閑話 地底に眠る記憶
――かつて、大地の竜がいた。
大地の竜は、日々を気ままに暮らしていた。
大地の竜は昼寝をするのが好きだった。広い平原の上で、太陽の光を浴びながら眠るのだ。
だが、大地の竜のいびきは、地面を大きく震わせ、地震となり周囲の生物たちや人間たちを悩ませていた。
人間たちはその竜を退治しようと何度も挑んだが、分厚く硬い岩の鎧を持つ大地の竜には勝てなかった。
そんなある日、大地の竜の元に一人の人間がやってくる。
武器も持っていない、幼い少年だった。
少年は寝ている大地の竜に大声で話しかけた。
寝てばかり過ごしていた大地の竜は、気まぐれでその少年と話を聞くことにした。
少年の話は夢よりも面白く、大地の竜は昼寝をやめてその話を最後まで聞いた。
少年はそれから毎日のように大地の竜の元へ訪れ、話をした。
大地の竜も昼寝をすることがなくなり、地震が起こることが少なくなった。
そうして、いつしか大地の竜と少年は親友となったのだ。
大地の竜と親友となった少年は、他の人間たちに慕われ、少年を王とし、その地に王国を作り上げた。
大地の竜はそんな少年の元に控え、何かあれば少年と人々を守ってやることにした。
そうして王国は偉大な王と大地の竜の加護を得て、繁栄していった。
しかし、その繁栄も永遠には続かなかった。
少年は老人となった。寿命がきてしまったのだ。
大地の竜は死にゆくその時まで、友に寄り添った。
その後、老人は眠るように亡くなった。
血を分けた多くの家族と、そして共である大地の竜に見送られながら。
王国は偉大なる王を失った。
しかし、この国には大地の竜が残った。
友の大切なモノを代わりに守るように。
やがて大地の竜は、王国の守護竜と呼ばれるようになったのだ。
守護竜が王国を守るようになってから三百年。
人々は守護竜に向かって今日も祈りを捧げていた。
――守護竜よ。どうか、この国をお守りください。いつまでも。いつまでも……。
◇◇◇
「バルムート、お前はまだ人間との"約束"を守っているようだな?」
暗く、地下深く。
人が決して訪れることが出来ない、地の底で。
殻に篭って閉じこもるように丸まっている地竜がいた。
一見すればただの岩山のようなそれこそ、地の竜神バルムートであった。
「人間との約束を守ってなんになる? 現にその人間はもういないではないか」
「人間をただのおもちゃとしか見ていないお前さんには分からんだろうよ、レヴァリス」
「"ただの"、ではない。"お気に入りの"、だ」
閉じていた瞳を開け、目前の竜を睨むバルムート。
この暗闇にあっても、光を浴びて輝く水面のような長髪と、月のような輝きを宿す瞳を持つ、人間離れした人間。
水の竜神レヴァリス。バルムートと同じ存在でありながら、在り方は異なる竜。
今も竜の姿をしておらず、"お気に入りの"人間の姿をとっていた。
「しかし、約束を守っていると言うのに、なぜこんなところにいる? お前は地上で寝るのが好きだっただろう?」
「……人間が煩いのだ」
「煩い?」
「我が守護竜だから、願いを聞いてくれと言うのだよ。何百、何千と毎日のように願いを言ってくるのだ。確かに最初のうちは叶えていた。国を守る為に必要だったからな。だが、最近は……国に関係ない個人的なことまで言ってくるようになったのだ」
作物が実らないからなんとかして欲しい、と言う願いを叶える為に地を耕した。
隣国から攻められている、と言われ隣国を竜の力を持って追い払った。
いつしかグラングレスの守護竜と呼ばれ、人間たちに親しまれるようになったバルムート。
だが、人間たちの願いは年月を経つごとにエスカレートしていった。
金持ちにしてくれ、気に入らないあいつをなんとかしてくれ、隣国を滅ぼしてくれ、竜の力を分けてくれ、王様にしてくれ。
日々、人間たちの願いが聞こえてくる。聞きたくなくても。
「……それで、願いを聞きたくなくてこんなところに逃げたのか」
「あぁ……だが、ここへ来ても声がうるさい」
姿を隠して十年と経つが、未だに地上からバルムートを求める声が地を伝って響いてくる。
バルムートに静寂などなかった。
四六時中、どこに居ても願いの声が聞こえてくる。
「我は国の安全は守っておる、それでいいのではないか? なぜそれだけで満足しない?」
「人間は欲深く、簡単に付け上がるものだ。そして都合の良い神が現れたのならそうなるだろう。……お前ならば、それくらい予想できたことはずだ、バルムートよ」
とても、不思議な話だった。
あのバルムートがこの程度の予想を出来ないとは、思えなかった。
「……お前は願いを掛けられたのか。お前の親友に」
「……そうであったなら、良かったな」
そう口にするバルムートは、とても寂しそうだった。
「ああ、そう言うことか。逆か……願いを掛けられなかったんだな。死に逝く最後のその時まで、お前の友は、お前に何も望まなかった」
その言葉に、バルムートはしばらく黙っていたが、ぽつりぽつりと独り言のように語り出した。
「我が親友は……ロアはいつもそうだった。我に望むことは何もなかった。……そもそもロアに、我の力など必要がない程に、ロアは一人で何でもこなす者だった」
彼はいつだってそうだった。
硬い地面を掘り返すことも、ロアがやった。
強い魔物が現れた時も、ロアがやった。
ロアがバルムートの力に頼ったことは一度だってなかった。
「我が大剣をあげた時もそうだったのだ。隣国から攻められたからと戦場に行くと言うから、持たせてみたが……彼奴め、大剣の存在をころっと忘れたまま、戦争に勝って帰ってきたのだ」
「……あのロアと言う人間は、覚醒者だったか」
「そうだ。使わなかったが大切にずっと背負っていたというのだ。……我の心配は全くいらなかったわけだ」
せっかく自身の力を分け与えたというのに一切使われなかった。それに対して、バルムートは残念という様子もなく、ただ笑い話を話すように懐かしそうに語っていた。
「そう、ロアは我には何も望まなかった。……最後の時も、何も言わなかったのだ」
「……言わなかったか。……なるほど、彼が何を言わなかったのか、大方予想できるな」
「……やはりレヴァリス、お前さんにも分かるのだな」
「親友というお前以外に、大切な物が何があるか……それを考えればすぐに分かることだ」
グラングレスの建国者。初代国王であるロア・バルミア・グラングレス。
かの王は国民たちに愛された偉大なる国王だった。
そして彼もまた国民たちを愛していた。
「お前の親友はお前に何も言わなかった。……いや、言えるわけがなかった。この国を代わりに守って欲しいなどと……。その願いはお前を縛る永遠の呪いになると、分かっていたんだ」
ロアは分かっていた。覚醒者たる自分の願いが、どんな影響を及ぼすのかを。
例え、死に逝くその時であっても。
彼は最後の最後で、国より親友を取ったのだ。
「だが、お前はそれを汲み取った。言われなかった言葉を、お前は理解し……そしてその通りにした」
バルムートは人の考えを見透かす。
その洞察力の鋭さは親友に対しても同じだった。
「……親友の最後の願いだったのだ」
「お前に望んではいない。だから言わなかったんだぞ?」
「それでも、我は叶えてやりたくなったのだ。……ロアは確かに何でも出来た。だが、彼の子孫や国民たちはそうではない。……ロアとは違うのだ」
覚醒者でも何でもない、弱い人間たちだった。
偉大なる主導者であるロアがいなくなったことで、豊満な大地を持つグラングレスは以前よりも狙われるようになった。人間からも、魔物からも。
「だから……我が守るとロアに約束したのだ。ロアの代わりにこの国を守ると……」
神の力を持つ地竜に守護されし国。
グラングレス王国が、そう呼ばれるようになってもう三百年以上となる。
「だが……上手くいかないものだな……」
グラングレスはいつの間にか大陸の半分以上を占める大国となった。
ロアがいた時代よりも、国土は大きく成長し、国民たちも増えた。これも守護竜の存在のおかげだろう。
それはすなわち、守護しなければならないモノが増えたということだ。
「……ある王がいた。ザムエルと言う男だ。彼は圧政をしき、国民たちを苦しめた。しかし我にとっては、ザムエルも守らねばならない一人だったのだ……」
「お前は王を守ったのか?」
「いいや、彼の弟に説得されて、弟に力を貸した。……結果として苦しめていた王は、その弟に殺されて居なくなり、王国に平和が戻ったのだ」
「平和か。……今の王国は全然平和そうには見えないが?」
「ああ。……ザムエルには多くの子供がいたのだ。王となった彼は側室を多く持っていたからな。……しかし、彼の弟ルクシスは即位後、その子供たちも処刑しようとしていたのだ。……我が止めたがな」
「その子供たちも、お前にとって守るべきものだったからだな?」
「彼らもまた我の親友の末裔だったのだ。だから守った。……まぁ、その半分以上はもう居ないが」
「どうせ王の座を巡ってその子供たちは争いを始めたのだろう?」
「……今も前王は暗殺されて、新しき者が王になっている。その統治も、いつまで続くか分からないものだな」
「ははは。これは傑作だ。お前が守ろうとした者たちが互いに殺しあっているとはな」
バルムートにとっては、すべてを守らなくてはならなかった。
しかし、守らなくてはならない人々同士が争い合ってしまったのだ。
どちらを守ればいいのか、誰を守ればいいのか、悩み苦しんでいる間に、人々はバルムートの前で殺し合いをし始めた。
これが今の王国で起こっていることだ。そのあたりから徐々にバルムートは地上に姿を表さなくなった。
「お前の親友のことだ。ここまで見抜いて言わなかったのかもしれないな」
そしてそれは、バルムート自身も同じだ。
分かっていながら、そうしたのだ。
「……愚かだと我を笑うか、レヴァリスよ」
「いや……どちらかというより、お前の親友が可哀想だと思ったな」
「可哀想……?」
「お前が人間たちを信じなかったからだ」
バルムートの琥珀色の瞳が不思議そうに、人間擬きを映し込んだ。
「お前の親友は確かにお前の身を案じて言わなかったのだろう。……だが、同時に自分の子孫たちを信じていたのかもしれないな」
「……身内すら斬り殺せる彼奴らが?」
「その欲を生み出したのはお前の過保護のせいもあるぞ?」
やれやれと、肩を竦ませる。そんな人間らしい仕草すら完璧に真似ている。
「……いや結果として、過保護にされたのか。……お前の親友は確かに何も願わなかった。だが、その末裔たちはお前に願うようになったのだから」
今も守護竜を求める声が地上に蔓延っている。
そうなったのは、願われなかった願いを引き受けたバルムートの行動の結果だ。
愚かだとは言わないが、自業自得と言える。
「バルムートよ、静かに眠らせてやろうか?」
「国の人間を殺すつもりか?」
「なぜ、血生臭い方向に行く?」
「以前暇潰しと言って、王国の人々に襲来してきたことを忘れておらぬからな?」
「ああ、そういえばそんなこともあったな。私は忘れていた」
悪気なく笑う声が響く。
あの時はバルムートと手合わせしたいが為に王国を襲って、バルムートを無理やり引っ張り出したのだった。
結果は……バルムートの圧勝だった。
王国の守護竜という肩書があるバルムートに対して、レヴァリスという竜はそれほど恐れられていることもなかった。
世界的には少し迷惑な竜という印象でしかなかったのだ。
……そしてその出来事は、バルムートをさらに守護竜たらしめる由来ともなってしまったが。
だが、人々の願いの力がどれほどのものかを知るにはいい機会だった。
「落ち着け、あくまで声が届かないようにするだけだ。水が音を遮るようにする」
その言葉と共に、バルムートの身体を覆うように水のヴェールが生み出されていった。それは水球のようにバルムートを包み込んだ。
「どうだ? 何も聞こえんだろう?」
「あぁ……本当だ。人々の声が、あんなに響いていた声が聞こえてこないのだ……」
「これで眠れるな?」
「そうだな……今回ばかりは感謝しよう、レヴァリス」
そう言ってバルムートはまた丸くなっていく。
今の表情は耳障りで煩い声が聞こえなくなったからか、安らかな表情をしていた。
多くの声を聞きすぎて、バルムートの精神は疲れ切っていた。
……だから、こんな簡単なことも見透かせない。
「……ゆっくり眠れ、我が同胞よ。次に目を覚ます時、お前が守らなければならない国はきっとなくなっていることだろう」
水の内にいるバルムートにその声はもう届かない。
ぽたりと、鍾乳洞のつららから水滴が落ちた。
その音さえもバルムートには届かない。
「その時には……私もいないかもしれないな」
そして鍾乳洞の洞窟には、もう人影はなかった。
ただ静かに眠る地竜だけが、残されていた。