ」


ジムには願ったりだ。忙しい昼時に、グリルをしながら煮込みを作り、サンドイッチやデザートを仕上げるのは手間なのだ。


明日の準備の残業も嫌がらない。早出も厭わない。彼女は代わりに頼み事を一つした。


「昼の残りを使って、兄に食事を出してあげてもいいかしら?」


「いいよ、構わない。食べさせてあげるといい」


マスターの許しをもらい、ジョシュに伝えた。彼は昼の混雑を過ぎた頃、のっそりとドアを開けて来るようになった。


「お腹空いちゃったよ、ノア。早く食べさせてくれよ」


「わかったから、きれいに食べてよ」


「大丈夫だよ、子供じゃないんだから」


そう言うものの、口のまわりを汚しながら山盛りの食事に向かう様は、大きな大きな子供だ。彼女はちょっとした怪物を育てている気分になる。


「すごい食いっぷりだな」


遅い昼を食べに来たジークが、ジョシュと居合わせた。ごく普通の定食にビールの彼が、呆れたように首を振る。


「本当に血のつながった兄妹なのか? 大グマと子犬ほど違うじゃないか」


彼女にも信じがたいが、事実そうなのだ。


お読み下さりまことにありがとうございます。

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