悪意ある甘香
そうして二人と二羽は行方不明になった父親の捜索に向かったのだ 二人はまず少年の父親の痕跡を探すことにした 森の中は鬱蒼としていて昼間だというのに薄暗い 獣道のような細い道を歩き回り痕跡を探るも特に何も見つからない 時折見かける動物達ですら怯えるように逃げていく
森は深く何処までも広大である
迂闊に彷徨けば間違いなく遭難する
「フギン、ムニン、空から何か怪しいものが無いか調べて来てくれ」
フギンとムニンは返事をする様に高く鳴いて空高く飛び上がった
「…羽が生えたやつはこういう時に役に立つなあ」
「フギンもムニンも賢いからな、きっと何かを見つけてくれるだろう」
「さて…んじゃあ、俺たちは俺たちで探索を続けるかねえ」
鬱蒼と生い茂り、前に進むことさえ儘ならない森
蔦やら枝やら切りながら前に進む
「しかし、進めど進めど先が見えないな…」
「だぁっ!くそっ、髪が木の枝に引っ掛かりやがった」
聖職者が後ろを向けばもがいている薬師の姿
長い髪が枝に引っ掛かり、枝が戻ろうとする反動で引っ張られて痛みが襲った
「動くな」
腰に携えたナイフを使って枝を切り落とし、髪が絡まった部分をほどいてやればやっと解放された
「悪いな…助かった」
「その髪、切ったらどうだ」
「いや、好きで伸ばしてるからよ…」
そんな会話を続けながらも進む、そうしてやっと開けた場所に出た
太陽の光が降り注ぐ場所
近くには清らかな水が湧き出る泉があった
「ありがたい、少し休もう」
「賛成だ…はあ…やれやれ」
水は木漏れ日を受けきらきらと水晶の様な輝きを放ちながら涌き出ていた
薬師が革袋に水をたっぷりと入れる
「はあー…良かった良かった…まさかこんなところに湧水があるなんてな」
回りには空き瓶や、鍋、干し肉の欠片なども落ちていた
「人がいた形跡があるな、冒険者が休憩を取ったのだろうか?」
「夜営の跡じゃねえのか?珍しくもないだろ」
どかりと座り包みから取り出した小麦粉の焼き菓子(恐ろしいほど硬い)を聖職者に手渡し
残りをかじりながら言った
「いや…だが…臭わないか?」
夜営の跡に似つかわしくない頭を侵す様な糖蜜を煮立たせた様な甘い香り
残り香の様に漂う嫌な気配
「ああ、嫌な臭いだ」
薬師が眉間に皺を寄せて吐き捨てた
がさがさ、と森の奥の茂みが動いた
魔物かはたまた、悪魔か
身構える二人の前に現れたのはどちらでもないフードのついたマントを羽織った人影だった
手には木製の桶を持っている
フードを脱いだらそこから現れたのは女性だった
儚い、栗色の髪の毛の美しい女性だった
「あら?冒険者の方かしら?」
女は優しい声音で言った
「あんたは?」
聖職者がぶっきらぼうに言った
「私はリリンと言います、この森の奥にある小屋に住んでいるものですわ」
「へえ、あんたこの森に住んでいるのか?なあ、ならこの辺りで狩人を見なかったか?」
柔らかな微笑みを浮かべるリリンと名乗る女に、薬師が尋ねる
「狩人?…いいえ、見かけませんでしたわ」
「そうか、見なかったか…」
「仕方ねえ、もっと奥の方を探すか…」
「だが、もう陽も暮れる…暗い中を闇雲に探したからと言って見つかるとは思えない、だが、フギンもムニンもまだ帰って来ないし…」
薬師と聖職者が顔を見合せる
「あの…もし、よろしかったら今夜はうちに泊まられてはいかがでしょうか?」
「あん?」
これは薬師だった、呆気にとられた様な声を上げた
「もうそろそろ陽も暮れますし、このまま歩いて迷われては大変です」
「いや、俺たち…」
「では、お言葉に甘えて」
言いかけた薬師の口を聖職者が手で塞いだ、もがもがと抗議の声を上げるが言葉にならない
「大したおもてなしは出来ませんが、どうぞ」
ランプに火をつけて案内をするリリンを先頭に聖職者と薬師が着いて行く
「おい…!どういうつもりだ」
薬師が小さな声で聖職者に怒鳴る
「どう考えても怪しいだろうが!こんな深い森ん中に女が一人で住んでるなんて…!それにわかってんのか」
薬師が懐から龍の装飾が施された針水晶の嗅ぎ煙草入れを取り出して金の蓋を開け香草の匂いを嗅ぐ
そして不機嫌そうに告げる
女が近付いてから、ずっと思っていたことだ
「この臭い…夜営の跡に残ってた臭いだぜ」
「大丈夫」
聖職者は微笑んで言った
「俺はこういうものには強いんだ」
「どうぞ、狭い場所ですが」
狭い、とは言っているが謙遜だろう
少なくとも野郎二人が住んでいる家より遥かに広い
小屋ではなく、屋敷だ
森の中にあるのが信じられないほど大きな
シャンデリアに飾られたクリスタルが反射して辺りがちらちらと暖かい光に照らされていた
「はあー、立派な家に住んでるんだな」
薬師が感心した様に言った
大理石の像やら、美しい装飾が施された階段
近くには見るからに高そうな壺
絢爛豪華な調度品があちこちに飾られている
「独り暮らしの家にしては広いな」
聖職者が女に尋ねれば、女の明るいブラウンの瞳に影が落ちる
「これは全て夫のものですの」
「あんた、旦那さん居るのに知らねえ男を上げて良いのかい?」
薬師が驚いた様に尋ねれば、女は悲しげに微笑み
「夫は…」
「……そうかい、悪かったな」
薬師がばつが悪そうに頭を掻けば、女は悲しみの影を隠す様に優しく笑った
聖職者は話の内容にさして興味は無さそうだった、ただじっと《あるもの》を見ていた
ホールに飾られた美しい金の装飾が施された大きな鏡
微笑む二人の天使が鏡を支えている
「それは夫の鏡なんですの、その鏡で身だしなみを整えておりましたわ」
今は私が使っておりますの、と続けた
「…鏡、ねえ」
磨き抜かれた美しい鏡には、鏡を支える天使たちの微笑みと対照的な皮肉げな笑みを口元に浮かべた聖職者が映っていた
リリンが用意した夕食は豪華なものだった
スライスされたパン
白身魚を蒸した料理
バターで焼いた貝料理
牛肉のロースト
上質な赤ワイン
普段の生活ではまず口にすることはないものばかりだった
「何か悪いなあ、こんなにもてなしてもらっちまって」
「ずいぶんと豪勢だが、良いのか?」
リリンは穏やかに笑って
「良いのですよ、久しぶりの…お客様ですから。たくさん召し上がってください、おかわりもありますわ」
「じゃあ、遠慮なく…」
薬師がワイングラスを傾けて一口呑んだ時…、おっと、と言う小さな声とほぼ同時にガラスの割れる音がした
「いや!これはすまない!手を滑らせちまった」
割れたガラスの破片に血の様な赤が絡む
「あらま、大変!お怪我はありませんか?」
「申し訳ない、こいつは東の国の生まれでな…西の国の食器の使い方に馴れていなくて…全くお前は…」
聖職者が拾ったガラスの破片を布にくるみながら文句を言えば、薬師は赤ワインに濡れた口元を羽織の袖で拭いながら
「いやあ、失敬失敬…どうにも和のもんにはこの手の食器ってのは使いにくくてなあ」
あははと、笑う薬師に聖職者はため息をついた
「申し訳ない、リリン、怪我はないか?」
聖職者が怪我はないかとリリンの手を取ろうとした瞬間、小さな悲鳴と共に怯える様にリリンが手を引っ込めた
「あ、あ…ご、ごめんなさい…」
薬師が聖職者を肘で小突く
「ばか、お前、リリンさん怖がらせてるんじゃねえよ」
「いや、俺は怪我はないかと確認しただけで」
そんな言い合いをする二人を見てリリンは慌てた様に言った
「わ、私、食器を洗いますね!」
急ぎ足でキッチンへ行く背中を見届ける
「…入ってたのか?」
聖職者の言葉に薬師は苦笑する
「…薬師の俺が分からないとでも思ってたのかね」
聖職者がそう呟けば、薬師はまだ口に僅かに残っていた赤ワインを吐き捨て舌打ちをした
「こいつぁ、野郎を狂わせる毒だぜ」
薬師はぼそりと言った。
リリンのご厚意でその日の夜は家に泊まることになった
案内された部屋は客人用の部屋らしい
大きな二つのベッドに純白のシーツが敷かれている
「どうぞ、ごゆっくり休まれてくださいませ」
そう告げてリリンは部屋を後にする
だが、扉が閉まる前に彼女は口元に歪な笑みを浮かべていたのを二人は見逃さなかった
用意された二つのベッドのうちの片方に薬師が腰掛ける
ふかふかとしていて、滑らかなシーツだ
聖職者はもう床に着いていた
「俺…此処で寝るのが凄まじく嫌なんだが」
薬師が嫌そうにひとりごちれば、寝ていた聖職者が毛布から上半身を起こして薬師の方を向き
「心細いなら一緒に寝るか?」
もう一人分は横になれるだろう隙間を作ってベッドを叩けば、蜂に刺された様に薬師が飛び上がった
「バカ野郎!」
「別に何も考えていないが」
「余計悪ぃわっ!野郎2人で寝たらベッドが潰れるわ」
「それは残念だ」
くすくす、と聖職者は笑う
「おやすみ、薬師」
そう言って寝床につけば、薬師は怒った様な声でそれでも律儀に『おやすみ!』と返した
ふと、聖職者が目を覚ました、何かを感じたのだ
それが何かかはわからないが
窓から差し込む月明かりが部屋を照らしている
月の位置から考えて深夜と言ったところか
寝ぼけ眼で月を眺めていたら自分の背後から苦しげな呻き声が耳に届いた
はっ、となり声のする方を向けば薬師が玉の汗を浮かべて苦しげに胸を掻きむしっていた
爪が皮膚を裂いて血が滲んでいる
「薬師!薬師!!!」
眠気などとうに吹き飛んだ、薬師を必死に揺するが目を覚ます気配がない
辺りにはあの例の甘い香りが満ちていたが、もはや、吐き気すら覚えるほどの濃さだった
「くっ…」
何か仕掛けて来るのはわかっていたが、まさかこんな大胆に害を加えて来るとは思わなかった聖職者は己の迂闊さを呪った
コンコン!コンコン!
聖職者が窓を見ると二羽のカラスが嘴で窓を叩いていた、フギンとムニンだ
「フギン!ムニン!」
鍵を開けて窓を開ければフギンが飛び込んで来た、ムニンはうなされている薬師を起こそうと耳元でけたたましくガアガアと鳴いている
フギンは扉に向かって鳴いていた、聖職者が蹴破れば扉は細かい木片になり飛び散る
フギンは開いた扉をすり抜け、ホールへと飛んで行く
聖職者は柵を乗り越え身を踊らせてホールへ降り立った
目指すものは一つだった
たどり着いたのは天使の鏡の前
大きな黄金の姿見を二人の天使が支えている……が、様子がおかしい
天使の瞳が赤く光っていたのだ
それがなお鏡を支える天使を不気味に思わせた、今にもこの微笑が剥がれ、醜悪な笑みを曝した悪魔に変じようとでもしているかの様に見えた
フギンは鏡に向かって鳴いていた
「フギン、退け」
聖職者に従う様にフギンは鏡から離れた、聖職者は拳を振り上げて鏡に叩きつけた
ガラスの割れる音と共に辺りに漂っていた嫌な気配が消えて行く
天使の瞳から赤い光が消えた
息を切らす聖職者の拳からは破片で切ったのか血が滴っていた
フギンが案じる様に聖職者の肩に止まった
自身の傷付いた手を広げ見下ろした
「舐めたマネを…」
拳を握り締めれば血が吹き出した
振り返れば其処にはリリンが立っていた
「酷い人ね、旦那様の形見の鏡を割るなんて」
栗色の髪を掻き上げて笑う
「猿芝居はやめろ」
吐き捨てて女を睨み付ける
カツン、とホールに聖職者の足音が響いた
「お前はあの鏡を通して招いた奴らを惑わしていたんだろう…あの甘ったるい臭い、そして俺に触れられた時の反応と言い…お前、夢魔…サキュバスだな?」
リリン、いや、サキュバスはもはや隠すつもりはないのだろう
月明かりに照らされた影はもはや人のものではなかった
ねじれた角、コウモリの様な羽に、紫水晶の様な瞳、口元は人に化けていた時とは違い淫らに笑っていた
次回 サキュバス戦