アザミの花咲く丘
色とりどりの花が咲き乱れる王宮の庭園を背景に、ユーフェミアは、自らの婚約者でありこの国の次代の王となる王太子アーノルドと向かい合っていた。
間近に迫る卒業式の準備に追われ、婚約者同士のお茶会も久しぶりのことで、二人の間の空気はどこかぎこちない。
それでも、今日しかない。そう決めていた。
ガゼボに設けられたテーブルの上、手にしていたカップを静かに置いて彼女は切り出す。
「殿下。わたくし、殿下に一つお伺いしたいことがあるのです。よろしいでしょうか?」
「どうしたのユーフェミア?そんなに改まって…私と君は婚約者なのだから、そんな風に気負わず話してくれていいのに」
相変わらず固いなあと、困ったように殿下は笑う。
婚約者として選ばれて早4年、未だに私は、この方の瞳をまっすぐ見つめることができない。
その理由は、もうずっと前から分かっていた。
「それは…、これからわたくしがお伺いしたいことは、荒唐無稽なことです。殿下のお気を、悪くさせてしまうかもしれません。ですので…」
膝の上に置いた手に思わず力が入る。皺になると怒られてしまいそうだけれど、ドレスのひだをぎゅっと握りしめて心を奮い立たせる。
「ご無理を承知でお願いいたします。もしご不快に思われた際は、どうかその責めは、わたくしだけに負わせていただきたいのです」
「…それも覚悟の上で、話したい事なんだね?」
なんだかそれはドキドキするねと言いながらも、先ほどと打って変わった真剣な表情で私と向き合う。
「分かった。ユーフェミアの願いはかなえよう。それで、話とは?」
殿下の合図に応じて、側近や侍女たちが静かに退いていくのを待ちながら、ゆっくりと深呼吸する。
もう、後戻りはできないのだ。
「…殿下。いえ、あなた様は、一体どなたですか?」
「…ミア?いったい何を」
「どうか、最後までお聞きください。
学園を卒業すれば、すぐに結婚の儀の準備が始まります。その前にどうしても、お伺いしたかったのです。
お願いいたします、どうか教えてくださいませ。あなたは、あなた様はいったいどこのどなたなのでしょうか?
いつから、入れ替わっていらっしゃるのですか?」
息をする間を惜しむように一気に言い募り、思わずぎゅっとつぶっていた目を恐る恐る開く。長いまつ毛に縁どられた大きな目を数度瞬かせたけれど、殿下の表情に変化はない。
(私の、勘違いなの?)
でも、違う。ずっと疑問だった。ずっと、違う、と思っていた。
彼は、あの時の“彼”じゃない。
「驚いたな。君はそんなことを考えてたの?」
「…大変失礼なことを申しているとは存じております」
「そう考えた根拠を聞いても?」
「―初めて、婚約者候補として王宮にあがった時のことです」
◆◆◆
8歳の時、初めて婚約者候補として王宮に集められた私は、殿下を待つ間にと他のご令嬢と共にお庭を案内してもらっていた。
美しい庭に夢中になったせいか皆と離れてしまい、気付けば王宮の奥地と思われる、アザミの花に囲まれた池の畔に迷い込みー
そこに“彼”がいた。
太陽の光を受けて透ける眩い赤髪、夜の闇のような漆黒の瞳。
それが誰であるかは、幼い私にもすぐに分かった。
距離があるために会話までは聞き取れないが、
“彼”の前には血の気を失ったように顔面を白くさせた男が跪いている。
決して楽しい場面でないことは予測がついた。
恐らく侍従か何かであろう、大の大人が小さな子供相手に必死に許しを請う光景にどこか寒気を覚える。
ー見てはいけないものを見ている。
そっと息を潜め、気付かれぬように立ち去ろうと踵を返したその刹那
ダンっと一際強い音が聞こえて思わず振り返る。
“彼”は、白い手袋に覆われた侍従の右手を思い切り踏みしめていた。
ぐりぐりとまるで握りつぶすかのように踏みつけられ、男は必死に悲鳴を耐える。あっという間にまっさらだったそれが薄汚れ、じわりと赤い色が滲み出すのを、目を逸らすこともできずに見つめていた。
きっと、あの侍従は何か酷い粗相をしたのだ。そうでなければ、あんなことはしない。
そう言い聞かせてみるものの、自分の心臓の音がどくどくとやけに大きく聞こえ、“彼”に聞こえてしまうのではと空恐ろしくなる。
いつまでも続くかと思われたその光景は、侍女と思しき女性が近づいてきたことであっけなく終わりを迎えた。
呼びに来た彼女もひどく青ざめていたが、それを気にするでもなく、
目の前にいる侍従のこともすっかり忘れたかのように“彼”はすぐさま歩き出す。
侍女と共に“彼”が去り、その姿が完全に見えなくなって初めて、近くに控えていた騎士が侍従に駆け寄った。
恐らく“彼”の前では、助け起こすことすらできなかったのだろう。
二人が居なくなるのを待って、私は無我夢中で来た道を走り戻った。
===
『まあ、ユーフェミア!どこに行ってたの?』
母は私を叱ろうと身構えていたが、顔を青くさせ小刻みに震える姿を見て、何があったのかと問い質す。
私はただ、王宮の庭園を案内してもらっている間に迷子になり、もう戻れないかと不安だったと答えるしかなかった。
母はもちろん納得できない様子だったが、そこに“彼”は現れた。
『皆様、アーノルド殿下のお越しです!』
“彼”は、先ほどとは打って変わった穏やかな微笑みを携え、優しく皆に声を掛けている。
―まるで、今さっき私が見てきた事など夢だったかのよう。
それからその会が終わるまで、私はひたすら“彼”と目が合わぬよう、目立たぬよう、息を殺すように過ごした。
◆◆◆
「その後、何度かの選考を兼ねたお茶会で殿下とお会いする度、ひどく緊張していたのを覚えています。でもあの日以降、常に殿下は王太子として毅然とされ、傍仕えの者たちにも慕われていらっしゃるお姿を見て…あれは、わたくしの見間違いだったと、何かの勘違いだったのだと思うようになりました」
今思えば髪と瞳の色で殿下だと思っただけで、顔をきちんと見た訳でもない。
だから、あれはよく似た別人かもしれない。もしくは本当にとんでもない粗相があったのかもしれない。
そうやって自らに言い聞かせて、納得できたように思えても、時折―
あの時、跪く男の手を踏み潰していたその横顔が、
幼い少年の顔とは思えないほどに歪んでいたこと。
その光景を完全に消し去ることができず、ますます私の思考は堂々巡りに陥った。
そんな自分の考えを悟られるのが怖くて、殿下と顔を合わせる機会をできる限り避けようと、妃教育として与えられる課題にひたすら打ち込んだ。
他のご令嬢方が殿下に自分を売り込もうと熱心な最中、一心に学業に取り組むその姿は図らずも周囲に高く評価され、結果的に正式な婚約者として選ばれることとなった。
「婚約者として正式に選ばれ、殿下と二人で話すようになってから、…本当に素晴らしい方だと、尊敬できる方だと思うようになって、だから、私は」
あんなに怖がって、恐ろしがっていたのがウソだったみたいに、あっという間に恋に落ちて。
だからこそー
あの日の“彼”と目の前の殿下が結び付かず、再び昔の記憶を思い返すようになった。
「学園に入ってから、殿下はご公務で、私も妃教育が佳境に入って忙しくなり、王宮に伺っても殿下とお会いできないことも多くて…。そんな日にはよく、王宮の図書館で過ごすようになりました」
妃教育とは関係のない読み物や気になった本を、ほんの少しだけ読み進める。その時間は、私にとって唯一の休息時間でもあり、侍女や護衛の騎士たちも気を遣って席を外してくれていた。
「本を読むのは、いつも決まった席でした。そこは図書館の端、大きな窓のそばで、窓の外には裏庭の一部が見える、光がたくさん入るけれど、静かでお気に入りの場所でした」
あれは本当によく晴れた日、燦々と降り注ぐ太陽が眩しくて、でも光を受けた庭の緑が美しくて、本を読みながらも外の風景についつい気を取られていた時のことー
「ある日、その窓辺から裏庭のほうを見ていた時に、殿下によく似た男性を見かけたのです。殿下はまだ学園にいらっしゃる時間で、そこにいるはずはないのに…」
太陽の光を受けて透ける赤髪は、王族の男性だけに現れる特別な髪。今は殿下と、その御父上である国王陛下以外、その髪を持つ者はいない。妃教育で、何度も何度も教師から聞かされたこと。
だからこそ、その時、全てがつながった気がしたのだ。
「それから、時折ですがその方を見かけるようになって、殿下に似ているようでどこか雰囲気の違うその方こそが、あの時の“彼”だったのではないかと思うようになったのです」
「なるほど。そうすると、今目の前にいる私は偽者ってことになるね」
「…大変失礼なことを申しているとは、存じております。殿下にご不快な思いをさせてしまった咎は、いかようにもお受けします。ですがその前に、どうか最後の情けとして、教えていただきたいのです。あなたは一体、どなたなのかを」
顔を上げ、目の前にいる彼の顔をまっすぐに見やる。
こうして見つめると分かる、彼の瞳は真っ黒なんかじゃない。
少し茶色がかった、優しい黒。
大きく息を吐くと、彼は意を決したように私に向き合った。
「…そっか、アルが時々抜け出してるのは聞いてたけど、ミアにまで見られてたとはね」
「殿下、では」
「君が知りたがっていることを話そう、ユーフェミア。楽しい話じゃないけど、聞いてくれる?」
===
君が考えている通り、僕はアーノルドじゃない。
本当の名前は、ルドルフ。姓はないから、ただのルドルフだよ。
母は、王都から離れた地方出身の男爵令嬢で、王宮に仕えるメイドの一人だった。19のときに王弟殿下と恋に落ちて、俺を身籠ったって聞いている。けれど、殿下が落馬事故で急死され、そのショックから体調を崩した彼女は、殿下との関係を誰にも言い出せぬまま、実家に逃げ戻るようにして俺を生んだ。
あまり丈夫じゃなかった母が流行り病であっけなく死ぬと、祖父母は、王家譲りのこの見た目があらぬ誤解を生むことを恐れた。爵位を返上して、市井の中で隠れるようにして俺を育ててくれた。…けど、誰かに見咎められるんじゃないか、そう常に怯えて暮らす生活は、長くは続かなくて。
俺が8歳、アーノルドが7歳の時、俺は王家から見つけ出され、隠し続けることに疲れていた祖父母はすぐに俺を差し出した。
最初はあくまでも、俺は勉強や公務を嫌がるアルの代わりにそれをこなすため、誘拐や毒なんかの危険から身を守る、体のいいスペアのはずだった。俺自身もそう聞かされていたし、少なくとも王妃殿下はそう考えていたと思う。精神的に不安定なところはあったけど、アルは、人前では王子らしく振る舞っていたから。
けど、君が見た通り、身近にいる侍女や側近たちの前ではいつもあんな風だった。最初からそうだったのか、何がそうさせたのかはわからない。その身分を盾に、周りにいる者たちを痛めつけて、傷つけて、時には再起不能になるまで追い詰めて…。何度も、何度も側近の顔触れが変わった。陛下や王妃殿下の前ではにこやかに振る舞っていたからこそ、それは余計陛下を悩ませたらしい。妃殿下も、最初はほとんど信じていないくらいだった。あの方は、もしそんな事実があるとしたら、それは幼さゆえの癇癪だと、成長するにつれて収まるはずだと考えていたから。
アルが9歳になってすぐの頃、あいつに追い詰められた侍女の一人が、自殺したんだ。
その頃のアルの振る舞いは、王宮の内部だけでは隠し切れないほど酷くなって、ちょっとしたことでも周りに当たり散らす彼に、皆怯えていた。その状態のアルを外には出せないと判断されて、凡その教育が済むと、人前に出るのは全部俺の仕事になった。実を言えば、二度目以降にユーフェミアに会っていたのも、身代わりの俺だったんだ。
恐らく、その件が最後の契機になったんだと思う。陛下やその側近方は、俺とアルを完全に挿げ替えることを決断された。それから程なくして、アルは、幼い頃からずっと仕えていた乳母とわずかな護衛と一緒に、王宮の奥で過ごすよう手配された。妃殿下は最後まで抵抗されていたけれど、陛下の考えは変わらなかった。
そして気付けば、対外的にも王宮の内部でも、俺がアーノルドになっていった。
もし、君の眼に俺が王太子らしいとか、周りの者に慕われてるように感じられたなら、それは全て、この居場所を失いたくないがための演技の賜物に過ぎない。
誰にも、失望されたくなかったんだ。陛下にも側近にも、学園の同級生たちにだって。
みなに失望されたら、もう必要ないと思われたら、その瞬間、俺の居場所なんて簡単に崩れてしまうのを知っていたから。
必死だった。どうしたら王太子らしく振る舞えるか、側近たちに気に入られるのか、毎日毎日そんなことばかり考えて。
傍から見たら滑稽でも、道化でも、
ただ、死にたくなかった。
===
「ミアには、知らないままでいて欲しかったんだ。俺が本当のアルじゃないことも、王子として取り繕うのに必死なことも」
「…ご無理を言いまして、申し訳ございません」
「いいんだ。肩の荷が下りたよ」
そうやって肩をすくめ、いつものように優しく笑う殿下を見て、身体の強張りがふっと解けるように思えた。
いつの間にか膝の上で固く握りしめていた私の手をとって、彼が尋ねる。
「私が嫌になった?ユーフェミア」
「いいえそんなこと有り得ません。ただずっと知りたかった真実を知れて、なんだかほっとしています」
「…君は強いね」
いいえ私は強くなんてない。
あなたが“彼”じゃなくて、うれしいと思ってしまう。
弱くて、ずるい人間だ。
「きっと、もう気付いていると思うけど、アルは今病に伏している。少しずつ四肢が動かなくなり、神経が麻痺していく、病だ」
(ああ、やはり)
「そう、でしたか…」
それは、異国から伝わったとされる、珍しい毒の典型的な症状。
ここしばらく“彼”を見かけることがなくなってから、ずっと胸騒ぎがしていた。
「陛下が、私たちの結婚までには全ての憂いを取り除くと、そう、決められたんだ。恐らく春までにはもう、」
「…妃殿下は?」
「あの方は、最後まで諦められなかった。だから、陛下によって同じように隠されるだろう。恐らく、そう時を置かずに」
そう言って目を伏せた彼は、ひどく寂しそうに笑った。けれど再び顔を上げた時にはもう、いつもの表情に戻っていた。
今になってようやく、妃殿下と一緒にいらっしゃる時の彼の表情が、どこか強張っていた様子を思い出す。
そして妃殿下がその姿を、苦しそうに見ていたことも。
この方と妃殿下の間にあったものは、どんな想いだったのだろう。
私がそれを推し量ることなんて、できようもないけれど。
「わたくしは、どうなりますでしょうか」
「何も、変わらないよ。どうして?」
「知らなくてもよいことを知りすぎましたので…」
「何も変わらない。むしろ、すごく忙しくなると思うよ。妃殿下の仕事もすぐに回って来るだろうし、1年なんてあっという間だよ」
そう言って私の手をぎゅっと握って、君と結婚できるのが楽しみだと言ってくれる、あなたに。
「殿下、いえルドルフ様」
こんな弱くてずるい私でも、あなたが必要としてくれるなら。
「私は、あなたのお傍におります。これからもずっと。…ですから」
彼の手を握り返し、その優しい黒茶の瞳をまっすぐ見つめる。
「あなたが背負おうとしているものを、私にも分けてくださいませ」
絶対、一人になんてしないから。
「二人で一緒に抱えましょう?秘密は一人では、重いものです」
今度はくしゃりと顔を歪め、泣きそうな顔で彼は笑った。
やっと私たちは、本当の夫婦になれる気がした。
「…ありがとう」
1年後、王太子アーノルドと公爵令嬢ユーフェミアの結婚の儀は華々しく執り行われ、国中が祝祭に沸いた。
5日間に亘るその祝祭では、パレードを行く王太子夫妻の姿を一目見ようと大勢の人々が集い、にぎやかな屋台や振る舞われる祝い酒に皆が酔いしれた。
式の前、王妃殿下が急な病に倒れ離宮に移された報は既に周知となっていたが、祝い事に沸く民衆が気に留めることはなかった。
―国中が喜びに溢れる中
王家が所有する領地の一角、アザミの花が咲き乱れる丘の上に建てられた小さな墓。
その場所に、まだ年若い夫婦がひっそりと訪れたことを、知るものは少ない。
アザミの花言葉:わたしに触れないで