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目覚めたら貧乏な男爵令嬢でした〜他人の世界の歩き方〜  作者: 帆々


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20.行き止まり


無礼にならないほどの範囲で、アシュレイが周囲を眺めているのがわかる。


(ご自分のお邸とあまりに違って、驚いているのだわ)


寂れてはいるが、不潔ではない。


大学は休みで互いに休日のはず。何の用かと思案しながら椅子を勧めた。


彼女の後で、彼は壁の長椅子に掛けた。


「先生、どうなさったの? 今日はお休みでしょう」


「君が、黙っているから…」


と、それきりで言葉を切る。


(また不思議なことを言い出した)


彼の言動は非常に親切で紳士的だが、


(意味不明なところがちょっと…)


と彼女は内心おかしかった。


そこで聞き覚えのある、彼の空腹の腹の音がした。


「先生、お昼を召し上がっていないの?」


今は三時半を過ぎたところだ。ベルを振りながら尋ねた。


「朝から、教授会と理事会が続いた」


ノアら部外者は休日でも、教授や理事の人々は大学で仕事があったらしい。


この様子では、朝食も食べ損ねたようである。


「先生方は皆さんお昼を召し上がるでしょう?」


教授棟には学生も利用するカフェテリアとは別な厨房があり、ビュッフェもある。会食などもそこで行うようだ。


「大学の食べ物は汚い」


「どうして? 調理はプロでしょう」


「学生が手伝うのを見たことがある」


そこで彼女は思わずふき出した。彼の目線では、厨房にいる学生は害虫扱いだ。現れたメイドに、お茶の用意と午前に焼いたケーキを頼んだ。


この邸では、メイドは湯と茶器と菓子を運ぶだけだ。お茶を入れ、大きめにケーキを切り分けて彼へ差し出した。


「ありがとう」


ためらいなく彼はケーキを口に入れた。見た目はありふれたパウンドケーキだ。しかし、食べてすぐに目を瞬いている。


「お口に合うかしら? 塩味のケーキなの」


かつての彼女が自分の店で出していたものだった。チーズとオイルを多めに使い、野菜やハムを具材に、スパイスなどを効かせたどっしりした食事風ケーキだ。


ジョシュが大学に泊まり込むかもと言うから、大きな塊を具材違いで四本持たせた。その残りの一本だ。女性なら、一切れで結構満足感がある。


「おいしい」


ペロリと平らげた。食後にやはり幸せそうにちょっと笑うのが、彼女は可愛いと思った。


「もう一切れいかが?」


「いや、ありがとう。もう十分」


空腹を満たしたら、また沈黙だ。


(まさか、食べ物が目的という訳じゃないわよね)


と、さすがに訝しく思った。


「何か、わたしにご用があったのではないですか?」


彼は気まずそうに瞳を落とした。つま先に近づく猫を見ながら、


「そう。君は、店を辞めるそうじゃないか」


ややなじる口調で言う。


「キアヌが言っていた」


「それはわたしじゃなくて、『子鹿亭』が今月一杯でお終いなんです。それで仕事がなくなるっていうこと」


「僕は聞いていない」


「まだ日もあるし、最後の日にでもお知らせしようと思っていたの」


「どこか別で働くつもりなの?」


「さあ…」


彼女は彼から目を逸らした。そうしながら、初めて彼ではなく、自分から目を逸らしたように感じた。


少し前までの涙ぐむほどの重苦しい感情がぶり返してきた。


何もかも決めかねていた。それは、何も出来ないからだ。


以前、夫を亡くし、幼いピッパを抱え途方に暮れた。その過去の中でも彼女は決して絶望はしなかった。

「何とかなるわ」と明るく前を向き、事実そうしてきた。


けれど、それは頼れる周囲があったからで、ゼロの状態ではなかったからだ。


(今は本当に、ないない尽くし。どうしていいかもわからない)


込み上げてくる涙の素を、ごまかすように小さい咳をした。そうしてから、答えでもない心の切れっ端を口にした。


「働くにしても、大学はもう嫌だから…」


「それは…、そうだね」


彼の相槌を聞きながら思った。この人は自分の遭った災難を知っているただ一人の人だ。そして、もう十分に気遣いを見せてくれている。


(これ以上は、もう止めて)


なぜそう思うのか。


縁も理由もない。


(この人の前で、事故に遭った可哀想な小動物のようでいたくない)


彼女は無理に彼へ目を戻した。


「ご用って、そのこと?」


「…そうだね。失礼した」


彼は言葉を切り、立ち上がった。


遅れて彼女も立ち上がる。その時、急に立ったためかふらりとよろめいた。椅子にくずおれそうになる。気づけば、アシュレイが彼女の身体を支えていた。


「ごめんなさい、寝不足かしら」


慌てて彼の腕を外す。やんわりと押した。


「大丈夫」


と。少しだけ微笑んだ。


すると、いきなり抱きかかえられた。掛けていた長椅子にやんわりと寝かされる。驚いた猫がぎゃっと恨みがましい声で鳴いて逃げて行く。


「横になった方がいい」


頭の下にクッションを差し入れ、自分の上着を彼女にふわりと掛けてくれた。


「あの、大丈夫。ちょっとした立ちくらみ」


「ジョシュは?」


「研究室へ。帰りはわからない。きっと遅いわ」


「じゃあ、僕が付いている」


「え?」


「気分は悪くない? 頭痛とか、吐き気とかは?」


「別に…」


「そう」


そのまま彼は傍らの椅子に掛けて、だらりと脚を伸ばした。ベストの懐中時計を開き、時刻を確認している。


「お忙しいのではない?」


「僕は一人なんだ。約束もない」


誰かに見守られて横になるなど、大人になってからはきっとない。ピッパや義母、義父。そういった人々を彼女が逆に見守ってきた。


居心地が悪く恥ずかしいようで、それでも安らぐような。


(不思議な感じ)


そうしていると、心に閉じ込めた不安が滲み出してくるように感じられる。気持ちがふと緩むのを自分でも知った。


いつしか彼女は泣き出していた。隠そうとした涙は思いがけず多くて、次から次にあふれてくる。


すぐに彼女の様子に気づいた彼が、側に来た。


「どこか苦しいの?」


ノアは顔をおおいながら首を振る。


「どうしていいか…、わからなくて…」


「え」


泣きながら、彼から顔を背けた。


どれほどか後で、おずおずとした指が彼女の髪に触れた。梳くのでもなく、指はただ彼女の髪に留まった。


「何がわからないのか、教えてほしい」


「…妊娠したかもしれない」


「え」


「相手もわからないのに…。どうしよう…」


あまりの告白に、彼が驚愕するのがわかる。それが痛いほど彼女に伝わり、嗚咽が込み上げた。


(言わなきゃ良かった)


取り消すことなどもう無理だった。時が止まって感じるほど、二人の間の空気が重い。


(どうにもならないのに、なんて馬鹿なこと)


どんな言葉がほしかった訳でもない。


彼女の涙が静まるのを待って、アシュレイが尋ねた。


「僕は何が出来る?」


「何も…、放っておいて」


彼女は身を起こした。先の見通しが立たないだけで、具合が悪いわけでもない。着せかけてもらった上着を彼へ返した。


彼はそれを受け取ろうともしない。


「放っておけばどうなるの?」


「さあ」


「さあって…、君はどうするの?」


重なる問いかけに彼女はいつになく苛立った。


「どうしようもないことを聞かないで。ひどい」


やっと引っ込んだ涙がぶり返しそうになり、彼女は唇を噛んだ。彼に非のないことで、自分の感情を押し付けてしまった。


すぐに冷静になり、謝った。


「ごめんなさい。動転していて、失礼なことを…」


「いや、僕も立ち入ったことを聞いた。申し訳ない」


紳士的な儀礼か、立ち去り難そうにしている彼へ、彼女は言葉を変えて改めて伝えた。


「一人にして下さい。その方が楽なの。気遣って下さって、どうもありがとう」


彼は返事をせず、ゆっくりと上着に袖を通した。


ちょっと頭を下げ、


「失礼する」


と、部屋を出て行った。


お読み下さりまことにありがとうございます。

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