乾杯を捧ぐ
ふいに、風が歌を届けた。
砂浜は今、海に向かって鎮魂歌を歌っていた。
それは今回の事件で死んでいった者たちへの祈りだ。
「死とは、命が尽きることだけじゃない。その名が誰の記憶からも忘れ去られた時、その存在は本当の死を迎える……」
彼は手にしたワインの栓を抜くと、中身を海に流した。
泡沫ワイン。それはこの地方の特産ワインだ。
泡ぶどうと呼ばれる海藻でありながら、陸のぶどうと同じ味のするそれを、ワインにしたもの。
船乗りたちの間ではよく飲まれており、海賊たちも同じだった。
「オレはそう思ったから、千年も前から自分の名を世界から消していった」
名を名乗ることをせず、必要があれば別の名前と容姿を名乗り、そしてすぐに使い捨ててきた。
忘れ去られたのではない。彼自身が忘れさせたのだ。
「ま、結局それだけやって気付いたのは、同胞たちがオレの名前を覚えてることだったんだが……」
どれだけ名を消そうとも、自分の名前を覚えている、自分と同じ不老不死の竜が他に三竜もいる。
その時点で、この方法では死ねないと気付くべきだったが……。
「……今なら、本当にそうなりそうなのにも少し驚いている。……ヘルフリートも、レヴァリスもいなくなっちまった」
気付けば三竜のうち、二竜はもういない。
残るは地竜のみだが、生きているか定かではない。
「なるほどね。……でもそれだったら、レヴァリスの復活なんて余計にしないほうがよかったじゃん」
わざわざ長年かけてやってきたことが実現しそうなのに、彼の行動はそれを振り出しに戻すような行為だった。
「まぁ、そうなんだが……。許せなかったんだ」
「何を?」
「オレは自由を象徴する風竜だ。だから、ヘススたちを殺し、この世に縛り付けたレヴァリスが……許せなかったんだ」
縛りというものを彼は嫌う。
それが風竜という存在に込められた意味であり、彼の在り方だ。
「……それは君のせいで死んでいった人たちが居ても?」
――鎮魂歌はまだ終わらない。
今回の事件には犠牲者が出ている。
しかも、レヴァリスの復活の為にも多くの者が犠牲になりそうだった。
クラウディアも風竜も、彼らの行動は死者のためだった。
しかし、そのために多くの新たな死者を出そうとしていた。
「……それでもだ。オレは譲れなかったんだよ、自分の在り方を」
たとえ、多くの者に名を忘れ去られようと、彼は風竜だ。
「オレたちはけして救いの神なんかじゃないぜ? 時に人の命を生かし、時に奪う。自然の神だ」
風は人々の生活を支えている。
帆船を動かす風であり、風車を回す風でもある。
だが、時に嵐となり、すべてを吹き飛ばす。
「だから、それもまたオレの在り方の一つだ。……あんたも同じだぞ、リアン」
「……私も」
「いくらいい子ちゃん振ろうと、あんたは水竜だ。そこは変わらない。今もこの世界のどこかであんたのせいで誰かが死んでいる。……例えば、誰かが海に落ちて溺れ死んだりな」
「……それ、私関係ある?」
「あるだろ? あんたが居なけりゃ海もない。だから、そいつが溺れ死ぬこともない」
「……無茶苦茶だ」
「でもそうなんだ。オレたちってのはそういう無茶苦茶な存在だ。……だったらまだ、自分の手で殺したほうがマシだろ。ちゃんと覚えていられるからな」
彼は自分の手のひらを見つめた。
……一体、どれだけの人々が彼のせいで死んでいったのか。
「ま、そうあるように望まれたんだ。なら、ちょっとくらい、オレらの好きにしたっていいだろ?」
「……ずいぶんと開き直るね」
「そうでもしないと、この先やっていけないぞ?」
「……君の言うことには納得はできるけど、釈然としないなぁ」
「なら、あんたが代わりにオレを断罪するか?」
「……君を断罪したところで何も変わらない。君は反省もするつもりもない……それが君なんだもん」
突き詰めれば、こうあるように望んだ人々が悪いということになる。
「ただ、そうだね。これから先はそういうことはしないで欲しいと願うばかりだよ。もしするようなら、私が止めるよ。何度でもね」
「……あんたは、だいぶ人の味方よりだな」
「そういう君も、結構そうだよね? 人の仲間たちのために動いていたわけだから」
「……友人たちのために動くのはおかしいか?」
「全然、おかしくないよ」
鎮魂歌が終わり、宴もまた終わったようだ。
焚き火は消されて、砂浜のほうは暗くなる。
「……私はそろそろ戻ります。ロアード様やミレット様がいるとはいえ、ファリンの側をあまり離れられませんから」
そう言ってリュシエンは一人立ち上がり、リアンたちを残してその場を去ろうとした。
「……なぁ、本当にまた海賊をするつもりはないか、"アルバーノ?"」
リアンの隣に座る彼は、振り返ることなく、リュシエンに背を向けたまま問いかけた。
「……昔の私ならあなたの誘いに頷いていたかもしれません。ですが、今の私にはファリンがいます。……海賊をするつもりはもうありませんよ」
「そうか……残念だ」
「代わりに、その名前はあなたに貸したままにしておきますよ、アルバーノ」
「……なら、このまま借りておくぜ、リュシエン」
風竜は……アルバーノはワインの瓶を掲げた。
まるで乾杯をするような仕草だった。
「……振られちゃったね、アルバーノおじさん?」
「ああ、振られちまったなぁ……」
リュシエンが離れたあとに、リアンはそう話しかけた。
「オレはこんなにも弱くなったっていうのに、それでもダメか……」
瓶から直接ワインを飲むアルバーノは、少し寂しそうに笑っていた。
「ま、これで良かったんだ。人と竜はあまり関わるべきじゃねぇ」
「その割には、リュシエンに名前を教えてみたいだけど?」
「……それは……」
若干言いづらそうにアルバーノは目を逸らす。
「アイツに言ったタイミングはアレだったが……名を覚えて欲しかったのは確かだな。そしたらアイツが死んだ時、オレの名を覚えている奴がいなくなる……そうなったらオレも一緒に死なねぇかなって」
その時はけしてそうなることはなかったはずだった。
他の竜が生きている限りはあり得ないことだったからだ。
だから、それは叶うことのない願望のはずだった。
「……おじさん、ちょっとそれ重くない? 空気は軽いのに、重くしてどうするの……」
「んだよ! 悪いかよっ!」
……思いが重すぎて、ちょっと引いたリアンだった。
「別に悪くはないけど……束縛をしないのが風竜じゃないの……? リュシエン知ってるのそれ……」
「ここまでの話を知ってるんだ、アイツなら言わなくても察するだろ」
「……あー、うん」
知っていて何も言わないなら、リアンからはもう何も言えなかった。
「ま、一つ確かなのは――アイツはあと五百年くらいを、妹のために生きるだろうなってところか……」
「……あぁ、そうだねぇ」
ただそれだけは、頷いた。
それは絶対そうだろうなと、リアンも思った。
「たくっ、ヘルフリートやバルムートのことで分かっていたのにな。……アイツらのこと、悪くいえねぇなぁ……」
「……それってどういうこと?」
「アイツらは人と関わり過ぎたんだよ。その結果、自我すら崩壊させていったんだ……」
その話をリアンは初めて聞く。
「火竜も、地竜も……」
「人の願いに当てられ過ぎたって奴だな。……結局暴れたり何もしなくなったり、まぁ酷いもんだった」
やれやれと、風竜は肩をすくめた。
「ヘルフリートはレヴァリスが殺したから問題ないが……」
「……ヘルフリートをレヴァリスが殺したのって……」
「あぁ、まぁそうだ。ヘルフリートが壊れたからレヴァリスが殺したんだ」
……壊れた火竜が存在したままでは、世界は動かない。
それをレヴァリスが正したということか。
欠けてしまった歯車を入れ替えるように。
「地竜は……バルムートはどうしたの」
「バルムート……アイツはもう千年以上も見ていない。アイツも親友を失って壊れかけていた……ああはなりたくないと思ってオレは名を消していったんだがな」
自分の行動について自嘲するようにアルバーノは笑う。
「……バルムートも?」
「アイツが最初だったんだ。……ただいつの間にか見なくなっちまったからわからねぇ」
アルバーノは、ポンっとリアンの頭に片手を置くようになでた。
「リアンも気をつけることだ。……願いや祈りってのは、オレたちには呪いになることもあるんだ」
「……アルバーノおじさん、君は大丈夫なの?」
「オレを誰だと思ってる。自由を象徴する風竜様だぞ? ……ま、正直言って、今のオレには暴走する力もないわけだが」
アルバーノはヒラヒラと片手を振った。
「風竜ではあるが、名を忘れ去られたオレは風竜の力がないようなものだ。あの時みたいに名を呼ばれれば一時的に風竜の力を取り戻して、その力を使えるがな」
「……権限は持ってるけど、行使が出来なくなったみたいな?」
「そういう感じだな。今はちょっとばかしの風を操れる程度だ」
「……あの時みたいに帆船を進ませるほどの風は無理なんだ?」
リアンが思い出したのはクコ島から離れようとした時のことだ。無風だったのに、突然風が吹いた時だ。
「ああ、あの時は風を読んだだけだ。いつ何処でどんな風が吹くか分かる程度だ。オレが操った訳じゃない」
「なるほどね。……となると、結局縛られてるね」
「でも、今の方が自由だからな」
風竜の力を手放して、制御していなくても、問題なく世界に風は回っている。
「……最初はオレたちは死すら選ぶ自由はなかった。そう思えば、今の方が自由だ……」
「今まで、死ぬことは出来なかったってこと?」
「ああ、オレたちは不死の存在だった。元素の状態でバラされようとも、何をしても死ぬことなんて絶対になかった。……それをレヴァリスの奴はヘルフリートを殺すことで、不死を否定しやがったんだよ」
不死がどうやって死を得るか。
アルバーノの答えは名を失うことだった。
しかし、今はそれと関係なく、竜は不死の存在ではなくなった。
それは火竜、ヘルフリートの死を持って否定されたからだ。
「あんたのほうがよっぽど自由だ。……死を振り撒いて、さっさと自分も望み通りに死んでいきやがったことも含めて気に食わねぇよ、レヴァリス」
アルバーノはもう一本のワインの瓶を開けると、それを海に流した。
「ヘルフリートと共にあの世で待ってろ……。近いうちに必ず殴りに行ってやるからな……!」
気に食わない腐れ縁に対しての、餞別だった。