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目覚めたら貧乏な男爵令嬢でした〜他人の世界の歩き方〜  作者: 帆々


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10.親切と花束


車寄せまで少し歩く。人気が少ないのが救いだった。途中、誰かが二人を驚いた目で見たが、彼は意に介さなかった。


彼を待つ馬車の御者が、主人がノアを抱いているのを認め、慌ててドアを開けた。


「レディは怪我をされた」


御者の視線を避けるように彼女を中へ運び込んだ。


しばらくは無言だったが、アシュレイが口火を切った。


「尋ねさせてほしい」


「え」


「男の見当はつくの?」


その問いに、彼女の脳裏に襲われたシーンがよみがえる。思わずぎゅっと目を閉じた。ふと、かちりと音がし、タバコの香りが漂う。目を開けると彼がタバコをくわえていた。


そのまま吸うのではなく、火を点けただけで、すぐに彼女へ差し出した。


「嫌でなければ。少しは落ち着くから」


「…ありがとう」


タバコなど吸ったこともない。それでも彼女は受け取り、指に挟んだ。見よう見真似で煙を吸い込む。苦いものが喉を通り、瞬時むせた。


「全然美味しくないのね」


「初めは僕もそう思っていた。無理に慣れて、自ら喫煙中毒者になるんだ。まったく馬鹿みたいだ」


「そう」


ノアはもう一口吸い、タバコを彼へ返した。受け取ったそれを彼は当たり前に口に運んだが、気づいてすぐに灰皿で消した。


車内の煙が消える頃、彼女は話し出した。


「大きな人だった。ジョシュみたいな大男っていうのじゃなくて、あなたくらいの、背の高い人だった。力も強くて…、殴られたら、何も出来なくなって。駄目ね。わたしは身体も小さいから、力もないの」


彼は口元を手で覆って横を向いた。そのまま、


「顔は見た?」


と問う。


「いいえ。暗くて。それに覆面をしていたの。服装は当たり前のダークスーツで、特徴もないわ」


「年はどう?」


「若いとは思う。でも、老人ではないという意味」


「指を傷めた?」


「え」


指摘されて思い出した。右手の三本の指先に血が残っている。爪の中に入り込んだため、水でも落ちなかったのだ。


(でもこれは、わたしの血じゃない)


せめてもの抵抗に、男の喉元を引っかいた時のものだ。それを告げると、アシュレイは顔を彼女へ戻した。


「傷は残るか…」


「わからないけど、痛がっていたわ。それで怒らせて、蹴りつけられたけど」


「本当に怪我はない?」


「ええ、多分。殴られたり蹴られたから、あざはしばらく残るだろうけれど」


しばらく店は出られない。


暗澹とした。収入も減るし、ジョシュにたっぷり食べさせてあげられない。全身からにじむようなため息が出る。


「邸に寄ってくれないか? 医者に診せよう。その後で送らせるから」


「いえ、それは…」


彼女は首を振った。


これ以上の厚意は受けられない。


そして、彼の目に今の自分をこれ以上晒すのはひどく辛い。


(早く一人になりたい)



被害に遭ったその夜から、ノアは発熱した。気持ちが原因か、殴られたものによるのか、それとも単なる風邪なのか。


(頭がぼんやりとして、少しだけ気持ちが楽だわ)


彼女はベッドで身を縮こませながら、今の困難に耐えようとした。ララの時も子供を抱え、厳しさを乗り越えてきた。前へ進むための試練だと、意気強くいられた。


(若かったのもあるわ)


けれど、今回受けたのは身体と心へのダメージだ。


しかも、それをアシュレイに知られてしまった。


(あの人には知られたくなかった)


襲われた自分を彼が簡単に抱き上げた。そうされた時、彼女はいつになく狼狽えた。恥ずかしさもあるし、惨めさもあった。いたたまれない思いで、消えてしまいたかった。


(でも…)


傷を負った彼女への対応は親切で、思いやり深かった。とっつきにくさに反して、優しい人なのだろうと思った。


紳士としての義務をきっちりと果たしてくれた。


(それだけだ)


遠く、ドアが強く閉まる音がした。足音も続く。ジョシュが帰ってきたのだ。彼には頼みたいことがある。


傍らのベルを振ろうとして止めた。振ったって、誰も来ない。給金が安い分、使用人は日暮れ前から下がってしまっている。


仕方なく、彼女は大声を張り上げた。


「ジョシュ! 来て」


聞こえないのか、何度か繰り返した。しばらくして、どかどかと廊下をやって来る気配がした。


「どうした?」


ドアからのっそりジョシュが顔を出した。空腹でないようだ。嬉しそうな顔をしている。腹を空かせていれば、悲しそうな顔をしているからすぐにわかる。


「学生におごってもらった」


「恥ずかしいわね。先生のくせに」


「いいんだよ、あいつらは金持ちだからさ」


「具合が悪くて、明日からしばらく店を休むの。『子鹿亭』のマスターに伝えてくれない?」


「それはいいけど、どうした?」


首を傾げてベッドのそばにやって来る。


「このあざは?」


断りもせずに彼女の頬に触れる。ノアが知る以前から、彼は妹にこんな風に振る舞っていたのがわかる。ノアが病気の時も涙ぐんでいたから、仲のいい兄弟ではあったのは知れた。


「コーヒーを配達に行った先で転んだの。階段から落ちて顔を打ったの。ひどいでしょ。それに風邪もひいたみたいで」


「無理するなよ。また倒れたりすると大変だからな。ノアは子猫みたいなくせに、動き過ぎて疲れるんだよ」


「そうかも…。でも、ごめんね。しばらく店のご飯を食べさせてあげられないわ」


ジョシュへは昼の残りをもらい、彼女が調理して食べさせていた。働き者の彼女への純粋なマスターの厚意だ。休むのだから、それは遠慮するべきだろう。


「いいよ。また学生に食べさせてもらうからさ」


「止めてよ、みっともないから」


「レポートを見てやる対価なんだから、これも正当な報酬だぞ」


「そうなの?」


ジョシュはへらっと笑う。彼女にゆっくり休むように言い、出て行った。


(正当な報酬だなんて。どうかしら?)



翌日、想像したように顔のあざが目立ってきた。男に蹴られた腰も痛んだ。


水以外は喉を通らない。


ベッドで時折り寝返りを打つだけの時間を送る。


そこへメイドがやって来た。大きな花束を抱えている。


「お嬢様にグレイ様から」


「グレイ?」


花束にはカードが添えられていた。メイドが差し出すそれには、『アシュレイ・グレイ』とある。


(あの人、そういう名前なんだ)


カードには署名の他文字はない。


きれいに包まれた色とりどりの美しい花が、ひと抱えもある。彼の邸の温室のものなのか、花屋から届けさせたものなのかはわからない。


寒々としたノアの部屋にぱっと色味が差し、周囲が明るくなる。メイドに頼んで、花瓶に活けてもらった。


(昨日の今日で、無視できなかったのかも)


アシュレイの紳士らし過ぎる振る舞いが翌日にまで及び、ノアはちょっとあきれもした。


けれど、決して悪い気はしない。しばらく、目が花から離れない。


お読み下さりまことにありがとうございます。

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