11.言いそびれた言葉
事件から二日経った。
身体の痛みはあるものの熱も下がり、ベッドを出ることも出来た。しかし、気持ちが落ちて何をする気も起きない。性格で、起床後はすぐにあれこれ仕事を見つけてこなしていく彼女が、目覚めた後も長くぼんやりとして過ごした。
昼頃には居間のカバーのはげた長椅子に掛ける彼女へ、メイドが大きな花束を抱えて現れた。
(え、まさか?)
メイドが微笑みながら、
「グレイ様からお嬢様へです」
と花束を差し出した。
やはりカードには署名があるのみで、他の文字はない。しばらく受け取った花束を腕に抱き、重さと香りを味わった。
昨日届いた花は寝室に飾った。
(これはどうしよう)
少しだけ気分が動き、自分で花瓶に活けた。それをマントルピースの脇に飾る。周囲を明るくする花の美しさに目が吸い付く。ひと時、何もかも忘れている自分に気づいた。
(お見舞いに花を贈る意味って、確かにあるのね)
お礼状を書こうとして、どうしても筆が進まない。「ありがとうございます」と、礼だけ述べようと思うが、気持ちがこもらない。
迷ううち、
(あの人も、きっと礼をほしがってはいない)
とペンを置いた。
(会う機会があれば、その時言葉で告げればいいわ)
アシュレイからの花束の贈り物は、彼女が休養を続ける間、毎日ずっと続いた。七日目には、飾れる場所には飾り切り、邸は花だらけになっていた。
言葉は何もなかったが、続く花束責めに元気をもらったように思う。
(長く生きてきたけれど、こんなに花を贈られたのは初めて)
しかも、相手はとびきりの素敵な紳士だ。気遣いと親切。紳士的な行為以外の意味はないと知っていても、やはりときめく。彼女は嬉しかった。
襲われたショックは今も深く残るし、一生向き合っていかなければならない傷だと感じていた。
(本物のノアに身体を返しても、あの恐怖を経験したのはわたし。彼女ではない)
本物のノアへの申し訳なさの他に、あれを味わったのが自分で良かったと思った。日々の悩みに死を選ぶほど繊細な女性だ。そこへ男に襲われる悲劇が加われば、きっと耐えられない。
ノアはそう納得したが、本物のノアであれば邸を出ることも稀だった。事件には遭いようもないだろう。
ノアは『子鹿亭』での仕事を再開した。
ジョシュがどう伝えてあったのか、
「両手がふさがっているところにジョシュとぶつかって池に落ちたんだって? 足をくじいた上に風邪をひいたそうじゃないか」
などと、会う人ごとに言われて苦笑した。
彼女はアシュレイに事件のことを黙っていてほしいとは特に頼まなかった。彼女の災難を吹聴する人には絶対に思えなかったので、そう告げることも失念していた。
彼女の思い通り、誰も彼女の被害について知らないようだった。以前と変わらず接してくれる態度が、何よりもありがたい。
誰が犯人かについては、探ろうとは考えなかった。
(忘れられはしないけれど、忘れていたい)
のが本音で、相手を突き止めなどして、もう一度あの心身の痛みをぶり返したくなかった。泣き寝入りに違いないが、それも女性が色んな意味で自分を守る術だと彼女は思った。
幸い、大学は男ばかりで、女性の職員は秘書も含めごくわずかだ。彼女を襲った人物が再びその狭い範囲から次のターゲットを選ぶとは考えにくかった。
注意喚起ぐらいはしたいが、彼女より大学を知るだろうから、余計なお世話ではないかとも思えてしまう。
ともかく、と彼女自戒した。呼び出しには応じない。夜間の大学内の一人歩きはしない。
(わたしが、迂闊な行動を取らなければいいわ)
それらが、いつかアシュレイから注意された事柄だと気づき、改めて自分の軽率さを恥じた。
(あの人は、わたしを危なっかしく感じていたのね、きっと)
気に掛けて送り届けてくれていたのに、事件を防げなかったのは自分の不注意だ。
しかし、悔やんでも遅い。
(起きたことは、起きたこと。時は戻せない)
無理にでも前を向いていくしかない。ノアは忙しい日常に感謝した気分だった。やるべきことがいつも彼女を待っている。それらをこなしているうちは、立ち止まって悩む暇もない。
復帰した日から、当たり前に露店販売も再開した。彼女のこれを待っていた学生も多く、
「良かった。もう止めちゃったのかと思っていたよ」
「僕はノアが結婚したのかと思った。いつまでも独身でいてよ」
「ノアは大学の癒しの君だからさ」
などと嬉しい声が聞かれた。
敢えて、アシュレイの教授室のある方面には行かなかった。もし会えば、どんな顔をすればいいのかわからなかった。
(お花のお礼も伝えなくちゃならないのだけれど…)
彼は被害に遭った直後の彼女を見ている。何があったのかを知る唯一の人物だ。破れたドレスに涙まみれの顔、頬のあざ…。生々しいそれらを晒したただ一人の人だ。
会うのはひどく気まずい。
痛々しそうな目で見られるのも嫌だし、彼の表情に令嬢の純潔を汚した女への蔑みを見つけるのもたまらなかった。
(お花のお礼は、わたしの気持ちがもっと落ち着いてからきちんとしよう)
くるくる忙しく働けば、時間の流れも早い。すぐに店じまいを迎えた。復帰からは、またジョシュの研究室に寄って、一緒に帰るつもりだった。
早くも暮れた校内を、人気を探して進む。常に誰かと共にいるなど、彼女の立場では無理だ。知った人がいれば声を掛け挨拶する。それも防犯のつもりだった。
研究室に着けば、ジョシュは土壌に何かの薬剤を注入し、実験の最中だ。
「遅くなるよ」
と朗らかに言う。作業が楽しいらしい。
「どれくらい?」
「あと三時間はかかるかな?」
「そんなに?!」
毎日これではたまらない。
「先に帰るわ」
彼女はパンの包みを抱え、研究室を出た。しょうがなく、一人で帰ろうと思った。まだ時刻も早く、乗合馬車もある。そこには彼女と似たような勤めの女性客もいるのだ。
(用心は用心として、過敏になり過ぎても暮らしていけないわ)
急ぎ足で門に向かう。
その時、背後から彼女へ駆け寄る足音が聞こえた。瞬時に背筋がこわばった。緊張しながら後ろを向くと、学生らしい男性がいる。
「ノアさんですか?」
「…はい、何か用ですか?」
「僕は数理学科の学生でイーライといいます。グレイ先生からあなたを探すよう頼まれました。ここで僕と少しだけ待ってもらえませんか?」
「え?」
「すぐに『子鹿亭』に向かった別の者が、あなたの不在を確認して、ここに合流しますから」
「は?」
ノアは混乱した。イーライと名乗った学生は、慇懃に彼女を側のベンチに座るよう勧めた。彼女には意味がわからない。
ほどなく学生がこちらへ手を振り、小気味良く駆けて来るのが見えた。二人が揃ったところで、彼女を左右から挟み、先を促す。
(え? エスコートされているの? どうして? どこへ?)
しばらく並木道を歩くと、馬車が脇に停まっているのが見える。彼女はその御者の制服に見覚えがあった。そこでノアは回れ右をして逃げ出したくなった。
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