9.ノアの涙
ちょうど店を閉める時だった。大学内には小間使いのような少年が働いている。職員や学生の使い走りが主な仕事だ。
「どうぞ」
ノアに渡されたのは、紙片だった。
「ありがとう」
礼を言い、折った紙を広げた。中にはジークの名で、至急来てほしいとある。『子鹿亭』から近い講義室にいるから、との呼び出しだ。教授室は急なトラブルで使えないと、詫びの文言が添えられていた。
不思議に思いながらも、足はそちらへ動いた。アシュレイとの約束に障るな、と気に掛かったが、
(長引きそうなら、明日にしてもらえばいい)
と考えた。
足早にジークの待つ講義室へ向かう。
大学の理事であり友人のキアヌが近々結婚すると聞いたから、それに関することかと思った。贈り物だとか、パーティーのことだとか。
(婚約者の女性は、貴族ではない一般女性らしいから、それに近いわたしの感覚が聞きたいのかも)
すでに暮れた大学内は、人気が少なかった。寮の近くや夜間営業の店がある場所は賑わっているだろうが、『子鹿亭』の周囲は教授棟と理事会館、それに講義室があるばかりだ。
建物に入り、目当ての講義室を探す。
(二階の205号室…)
ドアを押して入ると、誰もいない。室内も暗い。間違えたのか、と手紙を確かめようと、窓辺に行った。外から入る街灯の灯りに手紙を照らした。
その時、がちゃりとドアが開く音がした。
(ジークだわ)
彼女が振り返るのと、腕をつかまれるのが同時だった。強い力で床に押し倒された。背中に受けた衝撃と痛みで、一瞬頭が真っ白になる。
けれど、すぐに相手がジークではないと気づく。大柄な男で、覆面をしていた。それを通してもわかる荒い呼吸をしている。組み伏せられながら、ノアは懸命に抗った。
身体を左右に強く揺すり、脚をばたつかせた。
「誰かっ!」
助けを呼ぶ声を出したところで、頬を殴られた。平手ではなく拳でだ。口の中が切れ、血の味が広がった。一度ではなく、二度三度頬を打たれ、頭に星が散った。
口の中に丸めた布が押し込まれた。これでは声も出せない。
彼女の抵抗が止んだのを待ち、男はドレスに手をかけた。手を突っ込み乱暴に足を開き、下着をもぎ取る。
(嫌だ!)
がっしりと男に抑えつけられ、身動きが取れない。ノアは華奢で小柄だ。非力なため、気持ちに力がついてこない。
(ララの身体なら、もっと抵抗できるのに)
悔しさと恐怖に、彼女は泣き出した。
痛みと屈辱で、死にたいような気分になる。ただ早く終わってくれと願うばかりだった。
一方的な行為は長くなかった。荒い息をして男が果てる。用を済ませたのち彼女を放し、身を起こしかけた。
その時、ノアが男の喉元に手を走らせた。彼女の指が男の首に達し、爪が深く傷をつけた。
「っつ!」
男が痛みに声をもらした。彼女の反撃を許さない。立ち上がるや、靴先で彼女の腰を蹴りつけた。
「ああっ!」
痛みに身体を折った彼女を男がもう一度強く蹴り、足早に部屋を後にした。彼女の頭上でがちゃりとドアが閉まる。
しばらくは動けなかった。
どれほどそうしていたのか。
ノアは泣きながら起き上がった。身体中が痛い。そして心も傷ついていた。
ドレスに敗れた箇所があった。それはどうしようもないが、何とか身を取り繕った。頭ががんがんと痛む。
(殴られたせいだわ)
こんな場所にいたくもない。自分で自分を抱えるように外へ出た。
(とりあえず、身体をきれいにしたい)
店に戻ることにした。あそこには清潔な水もタオルもある。
力を振り絞るように、店に戻った。カウンター内部に入り、灯りを絞って、ドレスを脱いだ。男が触れた場所をぬらしたタオルで拭っていく。脚の間を拭うとべったりと血がついた。
(ごめんなさい、ノア)
借りた身体だと、意識していたはず。その大事な借り物を汚してしまった。
本物のノアへの申し訳なさの後で、どうしようもない悲しみが彼女を襲った。そればかりは抑えようもない。感情に押しつぶされるように、泣きながら身体を拭っていった。
冷たいタオルは汚れを取り去ってくれるが、その冷たさが気持ちの惨めさをあおった。
(どうしてこんな目に…)
一通り身体を拭き終え、破れたドレスを身にまとう。凍えるように寒かった。それが惨めさに拍車をかけ、一旦収まった涙がまたぶり返し、頬を伝う。再び、子供のように彼女は泣きじゃくった。
その時、不意にドアベルが鳴った。
(しまった。鍵をかけていないわ)
店がまだ開いていると勘違いした客がやって来たのかもしれない。と、身をすくめた。とても人への対応などできない。彼女は居留守を使おうと息をひそめた。
ドアが閉まる音に続き、中へ入る靴音がした。
「ノア、僕だ。まだいるの?」
アシュレイの声だった。
彼女はやっと彼との約束を思い出す。事件のせいで、彼のことをすっかり忘れていた。ずいぶん待って、ここへやって来たのだ。
申し訳なさと同時に、
(どうしよう)
とひどく狼狽えた。
と、足音が近づく。カウンター内は灯りがあるから当たり前だった。
ほどなく、中で縮こまる彼女を彼が見つけた。その様子に絶句する。髪も乱れ、頬は殴られた跡が生々しく、ドレスは明らかに破られていた。
「ノア…」
それきり声が続かない彼の前で、ノアは恥ずかしさでいたたまれなくなった。それを堪えて、頬の涙を荒く拭った。
「ごめんなさい、お待たせしたのね。今日は、もう帰って下さい。勝手だけれど…」
彼女の言葉に返事をせず、彼はカウンターの中に入って来た。床に膝をつき、
「…何か怪我は?」
と尋ねた。
彼女は無言で首を振る。明日になれば、蹴られた箇所はあざになるだろうが、切り傷や骨折などもないようだった。
彼の強い視線に耐えかねて、彼女は顔を背けた。
「何があったか、教えてくれないか」
彼の問いに、彼女は出来事をぽつぽつと簡潔に話した。ジークの名をかたる手紙で呼び出され、襲われたこと…。
「始末をしなくちゃと、ここに戻ってきたの…」
そこでアシュレイが立ち上がった。上着を脱ぎ、彼女に羽織らせた。
「あなたの上着が汚れるわ」
それに返事をせずに、彼女を抱き上げた。その振る舞いに、彼女は我を忘れるほど取り乱した。彼にとっては小さな抗いを許さず、彼女をしっかりと腕に抱いた。
ノアの灯した小さなランプをちょっと身を屈め、ふっと一息で消した。暗く静まった店内で、もう一度彼女は繰り返した。
「止めて、汚れるから」
「見くびらないでくれないか」
怒ったような声が返る。
彼女は黙り込んだ。返す言葉が浮かばなかった。
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