21.始まりの最後の日
ノアは、感情に流されて秘密にしておくべきことを告げてしまった自分を恥ずかしく思った。
暴行を受けたのも、その結果知らない誰かの子を身ごもったかもしれない現実も、彼女だけの問題だ。
(根っからの紳士な人だから、口外はしないだろうけど)
一人になって、冷静になる。
テーブルに残ったままの茶器を片付けた。盆に乗せ、厨房へ持って行く。人手がないから、こんなことも彼女がやる。
閉じられた大食堂と客間の前を通りながら、ノアは考えた。この後妊娠が確定したら、出来ることだ。
噂でだが、怪しげな薬で望まない子を流してしまうという話も耳にしたことがあった。そんな薬の買い方もわからず、子を流すという手段がそもそも彼女には恐ろしい。
(買うお金もないしね)
そうなると、産むしかない。
しかし、王都のこの邸ではいけない。本物のノアの名誉に関わり、ジョシュにも大迷惑をかけることになる。
(じゃあ、どこで…?)
息を殺して考えた。居間の壁にもたれ、唇に指を押し当てる。
長くそうしていた。髪をかきむしりたいほど悩んだ時、気づいた。どうして今まで思いつかなかったのか、自分がおかしいほどだ。
(ララに助けてもらえないかしら?)
ララにはきっとノアの意識が入っているはず。事情を話し、助力を願うことは出来ないだろうか。
(貯金はたっぷりあるし。それを使って、鄙びた場所でひっそりと子を産む)
思いつきに、目の前が開けた気がした。
(その後のことは、ゆっくり考えればいい)
ともかく、ララへ宛てて手紙を書いてみよう。心が動いた。書き物机に向かい、ペンを取った。少し迷ってから、かつての自分へ向けて事情を記した手紙を書く。
『今のララへ
突然のお便りごめんなさい。
あなたのことをよく知る分身と
思って下さればいいわ。
すごく困ったことが起きました。
助けてほしいの。
ぜひ返事を下さい。
待っています。
今のノアより』
封をし、住所と宛名を記す。
封筒に軽く唇を当てた。
(お願い、ララ)
それから呼び鈴を振り、メイドを呼んだ。かごを抱えたままやって来る。
「これを出してちょうだい」
「お急ぎですか? もう街へ出る用事がないので」
そろそろメイドたちは仕事上がりの時間になる。今から外へ出るのが億劫なのだ。急ぎ仕事を強いていいほどの給金を支払ってはいない。
「ううん、明日でいいの。出しておいて」
ノアはメイドのかごへ手紙をポンと放り入れた。
手紙を今のララへ送ったことで、気持ちが楽になった。
そして、
(出来ることはやった。もう悩むのは損)
という、本来の彼女の楽天的な面が顔を出した。
最後の日まで『子鹿亭』は休まずに勤めた。学生も職員も、馴染みの客はたくさん訪れてくれ、閉店を惜しんだ。
そんな中、常連のキアヌからある招待を受けた。
「結婚の披露パーティーに来てくれないか?」
彼が婚約者と近く式を挙げることは聞いていた。
「嬉しいわ。でも、わたしがお邪魔してもいいの?」
「どうして? 大学の連中は大勢来る。ぜひ君も来てくれ。改めて招待状を送るから」
「ありがとう」
店を閉めるのはマスターに任せ、彼女は別れを告げた。ノアとして暮らす中で大きな助けと励みをもらった場所だった。
(嫌な思い出もあるけれど)
そして、と隣りを歩くアシュレイに目をやる。彼は律儀に、最後の日まで送り届ける約束を果たしてくれた。
ちょっと面倒にも重くも感じることもあったが、
(たくさん助けてもらったわ)
と、生きる世界の違う彼とこれきりの関係になることが切なくも寂しい。
いつも通り馬車に二人になる。彼は彼女が打ち明けた妊娠の可能性にはもう触れなかった。
自分から放っておいてほしいと、彼を遠ざけた結果だが、
(それも何だか寂しい)
と、身勝手なことを考えもした。
「先生、これまでありがとうございました。お手数をおかけしました」
最後の日だ。きちんと礼を述べ、頭を下げた。
「いや」
返事はそれきりだ。
彼女が大学から消えることで、彼はまた昼食を抜いた生活に戻るのだろうか。謹厳な人物に見えるが、寝坊癖があるようで、しょっちゅう朝食を食べ損ねているらしい。
「先生、明日からお昼はどうなさるの?」
「食べない」
「お邸の方に届けてもらうのは?」
「そういう驕ったことはしない」
「『子鹿亭』のコックが今度入るカフェテリアは、厨房に学生さんがいないらしいのに」
「大学の食べ物は汚い」
会話が途切れた。
これまでも幾度もあったことで、最初重かったそれにも彼女はもう慣れていた。
ふと、珍しく彼から口を開く。
「君はこれからどうするの? ああ、仕事のことだが…」
慌てて言い添えたところが、ノアを気遣うようで彼女は嬉しかった。
「考えていることがあって。まだわからなけれど…。なんとかやっていきます」
「そう」
と、彼は受け、
「強いね」
とつないだ。
「そうでないと、生きていけないから。ジョシュが早く教授になってくれればいいのだけれど。難しいのでしょう?」
「まず席の空きがないと。あとは家名で何とかなる」
「まさか。先生はすごい秀才だって、聞いたわ」
「大したことはないよ。でも、僕はそれしかない」
その言葉がやや自嘲げで寂しく響いた。ノアはそれが意外でじっと彼を見つめてしまう。目が合い、彼はこれまでのように戸惑った様子で視線を外す。
(何もかもに恵まれたような人が、どうしてそんな寂しいことを言うのかしら?)
再び車内は沈黙に包まれた。
馬車がブルー男爵家に着いた。彼が下り、彼女が出るのを手伝ってくれる。
彼の手に自分のそれが重なる。ごくわずかな時間だ。すぐに終わる。指が滑るように離れる間際、彼女がぎゅっとそれをつかんだ。
引き寄せて、自分の額に当てた。
「本当にありがとう。先生のおかげで、わたし…、どんなに救われたか…」
五秒もない。彼女はすぐに手を離し、顔を上げた。
何も言わず、彼は彼女を見つめていた。
「さようなら」
身を翻し、彼女は壊れた門扉を潜って邸に消えた。
彼がそのまましばらく動けずにいたのを彼女は知らない。
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