還らずの海
ララハ諸島の南方。
この海域は近くに島はなく、海が広がっている。
空は曇天だ。分厚い灰色の雲が広がっており、海の色もそれを写すように暗い。
そんな海上を二十隻は超えるエスパーダ船団の船隊が進んでいた。
その船隊の中には、伝説の海賊団の船、ブラック・フェニックス号の姿も混じっていた。
「この海域は私でも来たことがありませんね」
ブラック・フェニックス号の舵を取るのは当然船長のアルバーノ……もといリュシエンだ。
「この海を支配したお前でも?」
「……揶揄うのはやめてください、ロアード様」
「何言ってんすか、船長! 支配してたのは本当のことじゃないっすか!」
陽気に笑うヘススに、困ったようにため息を付くリュシエン。
「いやぁ、それにしても、船長が本当に帰って来てくれたんっすね」
「ああ、こんなに嬉しいことはないぜ……」
舵を取るリュシエンの姿にヘススや船員たちが嬉しそうに感嘆の声をあげる。
中には涙ぐんでいる者までいた。
今のリュシエンは……かつてアルバーノと名乗り、船長をしていた頃のそのままの姿をしていた。
長い金髪を編み込み横に流しているのはいつも通りだが、三角帽子とコートを着ていた。
リュシエンが当時着ていたお気に入りの船長服である。
船員たちは船長がいつ戻ってきてもいいように、大事に残していた物だ。
魔物のサハギンの丈夫な皮から作られたこの服はリュシエンが自作したものであり、水捌けもよく着衣したまま水中に潜っても邪魔にはならず、年月が経った今、袖を通しても大丈夫であった。
「ふふ、今のお兄様とってもかっこいいです! ミレット様もそう思いますよね?」
「がう!」
そんな兄の姿に、ファリンはニコニコとしていた。
いつもと違う兄の姿と一面を知ることができて嬉しいようだ。
ミレットは……よくわかっていない様子だが、大きく返事をしていた。
「……あなたたち! ファリンが見ています。しっかり仕事をしなさい!」
「あ、すいませんっす!」
「アネゴが見ているんでした!すいやせん!」
妹にそう言われては、しっかりと船長をしなければならない。
リュシエンがビシッと命令を飛ばせば、涙ぐんで止まっていた船員たちが慌てて持ち場に戻り始めた。
「アネゴ、よかったら見張り台に登ってみやすか? 天気は悪いっすけど眺めはいいんですぜ」
「……! 登ってみたいです! お兄様、いいでしょうか?」
「……安全には気をつけてくださいね。ミレット、もしもの時は頼みます」
「がうがう!」
ファリンは嬉しそうにミレットと共に、船員の案内を受けながら、船のマストを登っていく。
「慕われているな、アルバーノ船長」
「リュシエンで構いませんよ、ロアード様。……その名前、偽名ですから」
「……ああ、知ってる。かつて一級冒険者として名を馳せたエルフの名だ」
「……やっぱり、そこまで知っていましたか」
「元冒険者で、俺と並ぶほどの実力者。しかもエルフとくれば、当てはまる候補なんて一つしかなかったからな」
リュシエンが困ったように笑う。
ロアードは実は最初からすべて知っていたようだ。
自分がかつて海賊であったことも、一級冒険者であったことも。
"アルバーノ"という名は元々、かつてリュシエンが旅をしていた時に名乗っていた偽名だ。
二百年前、エルフの村を飛び出した彼は村との縁を断つために、本当の名前ではなく偽名を名乗ることにしたのだ。
「当時の私というのは……自分がエルフであるということが嫌でした。あの村にいる人たちと同じであると認めたくなかったのでしょう……だから一度、名前を捨てたんです」
……これはリュシエンがエルフでありながら、木々や植物との縁も切れてしまった本当の理由でもある。
一度、エルフであることを名前と共に捨ててしまったが故に、彼は森との縁も途絶えてしまった。
この世界で名前を捨てるということは相応の覚悟がいる。
積み重ねた実績も、名声も、信用も、繋がりも、すべてを捨て、一からやり直すことになる。
「見知らぬ土地に文化、さらに頼れる人もいない。冒険者になった直後は大変でしたね」
「それでよく一級まで登りつめたものだ」
「……私が長生きなだけですよ」
しかしながら名を捨てても、エルフというのは変わらず、長い寿命はそのままであった。
縁が途切れても、種族までは容易く変わるものではない。
「記録では二十年でなっていた。十分早いだろ」
「……十年余りでなったあなたよりは遅いですよ」
……稀代の天才、覚醒者たるロアードと比べると確かに遅いのだが、リュシエンも早い方だった。
そもそも一級にも成れずに冒険者を引退する者が多くいる。
一級になれた時点でかなりの実力者だ。
「……それで百年余り冒険者として活躍した後、海賊になったわけか」
「ええ……。最初は海賊退治を受けたんですよ」
リュシエンが受けた依頼は、ただの海賊退治だった。
ララハ諸島を暴れ回る海賊を討伐するという、なんてことのない依頼。
一級冒険者だったリュシエンが本来受けるような依頼でもなかったが、それは多額の金が積まれた指名依頼であった。
指名依頼であるため、リュシエンは依頼を受けて討伐に出向いたのだ。
「すぐに終わる依頼だと、思っていたんですけどね……」
……そこで出会ったのが、彼であった。
一級冒険者だったリュシエンは強者故に少し退屈していた。
そんなリュシエンの鼻っ面をへし折って、彼は現れたのだ。
豪快に笑いながら、自由奔放に生き、海の無頼漢たちを束ねていた海賊の男――フェリクスに。
『――海賊になるつもりはないか?』
勝敗が付くことなく終わった戦闘の後に、フェリクスがリュシエンを仲間に誘ったのだった。
「……それで海賊になったのかよ」
「私に指名依頼を出したのが腐敗した貴族たちだったのもあるんです。彼らの言いなりになるのも嫌になったので……あと冒険者にも飽きてきていたのもありまして……」
建前と本音が混じっているが、どちらも感じていたから、リュシエンはフェリクスの誘いに乗ったのだ。
何よりも憧れを抱いていた。自由奔放に生きるフェリクスの姿に。
リュシエンは自由を求めてエルフの村を飛び出したのだから。
「……悪くなかったんだな」
「……なぜそう思いましたか?」
「そういう顔をしている」
ロアードに指摘され、リュシエンはなんとも言えない表情で顔を逸らした。
海賊をしていたのはたった五年ほどだ。
長命種にとっては瞬く間だったが、忘れがたい時間をリュシエンは経験した。
面倒だからと船長の座を押し付けられたことも、船長と副船長が金髪だから船の名前をゴールド・フェニックス号にしようか船員たちが迷っていたことも、襲った商船でこき使われていたヘススが仲間になりたいと頼み込んできたことも……昨日のことのように思い出せる。
「ええ……ですが、すべて過去のことです。……今、ここに立っているのが不思議なほどに」
そんな過去に別れを告げ、"アルバーノ"という名と共に、すべてをあの時の海に置いてきたつもりだった。
『帆を広げ進め〜♪ 我らは黒き不死鳥〜♪』
陽気な舟唄が聞こえてくる。
懐かしい船員たちの歌声だ。
一つ違うのは、その中に妹の声も混ざっている。
……妹に舟唄を教えたのだろう。
それを船長として舵を手にしながら聞いている。
本来なら、ありもしないはずの光景だった。
「私の過去の話はもういいですよね? ……それに、そろそろ《還らずの海》に入りますから気をつけてください」
……現実味がない光景を見過ぎていたが、ここに来た目的を忘れてはならない。
かつてこの辺りは古代魔導時代のとある帝国の首都があったとされる場所だ。
現在は船が迷い込めば二度と帰ってくることがない場所……《還らずの海》と呼ばれていた。
それはここがシーサーペントの縄張りであるからだ。
今回、リュシエンたちがこの海域にやってきたのは他でもない、シーサーペントと偽物のアルバーノ海賊団を追ってきたのだ。
ここがシーサーペントの縄張りであることは有名だが、さらに捕らえた水生族を尋問したところ、この辺りに彼らの秘密の拠点があるという情報が出たからだった。
「……注意! 前方注意ー!」
見張り台から鋭い声が響いた。
同時に前を進んでいた船の真下の海が盛り上がり、水中から何かが姿を現した。




