壇上の祈り
深海に沈んだ、かつての帝国の宮廷。
ここはその宮廷の議会室であった。
様々な政策を話し合っていたこの場は、今は一つの祈りが捧げられていた。
丸い円形状の室内は見渡す限りが真っ白であった。
陽の光が入れば輝いていただろうステンドグラスの向こう側は海水であり、時折、深海に生きる小魚の群れが見えた。
頭上では大きな球体が光り輝き、この場を照らしていた。
球体の明かりの下は、丸い壇上があり、それを囲むように階段状の席が四方に広がっている。
壇上がある中央が一番低く、すり鉢のような形をしていた。
その中央に向かって、階段状の席を埋め尽くすほどの溟海教団の信徒たちが、祈りを捧げていたのだ。
「さぁ、こちらですわ」
議会室の扉が開かれ、そこからクラウディアが現れた。
彼女一人ではない。
その後ろには、拘束されて無理やり歩かされて連れて来られた人々……ワワ族などを含めた拉致してきた人々が一緒だ。
「クラウディア、君たちは一体何をするつもりなの?」
……そして、クラウディアの横にはリアンもいた。
これから素晴らしいことが起こると言われ、クラウディアにこの場まで連れて来られたのだ。
「もう、リアンったら。わたくしのことはお母さんと呼びなさいと何度も言ってますのに……」
まったく困った子ですわねぇとため息を付きながら、クラウディアが応える。
「これから祈りを捧げますのよ」
「祈り……?」
「ええ。……我らが主、水竜の復活を願うのです」
拉致してきた人々を中央の壇上に上げていく。
まるでこれから捧げる生贄のようだ。
「……レヴァリスを……邪竜を生き返らせるつもりなの?」
「邪竜だなんてとんでもない! かのお方はそのような存在ではありませんわ!」
ベールの下に隠されたクラウディアの触手が揺れていた……怒りで震えているようだ。
「リアン。レヴァリス様は邪竜などではありません。確かに多くの人々は被害を受けたかもしれませんが、それらは全て必要な犠牲だったのですわ」
「……必要な犠牲?」
「はい、レヴァリス様は水を司る竜神。いわば世界そのもの。かのお方の行いは世界のために必要な行動であるのですわ。……かつて、この宮廷が沈んだ時も、そうでした」
古代帝国は竜の裁きを受け、この深海に沈んだ。
確かに彼らは……レヴァリスは世界のために必要な行動もしていた。
クラウディアは壇上に立ち、両手を広げながら、天を仰ぐ。
「全ては世界を守護するためのもの。かのお方に……レヴァリス様に、けして間違いなどありはしないのです! ……それなのに」
手を下ろし、目の前の拉致してきた人々をクラウディアは見つめる。
「人々はかのお方を邪竜などと呼び、憎み始めました。それだけに飽き足らず! かのお方を殺してしまいましたわ……!」
クラウディアはベールに隠された顔を少し伏せる。
「……まったく愚かで極まりない。誰のおかげでわたくしたちが生きていられるのか、まるでわかっておりませんわ。……ですが、そんな愚かな人々を赦しましょう」
再び顔を上げれば、慈愛に満ちた笑顔をクラウディアは人々に向けていた。
「かのお方は人々を愛しておりました。故に、わたくしも愛しておりますわ」
恐怖に震えるワワ族の一人にクラウディアは近付いた。
「安心なさい。あなた方はただ死ぬのではありません。我らが主のためにその魂を捧げるのですわ。光栄に思いなさい」
「い、嫌だ……! 邪竜の生贄になんてなりたくない……!」
「まぁ、わたくしの話を聞いておりませんでした? 邪竜ではなく、この世界を守護する神に捧げるです。つまり、あなた方は世界を救うための礎に……真の英雄になれるのですわ!」
聞き分けの聞かない子供を諭すようにクラウディアは頭を撫でてから、ワワ族から離れた。
「しかし礎になるには人数が少ないとお思いかもしれません。ですが、ご安心くださいな、撒き餌はしておきましたから。……今この海上には多くの人々が集まってきていますわ」
クラウディアは頭上を見上げる。
確かにこの海上では……今まさにエスパーダ船団の船隊が集まっていた。
その船に乗る船員の数は拉致してきた人々の数をゆうに超える。
そう、この日のためにクラウディアは、わざと拠点の位置を流していたのだ。
「あの不届きな英雄も、いることでしょう」
かつて単身乗り込んできたあの一級冒険者。
あの時、殺しておくべきだった人間の男。
クラウディアはレヴァリスが負けることなど、想像すらしていなかった。
己が自ら、贄として向かっていく人間としか、認識していなかったのだ。
「英雄が釣れたのも、これもあの子のおかげ……。シーサーペント……あの子もまたわたくしと同じくかのお方に名を与えられた魔物。あの子はわたくしの言うことを聞いてくれます、本当にいい子ですわ」
――人々にとってはいい子とは限らない。
シーサーペントは元より海を荒らし、人々を食らってきたのだから。
「……世界を救うためってそういうことか」
「そうよ、リアン。かのお方は世界になくてはならない存在。すぐに復活させなければ、世界はやがて崩壊してしまいますわ」
四大元竜は確かに世界のバランスを担う存在だ。
その一柱であった水竜レヴァリスが消えたとなれば、世界のバランスは崩れていくものだろう。
だが、それは引き継ぐ者がいなかった場合の話だ。
「火竜のように、次代が現れるとは思わないの?」
「それはありえませんわ」
リアンの問いかけに、クラウディアがきっぱりと否定した。
「……どうして? 可能性はあるでしょう?」
「ありえません。水竜はかのお方のみが、レヴァリス様こそが、唯一の存在ですわ。……代わりの者など現れるはずがありません!」
クラウディアは力強いさらに否定した。
その頃には祈りの儀式も最終段階に入っていたようだ。
クラウディアも祈りを捧げ始めた。
「我らが主、水を司りし竜神よ! 我らが祈りを聞き届け、今再びこの世にお戻りください!」
祭壇と化した壇上がぼうっと光を放ち始めた。
人々の願いが具現化する世界だ。
彼らの願いの通りであれば、レヴァリスは復活する――そのはずだった。
「どうして、どうしてなにも、起きませんの……?」
祭壇の光はすぐ勢いを失って消えていく。
生贄に捧げた人々も変化はなく、無事そうだ。
「……君たち、今、水竜の復活を願ったんだね?」
「そうですわ……それ以外にありえませんわ!」
「なら、復活しないわけだ」
リアンだけが理由を知っていた。
彼らは願ったのは……水を司る竜神、水竜の存在の復活であった。
それは確かにレヴァリスであるが……今は違う。
レヴァリスはもう水竜ではない。
彼らがいくら水竜のレヴァリスを呼び戻そうとしてもそれは無理だ。
「だって、水竜はもうここにいるからね」
「……まさか、やはりあなた様が……!」
「残念ながらそれは違うよ」
期待の籠もった視線を向けてきたクラウディアに、首を振りながら、リアンは周囲を見渡した。
無数の人々の視線が突き刺さる。
祈りを捧げていた信徒たち、生贄にされかけた人々たち。
その視線の意味は、これから話すリアンの内容によって変わっていく。
(……私もいい加減、表舞台に上がらないといけないか)
リアンは正直怖かった。
今まで散々と水竜の力を使ってきたが、本当に自分が水竜として存在できるのか。
ここで名乗りを上げれば、もう後戻りはできない。
これから長い、長い竜神としての竜生が幕を開けてしまう。
いずれは先代のようになってしまうのではないかと不安になる。
……だが、ここで舞台を降りることはできない。
(先代が託して行ったのを、引き受けたのは私だ)
半分強制だったが、それでも引き受けたのだ。
(それに、せっかく自ら幕を引いていったんだ。それを無理やり戻されるのは……よくないよね?)
あんなにも死にたがっていたレヴァリスを、今更生き返らせるなどするものではない。
そもそも、今回の事態はリアンがさっさと名乗り出ていれば、起きなかったことだ。
ならば、これ以上被害が出る前に出ていくべきだろう。
リアンは覚悟を決めると、壇上に上がった。
「よく聞いて! 私の名前はリアン! 新たな水竜として誕生した存在……二代目の水竜だ!」
リアンは髪から黒の塗料を取り除く。
黒髪は色を失い、光を反射する水面のような美しい髪色になっていく。
「あの姿は……」
「本当に水竜なのか……?」
人ならざる美しさが、神々しきその姿が、真実味を増す。
人々はリアンの言葉を受け入れ始めたが――。
「――認めません」
ただ一人、水竜の巫女――クラウディアが否定した。
「認めないも何も、私が水竜だよ。この事実は変わらない」
「……リアン、冗談はおよしなさい。今言葉にしたことを撤回するのですわ」
「冗談なんかじゃないよ、私が水竜で――」
「あなたは水竜ではありませんわ」
クラウディアの声がこの場に響く。
けして大声は上げていないが、不思議とよく響いた。
「あなたは……かのお方の子だと気付いたのでしょう? ならば、あなたはその血を引き継いだだけの子供であって、水竜ではないのですわ」
「……子供じゃないよ。でも、もしそうだとしても、私が水竜なのは変わらないじゃないか。火竜ヒノカと同じだよ」
「……同じ? いいえ、同じになんてなりませんわ」
火竜ヘルフリートが人との間に残した娘、ヒノカ。
竜の血を引く者が二代目になっている前例があっても、クラウディアはけして認めない。
「――水竜の座にあるべきはかのお方のみ。それ以外が成ることなど……あってはならないのですわ」
クラウディアのベールが揺れた。
触手は素早くリアンの首を巻き取る。
「リアン、今ならまだ赦しますわ。かのお方に謝るのです。勝手に水竜の名を騙ってごめんなさいと」
「……嫌だね!」
リアンの体が水になって、触手の拘束を逃れた。
そのまま水は膨れ上がり、やがて竜の方となる。
天球の光を反射する美しき鱗。
ヒレがついた長い尻尾は優美に揺れている。
黄金を閉じ込めたような竜の瞳が、眼下の小さき者どもを写す。
水を司りし竜神……水竜は、再び人々の世に姿を現した。
「……ああ、あなた様はやはり――」
その姿はクラウディアが求めてやまなかった姿と瓜二つ。
この世界で唯一で、至高の存在。
誰よりも美しく、気高く、崇高なる者。
クラウディアは求めるように手を差し伸ばし、その者の名を呼ぼうとした。
「レヴァ――」
「リアンお姉様!」
だが、扉が開く音と共に、リアンの名を呼ぶ声が重なり響いた。
「ああ、お姉様! ご無事でなによりです!」
「え、ファリン? いつの間に来てたの?」
「先程お兄様とミレット様、それからこちらの方々と一緒に着いたばかりです」
ファリンの隣に立つ大きな白虎のミレット。
そしてその後ろには海賊のスケルトンたちがいた。
「え、レ、レヴァリス!? なんでいるんすか!?」
「違います、ヘスス様! あのお方はリアンお姉様です! そっくりではありますが、レヴァリス様ではありません!」
慌てて始めたヘススたちに、ファリンが落ち着くようにそう説明した。
「そうだよ。ファリンの言う通り。私はレヴァリスじゃない。二代目の水竜、リアンだ」
改めてリアンが名乗り、目の前の水竜の巫女に現実を告げる。
「そう……あなたはレヴァリス様ではないのですね……」
――触手が蠢いた。
ベールの下からも、祭服の下からも触手が溢れ出した。
議会場の全てを覆うように、太い触手が伸びていく。
それと共にクラウディアの形も変わっていく。
人の姿を捨て、元の姿になる。
「あなたが水竜と仰るならば、その水竜の座をかのお方に返して頂きますわ……!」
美しかった声がくぐもっていく。
そこにいたのは、水竜より名を賜りし眷属。
古い歴史の中でその眷属は、人々の中では別の名で呼ばれていた。
――深海に潜みし怪物と。




