閑話 ある酒場の記憶
――かつて、疾風の竜がいた。
世界に吹き荒ぶすべての風は、疾風の竜のはばたきで起こったものであると信じられていた。
気まぐれに吹くその風は、やがてこの世界に住む生き物たちの生活に根付いていった。
風は鳥を空に飛ばし、綿毛の付いた種を遠くに運んだ。
やがて、風は風車を回し、帆を広げた船を進ませた。
時にはその風は竜巻や台風となり、彼らを襲った。
それもまた疾風の竜の気まぐれだった。
しかし、その竜の名を人々は忘れてしまった。
かつては誰もが知っていたその名を、忘れ去ってしまったのだ。
たが、世界がその疾風の竜を忘れることはなかった。
今日もまた、世界には気まぐれの風が吹いているのだから。
◇◇◇
小さな港のある酒場のテーブルで、一人の男が酒を飲んでいた。
周囲のテーブルは地元民ばかりのようで、皆仕事上がりに飲みに来ている者が多く、がやがやと騒がしかった。
その中で男は一人だけだった。
騒がしい周りと違い、深くフードを被り、静かに杯を傾けている。
周りから浮いているというわけでもなかった。
この酒場の背景に溶け込むように、ひっそりとそこにいたのだ。
「相席をしてもいいか?」
「……あ゛っ?」
フードの男の返事を待たずに、向かいの席にもう一人が酒杯を手に座った。
フードの男は威嚇をするような声を上げたが、それは結局、驚きの声になった。
目の前に座ったのは、美しい人間だった。
朝焼けの海面のような綺麗な長髪に、真珠の光を集めたような瞳。白亜の貝殻よりも白い肌。
それは余りにも完璧な美しさを持った人間だった。
たが、男はその人間の顔を見るなり、忌々しげに舌打ちをした。
「……テメェ、よくもオレの前にその面出せたな」
「久方ぶりの再会だと言うのにつれないではないか。前回会った時はあんなに熱心に口説いてくれたというのに」
「やめろ! マジでやめろ! このクソ竜のレヴァリスが!」
吐きそうになる男の姿が実に滑稽だった。
それを見て愉快そうに笑う声がテーブルに響くたびに、さらに向かいの男の表情が悪くなっていく。
「ああああ! 酒が不味くなる! そもそもこの前会ったばかりだろうが! あん時のテメェのせいで、アルバーノに全部バレたんだぞ!」
「お前が怒りで竜の姿になるために、名を教えただけではないか」
「その怒りの原因が、テメェだって言ってんだろうが!!」
ガンッとフードの男が酒杯をテーブルに叩き付ける。
勢いでフードがはらりと滑り落ちた。
露わとなったのは金髪の青年だった。
人の中では整った顔立ちをしており、粗暴な喋りと振る舞いをしていても、品のある雰囲気さえあった。
しかし、真向かいに座る存在に比べたら見劣りしてしまう。
だが、彼もまた人間ではない。
「……はぁあああ」
勢いよく立ち上がった彼は大きく嘆息して、またどっかりと乱暴に椅子に座り直した。
……ずいぶんと騒いだが、周りは誰もこのテーブルを気にかけない。
ただの酒場の背景としか、彼らは認識していなかった。
それもそうだ。認識が出来ないのだから。
「だから、お前はあのエルフと別れたのか?」
「ちげーよ。あいつは村に帰っただけだ」
「そうだったか。……確か今の名はフェリクスだったか」
「……なんで覚えてるんだよ」
「お前が今までに名乗った名前を、私はすべて覚えているぞ。確か前の名はジャック、スミス、アラン――」
「気持ち悪い、頼むから全部忘れてくれよ……」
「それは無理な話だな」
金髪の男は……フェリクスはまた嘆息しながら、杯を傾ける。
飲むつもりはないのか、ぐるぐると遊ぶように中の液体を回していた。
「……ヘルフリートが死んだそうじゃねぇか」
「ああ、そうだな」
少し前、世界に激震が走った。
それは火竜、ヘルフリートが死んだという情報だった。
「テメェが殺ったんだってなぁ、レヴァリス?」
火竜ヘルフリートは水竜レヴァリスに殺された。
これもまた世界に衝撃を与えたものだった。
「ああ、私が殺した」
「なんでそんなこと……」
「ずいぶんと前から火竜が壊れかけてたのは、お前も知っていただろう?」
「…………」
その言葉にフェリクスは沈黙を持って肯定した。
「あの火竜を止められるのは私だけだった。地竜も風竜にも、止める力はなかったのだから」
地竜は行方知らずだ。もう千年と見ていない。
風竜は名もなき存在だ。もうかつての力を持っていない。
火竜に対抗できる力を持っていたのは、水竜だけだった。
「……これは仕方なかったことだ」
沈黙は続いた。
周囲の人間たちの喧騒のみが流れる。
彼らは何も知らない。世界が終わろうとしかけていたことも、ここに竜がいることも。
知らないままに、幸せそうに騒いでいる。
「――ずいぶんと前にある風の噂を耳にしたことがある」
その喧騒を割くように、フェリクスがやっと口を開いた。
「荒れ狂う火竜の怒りを鎮めたいと願う人々は、ある旅人にどうすればいいか方法を尋ねていた。その旅人はなんて答えたと思う?」
「なんと言ったのだ?」
「生贄を捧げればいいと、その旅人は答えたんだ」
フェリクスは真向かいの存在に人差し指を向けた。
「あんただろ。それを教えたのは」
「ふふふ……」
込み上げる笑いを抑えるように、口元に手を重ねた。
「人間というものは死の淵で思いもよらない力を発揮するものだ。……だから、私はそれを見てみたかったのだよ」
「その結果がこれかよ」
「結果が出るまで時間がかかったがな、あれは百年、いやもっと前のことだったか。しかしながら、私も驚いている。ここまでやられるとは思っていなかった。……やはり、人間は面白いな」
満足げに酒を飲む様を見て、フェリクスは呆れるともなんとも言えない表情をしていた。
「何が仕方ないだ。結局あんたのせいじゃないか」
「だが、人々の願いは叶っただろう? 荒れ狂う火竜は鎮まり、そして、いなくなった」
そう、すべては人々の願いの通りに収束した。
「それに我々にとっても悪いことではない。我々は不死なる存在ではなくなったのだから」
「……あんたの狙いはそこかよ。そのためにあんたは同胞を殺したのか」
「火竜は高みにいすぎた。それ故に一番死に近かっただけだ……」
四大元竜は揃って不死だった。
だから、誰か一柱でも欠ければ、その不死性がなくなる。
その中で誰がもっとも死を願われやすいかと言うと……最強の座にいた火竜だった。
「アイツは死なんて望んでなかっただろ」
「死は望まないものにも、等しく訪れるものだ」
壊れる前の火竜は確かに死を望んだことはない。
だからこそ、火竜が不死を否定するのにもっとも相応しかった。
理不尽な死を押し付け、望まない死を与え、不死を否定した。
そうして初めて、死を望む自由を得られたのだ。
「オレが何のために名を消していったか、わかってんのか」
「確かにお前のやり方ならば、誰も巻き込まなかったかもしれない……お前だけが死に、それ以外は死なない」
「死を望むも望まないも個人の自由だ。不死を受け入れるのだってな……それをあんたは無理矢理殺しやがった」
「そうだな。だが、それの何が悪い?」
「何がって……」
「いつもと同じだ。我々が人々を理不尽に殺していることと、何が違う?」
「……!?」
立ち上がりかけたフェリクスが、その一言に押し潰された。
「お前は己の名を消すために何をしたか忘れたか? 口伝でお前の名を伝えていた一族がいたな。確か彼らは三百年前に集落が竜巻に襲われて、それで一人残らず死んでいった」
そう、彼はそうやって人々の中に残る名を一つ一つ潰し、消していったのだ。覚えている人々の数を減らすことによって。
「だが、お前は身内には甘い。いくら興味がなく振る舞おうとその心の奥底では、切れない縁を大事にしている。だから私に怒っているのだろう?」
「何見透かしたこと言ってやがる……」
「お前は孤独が嫌いだからだ。……その証拠にお前は幾ら名を捨てようと、何度も名を名乗り、人との縁を保ってきた」
「おい、黙れって――」
「だがその縁もすぐに捨てる。他者との繋がりはその者を縛り付ける枷となる。だから、お前は名と共にすべてを捨てるのだ。これはお前が自由を象徴する存在であるが故に。自由とはすなわち、孤独のことだ」
「黙れって言ってんだろうが!」
一瞬すべての音が止んだ。
彼の声のみが響いて、酒場の人々が――世界が彼を見た。
だが、それも一瞬のことだ。
すぐに人々は何事もなかったように、日常に戻っていく。
彼は――認識されなかったのだ。
「だから私は心配をしている。……お前が捨て切れなかった今回のその縁、お前を壊さないか?」
黙れと言われても、結局口を閉じることはなく、そう彼に問いかけた。
「余計なお世話だクソ野郎。それとも壊れそうだから、オレも殺すつもりか?」
「私は必要もない殺しはしないつもりだ」
「どの口が言いやがる」
彼は腕を組んで真向かいの存在を睨んだ。
「……結局、人々の中からオレの名を消してもあんたらがいる限り、オレは死ねなかった」
彼の方法では、巻き込まないようにしても、その通りにはならなかった。
「だから……だから、さっさと死んでくれ」
突き放すように、懇願するように、彼は言う。
「ヘルフリートがもういないなら、あとはあんたらだけだ。あんたらが死ねば、きっと今度こそ、オレも死ねる」
「……捨て切れなかった縁と共に、か?」
「……ああ。そうなればオレが壊れることもないだろ?」
地竜も火竜も壊れたのは特別な存在との死別が原因だった。
確かに彼の言う通り、その存在が死した時、共に死んでいけるならば、狂って壊れることもないだろう。
「そんな面倒なことをせずとも、今死にたければ、私が殺してやるというのに」
「テメェに殺されるなんざ、死んでもお断りだ」
「そうか。ならば、私とバルムートか……だが、地竜はそう簡単に死ぬことはないだろうな」
「なんでだよ、アイツはもうずっと姿を見せてないだろ? もう死んだも同然じゃねぇか? ……それともあんたは何か知ってんのか?」
「私は事実を言ったまでだ」
「ああ、そうかよ……」
付き合ってられないというように肩をすくめ、彼は酒杯を空にしてから、席を立った。
「もう行くのか、フェリクス」
「その名の男は死んだ。だから二度と呼ぶんじゃねぇよ」
「そうか。なら、次は何と呼べばいいだろうか?」
「次なんかねぇよ。さっさと死ね!」
名を亡くした男は振り返ることもなく、酒場から出ていった。
テーブルに残されたのは空っぽの酒杯だけだった。
「……お前は分かっていないな」
彼は自由を求めるが故に死を望む。
自由という楔を打ち込まれたその座から、解放されるために。
だが、名を消しただけでは、本当に死ぬことはできないことを彼は知らない。
「そう簡単には死ねないのだよ。……私も、お前も」
その言葉は誰に聞かれることもなく、人々の喧騒に溶けて消えていく。
いつの間にか、そのテーブルには、誰もいなかった。




