第七十一話 伝説
ああ!
(――本当なら、もう少しあとにする予定だったけど)
ファーリの目の下の隈を見る限り、どうも彼女は僕と別れたあとに相当に無理をしたようだ。
これならもうやれそうだと判断した僕は、手のひらに指輪を一つ握りこむと、
「け、消される? わたし、消されちゃうの?」
突然何かの発作に襲われたように騒いでいるトリシャを置いて、ファーリのもとへと向かう。
「……〈ブリーズ〉! ……〈ブリーズ〉! ……〈ブリーズ〉!」
あいかわらずファーリはこちらの騒動にも目もくれず、一心不乱に魔法を使い続けている。
もはや取りつかれたように、と言ってもいいほどの様子だけど、その顔がどこか楽しそうなところが救いだろうか。
「ファーリ、ちょっといいかな?」
それでも僕が声をかけると、
「ん、なに?」
と明るい顔でこっちを見てくれる。
……まあ、本音ではまだ魔法の練習に未練があるのか、手元に視線を落としては慌てて戻しているのがバレバレだけど、気付いていないフリをしてあげることにする。
まあそれよりも、本題だ。
「ちょっと試してもらいたいことがあってさ。その指輪、一つだけ外して……」
そう、口にした瞬間、
――ズザザザザザザザァ!!
という擬音が聞こえるような速度で、ファーリが座り込んだ姿勢のまま逃げ出した。
「え、えぇぇ……」
僕が目を見開く前で、ファーリは背中が壁にぶつかるまで後ろに逃げて、それでも足りないとばかりにずりずりと部屋の隅まで逃げ続ける。
そうして部屋の隅に張りついた彼女は、まるで虐待でも受けた子供のようにプルプルと震えながら、右手に収まった指輪を必死に隠そうとしていた。
予想を超えた反応に、流石の僕も対応に困る。
「あ、いや。別に、取り上げようって訳じゃないんだよ?」
とりなすように僕は言うけれど、ファーリの怯えようは変わらない。
ただ、覚悟を決めたように小刻みに首を横に振って、
「だ、だい、だいじょうぶ。これは、レオのもの。か、返せというのなら、従う、から」
どう見ても大丈夫じゃなさそうな顔色をして、それでも彼女は震える手で右手から指輪を一つ抜き去ると、ギュッと目をつぶってそれを僕に差し出してくる。
まさに断腸の思い、とでも言うべきその態度に、なんだかいじめているような気分になってしまったけど、少しだけ嬉しく思ったのも確かだった。
(――やっぱり、いい子なんだよなぁ)
渡した指輪をそれだけ大事に使ってくれているというのも貸した側としては気分がいいし、そんな重要なものでもごねずにきちんと筋を通して僕に返そうとしてくれる辺り、根が善良なんだろうと思う。
(ごめんね)
と心の中で謝りながら、差し出された指輪を受け取って、代わりに持っていた指輪を彼女の指に嵌め込んだ。
「あ、れ……?」
目を開けたファーリは、新しく自分の指に収まった指輪を見て、首を傾げる。
さっき渡してもらった指輪も、今つけてもらった指輪もどちらも同じ〈ウッドリング〉だから、区別がつかなかったんだろう。
物問いたげな視線にはあえて答えず、僕は口を開いた。
「さっき言った通り、試してもらいたいことがあるんだけどいいかな?」
一方的な言葉にファーリはちょっと戸惑ったようだけど、
「ん、まかせて。レオの頼みなら、全力でやる」
すぐに瞳に炎を宿して、大きくうなずいてくれた。
そこまで気合を入れるようなことじゃないんだけど、まあちょうどいいと言えばちょうどいい。
「じゃあさ。ちょっと〈トーチ〉を使ってみてほしいんだ」
僕が言うと、ファーリは大きく目を見開いた。
それから、目を伏せる。
「……ごめん、なさい。わたしは、火魔法だけは使えない」
前に少しだけ、彼女からも話は聞いた。
火こそがレヴァンティン家の主属性であり、幼少期の体験で属性が水に偏ってしまったことによって、火魔法が全く使えなくなってしまった、と。
そしてそれ以来、家の中での彼女の居場所はなくなって、日陰の生活を強いられてきたことも。
実際、初級魔法を無限に使えるようになってから、彼女が火の魔法を何度も試して、そしてその全てで失敗していたのも目にしている。
「いいから、いいから。物は試しってことで」
それでもゴリ押ししてくる僕の言葉に何か感じるものがあったのか、ファーリは躊躇った末にコクンとうなずいた。
「――〈トーチ〉」
小さな声で、魔法の詠唱を行う。
けれど無慈悲にも、魔法が発現することはなく……。
「もう一回、お願い」
それでも僕は譲らない。
思いがけない指示に、彼女は一瞬だけ傷ついたような顔をするが、
「――〈トーチ〉」
すぐにそれを押し殺すように、二回目の詠唱を始めた。
……結果は、沈黙。
何も起こる気配のない自分の手のひらをファーリはしばらく見つめて、静かに首を振る。
そして、「これで分かったでしょ」と言いたげな濡れた瞳で、僕を振り返った。
「もう一回」
それでも、僕の返答は変わらない。
彼女は何かを堪えるみたいに唇を噛んで、三回目。
「――〈トーチ〉」
かぼそい声で、彼女が魔法名を口にした、その時……。
「…………え?」
その手のひらには、確かに小さな灯が光っていた。
「う、うそ。そんな、はず……」
彼女は慌てて魔法の火を消して、もう一度、
「〈トーチ〉!」
と唱える。
すると当たり前のように、彼女の手元には魔法の灯が現れて……。
「……つか、えた?」
火を見つめたまま、彼女は呆然とつぶやいた。
「ファーリ……」
じっと自らの生み出した魔法の火を見る彼女の心の中で、一体何が起こっていたのか。
それは分からない。
ただ、凍り付いていた気持ちがゆっくりと溶け出すみたいに、彼女の頬をつぅぅ、と一筋の涙が伝う。
けれど彼女は、すぐにその涙をゴシゴシと乱暴に拭うと、まるで太陽みたいな笑顔を見せて、
「つ、使えた! わたし、火の魔法が使えたよ、レオ!」
湧き上がる興奮のまま、彼女は本当に嬉しそうに前のめりになって僕にそう叫んで、そして……。
「――ファーリ!?」
ふらり、とその身体がかしぐ。
まるで突然電池が切れてしまったように、明らかに受け身も取れないだろう体勢で倒れ込むその身体を、間一髪で受け止めた。
「ファーリ!? 大丈夫、ファーリ!?」
とっさに魔力切れを疑ったけれど、彼女のMPゲージにはまだ魔力が残っている。
まさか何かしらの攻撃でも受けたのかと思った瞬間に、気付いた。
僕の腕の中、目の下に大きな隈を作ったその少女はしかし、どこか嬉しそうな顔をしていて、
「すぅぅ、すぅぅ……」
と、安らかな寝息を立てていたのだった。
エキセントリック寝落ち!